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香記  作者: 鏡春哉
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プロローグ

 今でもよく覚えている。

 あれは、本当に最悪な出会いだった。


 その日は空が落っこちてくるのではないかと思うくらいに薄暗く、どんよりとしていて、挙句雨まで降っていた。土砂降りというほど酷くはなかったけれど、淑やかに降る雨は、逆に心の痛いところを突き刺してくるような何かがあった。それならいっそ、暴風雨にでもなってくれれば良かったんだ。荒れ狂う雨風に晒されて、何処かへ吹き飛んで行ってしまえば良かったんだ。――そう思う程、俺の心は大きな穴が空いてしまったかのように何もなかった。だからなのか、俺は行く当てもなく虚ろに彷徨っていた。

 夕暮れ時。黄昏時ともいうこの時間は、暗くなり始めた頃合いで、人の見分けがつきにくくなる。そうでなくても雨天で薄暗かったから、この時間帯はもう、夜のように真っ暗だった。定刻を迎えた街灯が、ポツリポツリと点き始める。その無機質な灯りは、三十度に傾いた細い雨の線を、一層際立たせていた。

 塵も積もれば山となる、なんてふざけた諺があるけれど、馬鹿にしてはいけない言葉だと俺は思う。家を出て何時間歩き続けていたかは知れないが、初めは服や肌をしっとりと濡らす程度だったものが、その時には既に、びしょ濡れになる程水分を吸い取っていた。長く無造作に伸びた前髪から、大きな雫が滴り落ちてくる。その水滴は、濡れた顔の上に落ちて、壊れた。

 何処まで歩けばいいのか。何時まで歩けばいいのか。そんなものは、自分自身でさえ解く事の出来ない難問だった。されど、歩いて家から遠ざかっていく度に、目的達成に近づいている事だけは分かっていた。

 俺は不意に立ち止まり、空を見上げた。相も変わらず雨は静かに降っていた。この雨のように、俺も静かに笑おうとした。しかし、俺には出来なかった。表情筋が硬直していて、無理に笑うことが出来なかった。

 否。笑えなかった。

 目的を果たしつつあるからと言って、抱えている重荷が軽くなるわけではない。それが直接笑みに直結するか否かは知れないが、要は気の問題だったのだと思う。

 そう。俺は、軽くならない事を分かった上で吹っ切れるほど、大人ではないのだ。寧ろ、幼過ぎると言っても過言ではない。

「坊や。風邪を引くよ」

 俺が虚ろに考え事をしていた時、右側から低くて優しい、女の声がした。大人の女の声。俺は声のした方へ、油の切れたロボットの如く振り向いた。

 黒い傘を差した、若い女の人だった。服装は暗くてよく見えなかったが、どれも暗い色調の服ばかりを着ていた。まるで、終わった葬式から帰ってくる途中のような格好だった。

 唐突に雨が途切れた。近付いてきた女が、俺の方へ傘を傾けてきたのだ。

 女は僅かに首を傾げた。短く切られた黒髪が、さらりと零れる。

「お家は、どこ?」

 女は優しい声で尋ねる。俺は女の顔を見た。彼女は、とても柔和な表情をしていた。

 しかし、その表情の中に、己が畏怖するような感情が込められていた。

 ギロリと光る、金色の瞳。

 まるで、獲物を捕らえたかのような瞳。

 人のものではないかのような瞳。

 獣の瞳。

 一瞬で、彼女が危ない人間であると悟った。最近、この辺りで誘拐事件が頻発していると、新聞の地方欄に書いてあったのを思い出す。

 しかし、このような警戒心を脳裏に巡らせるのも、束の間だった。俺は、大きく首を横に振っていた。

 あの家に戻ることは、もう出来ない。

 かといって、何処かに行く当てがあるわけでもない。

 天涯孤独。――それが今の俺なのだ。

 ならばいっそ。

 誘拐でもされてしまえばいい。

 そう思った。

 見上げると、女は嫌な笑みを浮かべていた。案の定か、と心の中で呟きながらも、俺は女の下へ歩み寄った。

 ふわり、と甘くて清々しい香りがした。想定外な事態が起こっていることに気づくまで、さして時間はかからなかった。

 長時間雨に晒されて、心から冷え切っていた体が、仄かに温もりを感じ取ったのだ。

 女は俺を抱きしめていた。それは恐ろしい瞳とは対照的に、優しく、俺を落ち着かせるような抱擁だった。

 誘拐犯とはこのようなこともするのか、と半ば呆れつつ、俺はされるままに抱かれていた。すると、突然、耳元に息が吹きかかった。一瞬にして、肝の縮まるような思いがする。

「こんなに体を冷たくして。まるで死体のようだよ」

 俺は固まっていた。別の意味といって、何が別なのかは良く分からない。けれど、今までとは明らかに、全く別物の緊張感が俺の中を支配していることは認識できた。

 女は俺の首筋に顔を埋めていて、今し方どのような表情をしているのか、見ることが出来ない。しかし、俺にはどうも、彼女が笑っているようにしか思えなかった。

 俺にできなかったことを、きっと、いとも簡単にやり抜いてしまっているに違いないのだ。

「それとも何? 自殺でもしようとしていたのかな、君は」

 女は身も蓋もなく、八歳児である俺の耳元で、生々しい用語を囁き続ける。

「駄目だよー、そんな事考えちゃあ。あ、もしかして僕のこと、誘拐犯だって思った質? 嫌だなぁ。あんな美学も何もない、感情論だけで動くような奴らと一緒にしないでよー」

 優しい筈の声が、黒くドロドロとした言葉で穢れてゆく。

「そう言えば君は、僕を誘拐犯だと思った上で、僕に近付いて来たんだよね? って事は、これはやっぱり死にたいっていう意思表示だったのかな?」

 女は息継ぎをする間もなく喋り続ける。

「でも、ごめんねー? 僕ね」

 そこまで言うと、女は俺の耳元から顔を遠ざけた。背中に回していた両手を肩に置き換え、俺を真っ直ぐに見据える。

 初めに見た時とは、驚くほど違った瞳をしていた。

 純粋に煌めく、金色の瞳。

 無垢な瞳。

 無邪気な瞳。

 まるで子供のように、好奇心に満ち溢れた瞳。


「アンタみたいな抜け殻を殺したって、僕になーんの利益もない事くらい、知ってるもんね」


 女はニカッと、楽しそうに笑った。

 この時初めて、俺は感情を表に出したようだった。女はそれを見て、薄く息を漏らした。肩から手を放し、女は立ち上がる。

「ま、殺人罪で逮捕されるわ、懲役を受けるわで、損ばかりだろうね」

 それだけ言い捨てると、女は俺に背を向けた。俺は口を開こうともがいたが、結局開くことが出来なかった。女は気さくにひらひらと手を振っていたが、その後ろ姿が、何故か「もう何も言うな」とでも言っているような気がしたからだ。

 女は暗闇に消えていった。行ってしまった後でも、俺が直接雨に打たれるようなことはなかった。



 蘇芳佑磨、小学三年生の秋。

 残された胡散臭い真っ黒な傘だけを手掛かりに、一人、動き出す――。


どうも、鏡春哉です。

今まで小説を書いてきたことはあるのですが、Web投稿は初です。

気長にお付き合いいただければ幸いです。

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