百鬼語之一
百物語をしよう。そう言いだしたのは誰だったか。
揺らめく蝋燭の明かりの中、一つ目の怪談が始まった。
「これは、実際に体験したことなんだけど」
怪談話にはありがちな切り口で、最初の語り手は話し始めた。
「夜の大路を歩いていたんだ。場所は、あまり覚えていない。人通りはなかったけど、夜の京を出歩くような酔狂は、このところ少ないからね」
月は、明るかった。満月ではなかったけれど、満月に近い頃合いだったんだろうね。それで、夜道を歩くにも差し障りはなかったよ。
え、灯りはなかったのかって? いや、手ぶらだった。提灯なんて、要らないし。
私は夜目が利くから、月夜に限らず闇夜だろうと……そんな物好きは私だけだって? まあ、そうだろうね。
語り手は薄らと笑みを見せるが、すぐに拭い去ったように本題に戻る。
「それで、月夜の話に戻るけど……そんなわけだから、道の行く手に、白いものが横たわっているのがよく見えた」
白いもの。誰かが、息を呑んだらしい気配がする。
「ああ、人間だな、というのが分かったよ。嫌な気分になったけど、まあ珍しくもないよね。物盗りにしろ、怨恨にしろ、この都には死体がごろごろだ。不逞の輩が増えた分、減っていく人間も増えた」
そう言って、また笑う。その微笑に少なからずぞくりとしたのは、一人ではないはずだ。怪談話のはずなのに、それを語る存在の方が、よほど怖い性格をしている。
「それで、まあ死体ならいいか、と思って、脇を通り過ぎようとしたんだ。そうしたら――」
「ちょっと待て。おま……平気か? 平気なのか!?」
「え、なにが?」
きょとんとした表情。邪気のない顔つきだが、それがかえって背筋を寒くさせる。
「だって、死体なら別に悪さはしないでしょ。腐りはするけど、死んだばかりならそれもないし」
何が言いたいのかわからない、という口ぶりに、そうかい、と横やりを入れた相手は諦めたように引き下がる。あるいは呆れたのか。
もう口をはさむ者はなかった。
「で、脇を通り過ぎようとしたんだけど――そこで、あれ?って驚いたんだ」
そこでいったん口を切り、周囲のものを見た。ジジ、と蝋燭の芯の焦げる音だけが聞こえる。
「死んでたと思ったのに、動いたから」
あ、生きてたのか、って最初は思ったんだ。だって、動くってことは死んでないってことでしょう?
でも、改めて相手を見下ろして……もっと、あれ?って、思ったんだ。
その人、腰から下が無かったんだよね。
上半身だけだった。
「それでさ、さすがに動転していて、切り口がどうなっているかとかは見ていられなかったんだ。だから、下半身がなんで無いかってことは、結局分からない。今にして思うと、ひょっとしてすごく丈夫な人間だったのかな、とか、いろいろ考えるんだけど――」
「いや、そんな人間いるか」
「そうかな。ひょっとしたら、日の本は広いんだし、そんな人間がいないとも言い切れなくない?」
そんな頓珍漢な考えを述べつつ、語り手は己の体験の続きを述べる。
とにかく、私はその死体(?)の傍で、動きを止めた。すると、地面に横たわった相手と目があったんだ。
……いや、さすがに逃げたよ? ちょっと怖かったもの。
一歩、少し後退ったんだ。そうしたら、今度は向こうも、ずるり、と間合いを詰めてきた。離れてほしくないとでも言うように。
どうやって近づいてきたかというと……ほら、下半身がないからね。腕だけでこう、地べたを這いずって……こちらに寄って来た。うん、あれは怖かったな。でも、もっと怖いのはこれからなんだ。
とりあえず、私は逃げた。意外だって? 失礼だね。
くるっと向きを変えて、元来た方向へ、走って逃げたよ。
そうしたら……。
追いかけて来たんだ。
「走りながら振り返ったらさ、相手も同じくらいの速さで距離を詰めてくるんだよ? あの、肘から先の部分だけで。あれはちょっと真似できないなあ――」
言っていることのわりには声音に変化はなく、その平坦さがかえって聞き手の恐怖を煽りたてる。
とにかく、後ろから追いかけてくるものだから、焦った。
追いつかれたらどうしよう? どうなるんだろう?――嫌な予感しかしなかった。
あれほど怖い追いかけっこはなかなかできないよ。肘だけで張ってくる何かが、ものすごい速さで、ずりずりずりずり迫ってくる――。ああ、言い忘れていたけど、あれ、たぶん女の人だったと思うよ。髪の毛は乱れていたけど長かったし、着物の感じもそうだった気がする。
それで、どうなったかというと、まあ……追いつかれることはなかった。無事に逃げきったよ。何度目かの十字路で、後ろを振り返ったら、ついてきていなかった。
ほっとしたけど、今度は前の方にいるんじゃないか?とか、見えなくなった分いろいろ考えてしまってね。結局、怖くて怖くて、家まで走り通しで帰ってしまったよ。
「で、家に帰った後も、いつもよりびくびくしてしまってね。私は一人暮らしだから、余計に考え込んでしまう」
淡々とした言葉を聞きながら、まだ続くのか、という顔で聞き手は語り手を見守る。家に帰りついて、それで終わりではないらしい。
「そのまま、布団をひっかぶってすぐに寝てしまったんだけど――それから当分、夜が来るたびに嫌な気分になった」
しばらくは、夜は余計なことはせず、朝まで熟睡するようにしていたんだけどね。
その、夜中に厠に行きたくなる、ということは、仕方のないことだけど、皆も覚えのあることだろう。
できるだけそれも我慢するようにしていたんだけど、ある時とうとう耐えられなくて、夜中に厠に起きたんだ。
いつもだったら平気なのに、灯りのない部屋が怖い、先が見えない廊下が怖い。真っ暗な庭先が怖い。そして、なにより厠が怖い。
暗闇から何かが出てこないかとか、次を曲がったら何かに出くわさないかとか、扉を開けた先に何かいるんじゃないかとか……よくもまあ考えつくものだ、と自分でも感嘆するぐらいだよ。
「そのわりには、さほど怖そうな顔はしておらぬな」
「まあ、一種の通り病のようなものさ」
要は慣れだよ、と言葉を返す。もしくは、時間が経てば忘れてしまうものだ。
「もっとも最初のうちは、やはりこたえたけどねえ。出てくるなら、せめて押し込みや人斬りの類だったら、どんなにか気が休まったろうに」
「……なんだいそのたとえは」
「つまりね、生きた人間ならどうということはない。ただ、いわゆる《お化け》に出て来られたら、どうしようもなくてね。盗賊の相手をした方がよっぽどましさ」
それでも背に腹は代えられない。そのまま語り手は、厠で用を足したのだ。そして、どうなったのか――なにがあったのか。
「出たんだよ」
語り手は語る。しかし、やはり言葉に反して、あまり顔は怖そうではなかった。あくまで淡々と、語りは続く。
「厠って、戸を閉めても上に隙間が空いているじゃない。あそこから、顔が、のぞいた。逆さまの顔だった」
白い額と、目元だけが分かった。瞬きは、していなかった。
隙間、と言っても、せいぜいそれくらいの大きさでしかない。それでも、外にこいつの本体が張り付いている――と思うと、動けなかった。
でも、……それで終わりじゃあ、なかった。
次の瞬間、そいつは外から中へと入ってきたんだ。
入ってこられる隙間じゃないのは分かっている。分かっているけれど、ずるずるずる、と、蛇のような動きで這入ってきた。丁度、夜道で出遭ったときのように。人間ではありえない速さ、這いずるような動きで。
そして――。
「――で、そこで、布団の中で目が覚めたんだ」
「夢オチかいっ!?」
固唾を呑んで成り行きを見守っていたというのに、あまりな結末に一同は心を一つにして、ずっこけた。
「で、丁度厠に行きたくなっていてさ。ああ、だから厠に行く夢を見たんだなーって納得したんだけど、夢のせいで厠に行くのが余計に怖いし。全力疾走で行き来して、済ませてきたよ」
あ、前半部分は夢じゃないから、安心してね、と付け加える。
「怪談話で夢オチを持ってくるなよ……」
「でも、実際にこういう夢を見たっていう《体験談》だもん」
少し不満そうに第一の語り手は抗議する。
「しかし、まあ……」
誰かが辺りを見回すように呟いた。
夢オチを是とするか否とするかは議論の分かれるところだが、百物語の駆け出しとしては、なかなか良かったのではなかろうか。意外に。
「意外ってどういうことさ」
「いや、おまえ幽霊とかに怖気づくタマじゃないし。実際、前半は怪談とは別のところで怖かったぞ」
「普段なら《まあ、こいつだからなあ》で済む話なんだが、怪談でそれをやられると正直、嫌な汗かいた」
それはそれとして、皆が話に引き込まれたのは確かであるし、淡々とした語り口も怪談の雰囲気を煽り立てていた。
第一の話を終えて、場の緊張は少し緩んでいる。しかし、これは百物語なのだ。一の次には二の語りが控えている。
さて、と次の語り手が腰を据え直すと、その前に、と第一の語り手が口をはさんだ。
「蝋燭。消すからね」
一言、断ってから、ふうと息を吹きかけた。蝋燭の火は途端に弱まり、周囲のざわめきは静まっていく。灯りの数は一つ減って九十九となった。
その時――。
ひゅっ、と誰かが息を呑んだ。
狭い座敷の内、誰が呼吸したかはすぐ分かる。ほの暗い空間のただ一点に、皆の視線が集中した。
呼気を漏らした主は、皆とは全く別の一点を凝視していた。
顔色のほどは、分からない。屋内に立ち籠める夜闇と、揺らめく火影に惑わされて、判然としなかった。
「どうした?」
声をかけられて、彼は焦点をようやく人の顔に合わせた。
人がいることを思い出して、ほっとしたような――そんな奇妙な表情が顔の上をよぎった。瞳に安堵と不安の色が見え隠れしている。
「いや……、なんだか」
蝋燭をかき消した一瞬に。乾いた唇がぎこちなく動く。
「何か、浮かび上がったような気がした」
彼の視線は、吹き消されようとしている蝋燭に向いていた。だが、彼から見て蝋燭の向こう側――暑さにまかせて開ききっていた板戸の向こうに、一瞬白いものが浮かび上がって見えた。そのため、彼は驚いて息を変なふうに吸い込んでしまったという。
目の錯覚かもしれない。だが、百物語の最中のことであり、その場の者たちも沈黙をもって応じた。驚いた彼の気持ちはよく分かった。誰もが白いものと聞いて、先程の怪談噺を思い浮かべた。夜闇を這う白い手。
肝の据わった者が板戸の向こうに身を乗り出したが、板張りの床が闇に向かって消えていくばかりである。目に見える怪異は影も形もなかった。
「気のせいじゃないの」
そうつぶやいたのは、這う怪異の語りを終えた者だった。
今しがた這う怪異のことをその口で語ったばかりだというのに、どこか他人事のように興味のない口ぶりだった。
それを皮切りに、ぽつりぽつりと他の者も同意の言葉を口にする。
「そうだな」
「ああ……」
しかし、どんな言葉を口にしようと、背中を氷が滑り落ちるような冷ややかさは拭い落とせなかった。むろん、その冷ややかさ、緊張感を求めて怪談噺に集った面々だったが、やはり《何か》が間近にいるかもしれないという想像は、その身を落ち着かなくさせる。
噂をすれば影、というように、怪異を語ったことで怪異が引き寄せられてやってきたのではないか。そんな妄想がこびりついて離れようとしない。
それなのに、張本人の気にも留めない様子を眺めると、なにやら別の意味合いも籠もって背筋がぞっとしてくる。
話を聞いただけの者たちと違って、実体験として怪異に行き遭ったというのに。
「おまえ、怖くないのかよ……」
半ば呆れ、半ば腰を引きながら傍らの者が口を開く。常日頃、他人とは変わった振る舞いが目につく相手だが、この百物語の場では、その態度がいっそう奇妙に思えて、うそ寒い。
怪異を見たと証言した者は、己の見たものは見間違いかもしれないと言い、そう思おうともした。しかし、浮かんでくるもう一つの思いを封殺することもできなかった。
怪異を語れば怪異を引き寄せる。――だが同時に、怪異に引かれた人間も、怪異を引き寄せるのではないか。
――第一の語り手が見た《夢》は、本当に夢だったのだろうか?
「まさかおまえ、何かに取り憑かれていやしないだろうね」
茶化すような口ぶりで誰かが言う。ごまかすように明るくつくろっても、重苦しい空気は存在感を示して座敷に淀むばかりだ。
問われた語り手は、場にそぐわない、屈託のない笑みを浮かべて返答した。
「まさか」
にっこり、と。作られた表情はいつもの顔と寸分違わず、問いを発した者も黙り込む。
第一の語り手だった者は微笑んだまま、ぎょっとするような内容を続けて口にした。
「まあ、仮にそうだとしても、別段気に留めはしないね」
夜は深く、闇は濃い。
「――執着する霊が一つ二つ増えたところで、今さら気にはしないさ。どうせ、何人も斬り捨ててきたんだから」
その背後の闇に、板戸の向こう闇に、無数の白い手足が生々しく浮かび上がるようだった。
百物語はまだ一人目、始まったばかりである。