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第8話


 今日も、昼下がりの神話談義が始まる。

 ベルカナが入室すると、ウィアドはいつもと同じように大きな椅子に腰かけ、宙に浮いた脚を組んでゆったりと待っていた。紅茶とスコーンを用意したセレスティナは扉の傍に。

 切り出し方に困っているベルカナを気遣ってか、先に口を開いたのはウィアドの方だ。

「さて。ではいよいよ、君の知る物語を聴かせてくれるわけだな」

 落ち着いた少年の声音にはくつろいだ響きがある。そこに相変わらず覇気と表情はなかったが、わずかながら興味を向けてくれていることに少女は密かに胸を撫で下ろす。

 持参したあの本を取り出して机上に置くが、開くことはしない。代わりに少しの間だけ翡翠の目を閉じ、それからさも今しがた思案したかのように小首を傾げて、静かに語り始めた。

「フェンリル狼を、ご存知ですか」

「当然」

 ウィアドの返答は短く素っ気ないものだった。だがそれもそのはず、かの狼の眷属の存在は創世を語る上で欠かせないものだからだ。

 金狼スコルと銀狼ハティの父親であり、千変万化の道化師(トリックスター)の血を受け継いだ巨狼、フェンリル。破滅をもたらす獣と予言され、その予言を恐れた者達により地下へと封じられた。災厄の使者は結果的に文字通りの礎となって、現在に至るまで大地を支えていると言われている。

「フェンリル狼は口を閉じられないよう、剣を口内に引掛けられた上で封じられているのだろう。開け放ったままの口から流れ出た唾液が、川となった」

 我が意を得たりとばかりにうなずくベルカナ。

「その通りです。この国に流れるヴェーン川だと言われていますね」

「あそこを調査するために神殿の関係者と揉めたからな。よく覚えている」

 肩をすくめたウィアドが零すのは、未だ王の補佐として政を行っていた時の話。何気ない呟きにも懐かしむような響きはなく、ただひたすらに淡泊な独白だった。

 それでもベルカナは少し会話が繋がったことを喜ばしく思い、多少の脱線を承知で軽く身を乗り出す。そもそもが二人で(・・・)解呪の手がかりを模索するという約束だったのだから、こうして王子の側から話をしてくれるのはありがたいことだった。

「揉めた……と仰いますと?」

「ヴェーン川は国外れの森から流れ出ている。昔からハティが棲むと伝えられている森だ、侵してはならぬと神官達が調査隊の立ち入りを認めたがらなかった」

 神話が護る国であれ、理想だけでは人は生きていくことができない。政治と“聖事”。それぞれにも保つべき領分がある。

 咳払いをした時に王子がばつの悪そうな表情をしたのは、ベルカナ自身の願望が見せた光景だったろうか。目線で促され、惚けたように白皙を見つめていた彼女は、内心で少しだけ慌てた。

「フェンリル狼が封じられる際に、その体を縛ったグレイプニルという紐があります。鉄枷でさえも引き千切る獣でしたが、“柔”の力にはとうとう敵わなかったのだとか」

「知っている。そのグレイプニルという紐、材料は、確か……」

「猫の足音、山の根、熊の(けん)、魚の息、鳥の(つば)、女の髭です」

「ああ。どれもこれも、手に入らない奇跡の品ばかりだ」

 知らなかった、のではなく、思い出した、という反応を見せたウィアドは本当に神話にも明るいのだろう。まさか説明をすることもなく話が進むとは思っていなかったベルカナは、再度驚きはしたものの、知識を共有できることが嬉しくて笑みを深めた。

「お詳しいのですね」

 少女の素直な言葉に、ウィアドは一瞬だけぎょっとしたように目を瞠る。

「では……フェンリルが縛られる際に、軍神チュールの腕を噛み切ったことも?」

「あ、ああ。知ってはいたが……」

「その失われた腕の意味も?」

「それは知らないな」

 何でも知っているわけではない。当たり前だ。

 それを示すことができ、ウィアドは密かに安堵していた。少女の語る機会を奪ってしまうことを考慮しただけではない。ただ知らないことがある(・・・・・・・・・)ことを伝えておきたかった。

 心なしか早口で返された答えに、ベルカナもまた目を軽く見開いた。しかし些細なことだ、気を取り直して慎重に明るく物語を紐解いていく。

「フェンリルは縛られる際に、戯れであることの証明として、神々のひとりに腕を口の中に入れるように要求しました。彼らが封じるつもりであることを、フェンリルは伝えられていなかったのですね。グレイプニルを引き千切ることができないと悟るや否や、狼はその口を閉じ、勇敢なる軍神チュールの右腕を噛み切ってしまいました」

 一呼吸。

「チュールが失った腕は“調停の腕”であったそうです」

「調停?」

「はい。混沌の世となることを憂慮した彼は、法を司る神フォルセティにその役割を託しました。ゆえに世界から秩序は失われませんでしたが、仇であるフェンリルが眠る土地にフォルセティの加護はなく、それでマーニアとソーリアでは太陽や月と狼達の間に友和がないのだと、そんな説もあるのです」

「なるほど。この国に馴染みのない神なのだな。フォルセティという名は、初めて耳にしたぞ」

 淡々と呟く王子を、ベルカナは今度こそまじまじと見つめた。率直な感想を漏らすウィアドの姿は、彼女が抱いてきた想像の中の貴族とは異なっていた。

 無知を認められる人はそれだけで強い。限界を知るところから努力は始まるのだから。

 努力。

 もしかすると王子は天才ではなく、秀才と呼ばれるべきなのかもしれない。確かに生まれた時からある程度の素養はあったろうが、それを高めようと努めなければここまでの誉れは得られなかっただろう。

 それを思うと、天地ほども離れた別世界の相手にも途端に親近感が湧く。同時に、好奇心に満ちている澄んだ宵闇の瞳に、わずかばかり胸が高鳴った。

「どうかしたか」

 怪訝そうに柳眉をひそめる美麗な少年。隠そうと顔を背けても、ベルカナの口元は綻んだままだった。

「いえ……それで、ですね。わたしはこの大地に調停の腕がないことを、必ずしも悪いことだとは思わないのです」

「日が進むからか? 狼が追わねば世界は廻らない」

「それもあるのですけど」

 破滅を前提とした神話。災厄すらも糧とできるのは、人の心だけ。

「調停されなければ、確かに争いは消えないでしょう。しかし逆に言えば、私達は闘うことができるのです。滅びを知ってなお闘い続ける神々のように、苦難に立ち向かい、終末に抗うことが」

「……」

 無駄だ、と糾弾する暇もなかった。ウィアドはただ呆気にとられていたのだ。

 なんという前向きな解釈だろう。彼は古典の注釈書も解説論文も読んだことがあったが、これほど突き抜けた理論を広げられたのは初めてで、その理解には少々の時間を要した。

 目の前で微笑んだ少女に、特別なことを述べたという気負いは感じられない。それでも彼女は、破滅の物語にある小さな希望の灯を掬い上げてみせた。まるで逆転すれば意味も反対になってしまう古代文字(ルーン)のように。

「それは、何かの本で読んだのか?」

「いえ、わたしの勝手な解釈です」

 でも、と続けて。

「証拠、といいますか。的外れではない証があります」

 ベルカナは机上の古びた本を優しく撫でた。

「狼が生んだ川。ヴェーン、というのは古代の言葉で“希望”という意味ではありませんか」

 そう言って微笑む。

 数度の目瞬きの後。そうか、と呟いたウィアドの表情は、最初よりも随分と和らいだものだった。


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