第7話
「陛下」
玉座に身を埋めた老齢の王の背後に、仮面の男。
王の間には彼ら以外誰もいない。ただ据えられた像の如き国王と、道化の衣装に身を包んだ――恐らくは――青年。
「陛下、ご機嫌麗しゅう」
絡みつくような声。後ろから頬に添えられた指の冷たさに、王は微かに体を緊張させた。仮面の男はクスクスと笑うと手を離し、老人の目の前へ軽やかに躍り出て慇懃に一礼。
それは、虚ろの空気を纏った男だった。白磁の仮面の口は三日月の弧を描いているのに、まるで退廃を引き連れた道化師だった。
「よもやあのような小娘を信頼なさるとは」
「おぬしは反対だったか」
「いいえぇ」
大仰に肩をすくめてみせる。ふわりと揺れた髪は昏い金色。不気味な笑みを湛えた仮面は、顔の傷や病を隠すためのものではないのだろう。
――その者が立つところ、全てが舞台。その者が紡ぐ物語、全てが歴史。
仮面の男は数月前、突如として王の前に現れた。
敵意は感じられなかったとはいえ、胡散臭さの塊のよう。どこから城に入ったのかと驚く王は直後に、さらに驚愕の光景を目の当たりにすることとなった。仮面に道化の衣装ならば衛兵が引き止めたろう、廊下を行く侍女が気に留めたろう……だが実際には誰一人としてこの怪しい男に対する反応を見せなかった。つまり、見えないらしいのだ、国王以外には。
賢い王はすぐに悟った。この者は、ヒトではないのだと。
「退屈しないで済みそうですね、ええ」
正体もその目的もわからないまま。今も胸に手を当て見上げる顔には無機質の笑顔が貼り付いていて、声音から、奥にある顔も笑っているのだろうと判断する。
息子のことで苦悩する王に、道化師は助力を申し出た。それが単なる彼の暇潰しであったと気付いたのは、幾人もの無名の学者までが地下牢送りになってしまってからだった。
それでも、である。父は子を救いたかった。
それに――、と王は心の中で何度目とも知れない言葉を自分に言い聞かせる。もしかすると、この仮面の男は、もっと崇高な目的を持っているのではないだろうか。
王がそう考える根拠はあった。彼がヒトではないこと、そして。
「では哀れな知識人達の様子でも、見て来ましょうかね」
くるり回って掻き消えた道化師。その者はマーニア国王に対して、“ロキ”と名乗ったのだ。
*
これ以上贅沢な牢獄もあるまい。
そこは牢獄と呼ぶのも憚られるほどに普通の個室の様相を呈しており、“囚人”が快適に過ごせることを優先してしつらえられた空間だった。脱獄を防ぐために衛兵が監視してはいるが、広々とした個室に、剥き出しの地面ではなく敷物が敷かれ、古い毛布の代わりに寝心地のよさそうな寝台がある。
食べ物も物品も望めば何もかもが与えられる。ただ一つ、外の陽光を除いては。
そこでは研究に没頭することさえ自由だ。一度は敗北した、彼らの研究。歴史に負けたからこそ、彼らはこの地下牢に閉じ込められている。
「やぁ。調子は如何かな?」
ロキは誰に姿を目視させるも自在だった。もうすっかり顔馴染みとなった道化師に、気付いた地下の住人達は顔を上げる。初めは警戒していた衛兵達も、王の署名のある身分証明を見せられて以来、今では会釈までするようになった。
ちなみに彼は国王お抱えの芸人ということになっている。実際に詠ったり演じてみせたりしたことは一度もないのだが。
「おお、これは芸人さん。調子はそこそこですよ」
「それは良かった!」
いちいち大袈裟な応答を返しながら、長い通路を道化は進む。両側に並ぶ部屋は本来ならば罪人のためのものだろうに、この小国にそれほどの重罪人は滅多に現れることはなかった。民間の犯罪は民間で裁かれるし、それも罰金や鞭打ちなどの体罰がほとんど。歴史的にも有能な王家の転覆を図る者もいない。
ここは神話の国だ。ゆえに、人では抑えられない部分にまで統制が行き渡りやすい。
「……だから王子サマの呪いも解けないのだけど」
愉悦の滲む声で呟いたロキは、一つの部屋の前で足を止めた。道化師の来訪にも構わず、一心不乱に書き物をしているひとりの学者の姿があったからだ。
「馬鹿だね――」
「はい? って、あ、道化師さん」
ようやく振り向いた老年の学者に、ロキは言葉尻を飲み込んだ口で「これはどうも」と愛想の良い挨拶を続けた。
「また、お勉強中でしたか」
「ええ、まぁ。解呪の任を解かれたとは、まだ思っておりませんから」
第一王子の呪いを解くべく召喚された彼ら。王子にとって運命の日――数度の満月の日を迎えても芳しい成果を出せなかったために、民に明かされない真実と共に地下牢へと放り込まれてしまった。
だが、なおも諦めていない者は多い。この老いた学者のように。その言を支えるものが自尊心であると知る道化師だったが、あえて指摘することもなく
「熱心な!」
と感動を装うに留めた。
老人が照れたようにはにかむと、ろくに手入れもされていない髭で顔面が見えにくくなる。疲れた心身にとってたまの若者の反応は良い活性剤となるのだろう。――道化師が内心で嗤っていることなど、彼らが知る由もない。
「今度の“犠牲”はどのような方なのです? 貴方がこちらにいらっしゃる時は、何方かが新しく解呪の任にお就きになった時だ」
茶化すくらいの余裕は出てきたということか。学者の冗談混じりの問いかけにもロキは動じない。
「それが驚くことに、何と成人したばかりの若い娘さんで。父親の代理だとか」
「なんと……。それは本当に可哀想な」
絶句した老人は恐らく、己と同じように余生を牢獄で過ごさねばならなくなる、まだ見ぬ娘を憐れんだのだろう。結末は決まっていると思っている、偉業への自分の可能性を信じている。
ロキは嘲笑などおくびにも出さずに白い指を一本立てた。
「しかしあの娘さん、思わぬ切り札になるやも」
――ワタシのようにね。
“道化師”は続く言葉を無音で紡いだ。そして、言う。
「“ワタシは変わり、ワタシは出来事を生む”」
「は、い……?」
ぽかんとする老人を置き去りにして、上機嫌な道化師は再び通路を奥へ進み始めた。そこにはまだ空の独房が並ぶ。次第に暗く。虚ろは次の囚人を待ち構えている。
「上が詰まっていてはね、学問の発展は望めないのだよ。牢獄に入るのは耄碌した固定観念のカタマリだけでいい」
独白は誰にも聞かれない。聞こえたところで何にもならない。
「彼らがいつか青空を拝めたなら、少しは世界も進むだろうよ」
彼は変化し欺きすり抜ける達人。気紛れに事を起こしては、恩を売り恨みを買い、それでも不可欠な善悪の媒介。
――その者がもたらすは破壊。その者が生み出すは秩序。
「大事な子孫の大地、気になるのは当然さ」
仮面の奥、愉しげに笑い。道化の衣装は……暗闇へと吸い込まれるように溶け消えた。