第6話
夕餉を終えてから、少し。夜の帳も下りた頃、未だ休まない文官らの行き交う足音や侍女の忍び笑いが、ベルカナにあてがわれた個室の中にまで時々聴こえてくる。ゆったりとした疲労感に包まれた城内の空気も、彼女は割と好きだった。
食事はいつもセレスティナが部屋まで運んできてくれる。そこまで世話をしてもらうことも一人で食事をすることも、平民出身であるベルカナにとっては少々落ち着かないものなのだが、あえてそれを伝えてまた手間をかけさせるのも悪いと思い、黙っている。
王子に嫌われていると言ったセレスティナ。あれ以上の言葉を続けることはなかったが、彼女もまた何かしらの悩みを抱えているのかもしれないとベルカナは思った。だがそこまで踏み込むことは、恐らく得策ではないだろう。下手な申し出は驕った自己満足でしかない。
栗色の髪を束ねて流し、質素なワンピースを身に付け机に向かうベルカナは、旅立つ際に唯一の供として連れてきた旅行鞄から一冊の本を取り出した。革の鞄は一応は余所行きのものだったが、長期の旅行にはいつも持参していたものだったため、お世辞にも見た目は綺麗とは言えない。
しかし、取り出された本はそれ以上にぼろぼろだった。隅の丸まった紙束を綴じた紐の色は様々で、修理しながら相当に読み込んだであろうことが一目でわかる。
持ち運びにも耐え得る小さく分厚い書物の表紙は、擦り切れてさえいなければ、『神話全集』と読めたはずだ。ベルカナが最も愛読している本。
いわゆる古典のひとつで、大陸に伝わる神話をまとめたもの。どこの町の図書館や学校にも一冊は置いてあるような書物だが、読破する者はまずそういないだろう。
しかしそれに興味を持った少女がいた。内容量が多い分あまり安いとは言えないものだったが、小さな彼女は父親にねだって買い与えてもらった。それから数日は枕元に置き添い寝するほど喜んで、以来、少女にとっての宝物であり道標となった書。
ベルカナは昔から本を読むことが好きだった。中でも神話や伝承の類を好んで読んだ。
はじめは単に面白いと感じただけ。それが次第に人心を語り歴史を語り、道を示し助けとなることがわかり、いつしか探究心へと変わっていった。そして同じような動機から古典研究家となった父親に師事した。
裕福な家庭ではなかったが、ベルカナの興味の対象に関して父親は金に糸目をつけなかった。書物に興味を持てる暮らしは、農家などよりは余裕があったのだろうが、やはり父親がベルカナに自分の姿を重ねて見ていた可能性の方が高い。
大きな商家の次男だったベルカナの父は、家の跡を継ぐこともなく、興味に任せて書物に傾倒し――そして年月を経た後に少しずつ認められるようになったのだ。
とはいえ、王子曰く「地下牢に軟禁されている」学者達と比べればまだまだ無名。
どうして今回のことで父親が喚ばれたのか?
手によく馴染む本を軽く擦りながら、ベルカナは答えの出ない疑問をぼうっと思案する。代理ということで来たものの、最初の召喚は間違いなく父に宛てられたものだった。
“代理”。
成人したばかりの少女は物憂げな溜息を吐く。――父親は、やはり商家の出身なのだ。こんなにも大それた目的を娘へ託すなんて。
幾度目か知れない罪悪感を首を振ってやり過ごし、改めて手の中の宝物を丁寧に開く。
月女神マーニと銀狼ハティの神話。何度も開いてすっかり折り目のついた、お気に入りの頁だ。
歴史と神話は似て非なるもの。どちらも古の物語ではある。しかし歴史は主義に塗れて騒がしく、神話は静かに統制を謳う。過去であり未来でもある神話には、終末へ至る道までもが記されているから、いっそう静謐で揺るぎない。そして、過去たる歴史には絶対にないものが含まれている。
それは“矛盾”だ。
神話に登場する彼らは人であり、獣である。植物であり、同時に鳥でもある。男は時に女となり、子は時に親を生む。一見して無秩序な、されど大きな。
頁を捲る。目に飛び込んでくる固有名詞の数々は、すぐにベルカナの頭の中で物語へと結びつき、まつわるものの記憶を蘇らせる。
ここマーニアと隣国ソーリア。二つの国を主とした神話にはやはり対となるものが出てくることが多い。
太陽と月、夜と昼、夏と冬、天と地、死と生、……。太陽神ソールと月女神マーニがそうであるように、対は男女として描かれることが多いが、二つの関係は全て従属ではなくあくまでも対等だ。
もしもマーニア国の王子の片方が王女であったなら、更になぞらえられたのかもしれない――と思いながら、彼女はゆったりと文字を目で追う。
人間が暦を数えられるように生まれたという太陽と月。その物語の箇所に描かれた挿絵は二頭の巨大な狼。いずれの口も大きく開かれており、鋭い牙を剥き出しにして今にも光を飲み込もうとしている。
金狼スコル、銀狼ハティ。千変万化の神ロキは、滅びの巨狼フェンリルを生んだ。スコルとハティは、そのフェンリル狼の息子達だと言われている。
滅びを司る者の子孫はやはり災厄の導き手となったが、世界の終末――“黄昏”が来る刻まで神々に仕えるのだという。災厄をもたらすことは彼らの大切な役割と定められており、その一環として、毎日太陽と月を交代で追いかけているのだ。迫る危機こそが日を廻し、本当に彼らが追いついてしまった時こそが“黄昏”なのだと。
終末を含めた物語だから、災厄も滅びも忌み嫌われることはない。ソーリアやマーニアの子供達は幼い頃にこうした神話を易しくした昔話に親しみ、悪戯をするとよく「スコル様とハティ様が追いかけてきますよ」と親に言われて育つものだった。
厭わしいものであってはならないのだ、この神話の禍は。
ベルカナはウィアドの言葉を、ウィアドが口にした剣士の言葉を思い返し軽く唇を噛んだ。予定調和、なれど。物語の一節に書き加えられるために呪いをその身に受けたのだとしたら、何という悲劇だろう。
幼少の時から現王を超える逸材と呼び声高かった、第一王子ウィアド・アルスヴィズ。実際に政務に携わるようになってからは才能はさらに生かされ、父王の右腕として、各国の思惑の上手を行く策を練り、一方で治水事業や医療施設の増設など民のために尽力した。美しき白銀の王子は国民の自慢であったし、誰もが彼の栄光の未来を信じて疑わなかった。
月女神に愛された御子。その大きな幸福と釣り合わせるために、彼の人の天秤は傾いたのか。
――本当に、彼は幸せだったのだろうか。
ふと浮かんだ考えの馬鹿馬鹿しさに、ベルカナは小さな呼気を鼻から漏らした。
不幸だったはずがない……のに。
ウィアドの懸念は杞憂に終わっており、少女は第一王子のもうひとつの呼び名を知らない。しかし聡い娘はどこか引っかかる感を覚え、頁を捲る手を止めていた。それは庶民の行き過ぎた妄想なのか、そもそも出過ぎた真似をしようとしているのか。
それにしても、人生を天秤に喩えるのは――あまりにも希望がない?
とうとう本を閉じる。机の上に置いたそれを押さえるように伏せ、ついでに瞳を閉じて、両腕に顔を埋める。
考えるべきことは多かった。が、そのための情報が少なすぎた。
頭の整理を、と試みたベルカナだったが、結局セレスティナが起こしに来るまで、その体勢のまま翌朝を迎えることとなる。