第5話
前の日とほぼ同じように、晴れた空に昼の鐘が響き渡った頃に、ベルカナはウィアドの居室を訪れた。
農民であれば畑を耕す合間、学者であれば朝からの集中力が途切れる頃、朝晩ほどしっかりとした食事ではなくとも軽食――小麦粉を練って焼いたビスケットや、果物の蜂蜜漬けなど――をつまんで休憩するのが常のこと。
多分に漏れず彼らの前にあるテーブルにも、素朴な一口大の焼き菓子と、いかにも繊細そうな器に淹れられた紅茶とが、行儀よく鎮座していた。紅茶と同様に焼き菓子の方もセレスティナが用意してくれたものである。扉の傍にじっと佇んでいる彼女が、それを差し出す瞬間に王子の顔を期待混じりに窺ったこと、そして王子がわずかたりとも目線をくれてやらなかったことを、ベルカナは半ば偶然に見てしまっていた。
微かに聴こえる小鳥の囀り。茶器から湯気と共に立ち上るのはハルベという香草の匂いで、ベルカナがいた田舎でも茶の香り付けに使われている。
そして部屋の中の空気は暖かく、少しだけざわめきの余韻を感じさせた。
何より、少女が訪れるよりも先に王子の紅茶は用意されていたのだ。それと空になった器がひとつ、テーブルの端の方に寄せられている。
「どなたかいらっしゃったのですか?」
挨拶を終えたベルカナが向かいに座る少年に尋ねれば、彼はああ、と口先だけで頷く。
「父上が。つい先程、お帰りになったところだ」
ぽかんと間の抜けた顔を晒す少女に対しても、彼は眉ひとつ動かすことなく。
「十日ぶりにお会いした。君のことをよろしくと言われたな」
そんなことまで言った。するとあの空の器は王が使用していたもので、片付けは不要とウィアドがセレスティナに言ったか何かしたのか。
それよりも。
同じ城に住んでいながら肉親と十日も顔を合わせない。ベルカナはその意味を考える。マーニア国王は息子を本当に愛しているようだったから――でなければ、軟禁させるとわかっていながら学者を招いたりするものか――“呪い”を忌避してのことではないというのはわかる。むしろそうそう出歩くことを許されない王子とは、詰まった政務を押してでも頻繁に会いたがるはず。
今のベルカナが知る由もないが、なるべく面会しないようにと申し出たのはウィアドの側であった。多忙であろうことを慮って、というのは半分は建前としてのこと。もはや継承権もない身に国王の時間を割かせるのは、弟に対する罪悪感もあり、構われるほどに生への未練が出てきそうで厭だったのだ。
何にせよ、この場でそれを問うのは適切ではないとベルカナは判断した。注意し過ぎることはないくらいに慎重にあたるべき問題なのだ――王子が優雅に口へと運ぶ器の、容易に折れてしまいそうな取っ手のように。
「さて」
カップを受け皿へ静かに戻し、ウィアドはおもむろに口を開いた。
「何から話せば良い? 当時の状況の仔細か? 今の身体の状態についてか? それとも呪いに関する私自身の見解を聞くか? 何だって良いぞ」
医師であれ学者であれ、対峙する度に説明を要求されていれば、彼の投げ遣りな態度はもっともなことだった。その実、事件当日に交わされた会話はもはや淀みなく諳んじることができるようになっていたし、どの部分を語ることを求められているかも、言われずとも感覚でわかるようになってきている。
幸いなことにウィアド自身が説明に慣れたおかげで、必要以上の長い時間を調査対象として過ごさなくても済むようになっていた。解呪のために致し方ない詮索とはいえ、これまで城に招かれた者の中にはウィアドのことを興味深い事象の例として捉える者もわずかながらいた。そうでなくとも辛い記憶、あれこれと引っ掻き回される側としては、大いに不快感を抱いてしまうというもの。
「いいえ、その必要はございません」
ところがベルカナの返事は何を思ったものか。喉元まで準備していたいつも通りの説明を飲み込まなければならなくなったウィアドだったが、眼前の少女の穏やかな笑みに対して、どうにか無表情での反応に留めるだけの余裕はあった。
「必要がない、とは?」
「今日お話しするのはわたしです。いえ、多分これからも、お話をするのは主にわたしの側だと思います」
「何故」
落ち着きなく銀盆を抱え直した侍女の姿を目の端で捉えつつ、ウィアド自身ももちろん疑問に思うことをそのまま口にする。
疑問は興味の現れ。
彼が思わずはっとした時には既に、奇妙な少女は答えを紡ぎ始めていて。
「恥ずかしながら、わたしは他人に誇れるような学を持っておりません。ですから、ウィアド様のお力添えをいただきたく」
「神話や古典に明るいと言っていたな」
「はい、僭越ながら。古代の神々の物語や創世の歴史……そこにあるかもしれない手がかりを、共に探していただきたいのです」
ベルカナの言葉はこうだった。つまり、自分が語り手としていくつかの物語を話すから、そうした物語の中に解呪の糸口がないかどうかウィアドも一緒に考えて欲しい、と。
「別に……よかろう」
ウィアドはやや呆れながらも承諾する。未だその行為の根底にあるものが疑わしかったが、これまでのように一方的な推論を押し付けられるのではない点に好感が持てた。そうそう面倒なことでもない。
それに屈託のない笑顔を見せられるのも、悪い気はしない。
「ありがとうございます。……あ、」
「何だ」
「あの……ウィアド様ご自身の呪いについてのお考えは伺いたく思います。もしもお気を悪くされなければ、なのですけれど」
「構わない。それこそ、今更のことだ」
ふ、と鼻で笑う少年の姿をベルカナは少し奇妙な気持ちで眺めた。
組んだ脚は床につくかどうか、椅子の背もたれは主との対比で随分と大きく見える。そんな見た目にそぐわない態度は尊大というより、どこか達観している印象を受ける。違和感がある一方で納得もするが――何せ二十四の年と過酷な運命とが、この小さな体に詰まっているのだ。
ましてマーニアの第一王子は文武両道に優れた才能を発揮していたというのは有名な話。内面はベルカナが思っているよりももっとずっと高みにあるのかもしれない。
「もしや、やはり、神話の類についてもウィアド様はお詳しいのでしょうか……」
「いや」
嫌味でなく、心底不安そうなベルカナの言葉にウィアドは短く言葉を返す。書物を愛する彼だったが、あの一件以来、古典などで月女神や銀狼の名を目にすることに抵抗があるとは、口が裂けても言いたくはなかった。呪いの引き金となったのであろう神話の“真実”を知ることが怖いのだと、それを認められるところまでは自尊心を捨て切れていなかったから。
「私の、解釈か」
話題を変えるためにも呟く。これも何度も何度も口にした話であるから、考え込み思い出すような素振りは本当に素振りだった。
或いは内容自体ではなくて、ベルカナに語ってよいものか思案していた。もっともそんな逡巡は、先に「構わない」と返した段階で無意味なのだが。
「……私はこの呪いが満月の日にだけ解けることを、月女神の加護ではなく、銀狼の災厄だと考えている」
ベルカナは軽く目を見開いた。本来ならば祝福すべき解呪の刻、与えられたそれを災いとする王子の思考はまさしく意外なものだったのだ。
彼女の反応を見るにつけ、ウィアドはこれまで解呪の任に就いた誰しもに語ってきた言葉を伝える。
「“俺が死んだら、お前に天狼の星を降らせてやる”」
「えっ?」
「友が死ぬ間際、私に向かって遺した言葉だ」
忘れたことなど一度もない。記憶の中で、夢の中で。楯となり死んだ剣士が苦悶の表情でウィアドに言う言葉。
それが象徴するものが破滅の使者であることから、天狼の星は禍星とされている。
彼の遺志が一体何であったのか。ウィアドでさえ呪詛だと思っているのだ、高名な学者であってもそれを否定するだけの根拠を持っているはずがなかった。
「だからこれは私に与えられた罰なのだよ。彼には、私を恨む権利がある。そして私には彼に恨まれる義務がある」
己のために目の前で犠牲となった親友。本当の喪失の痛みをベルカナは知ることができない。けれども平穏な国にあって、二年前のウィアドが人の死を平然と流せるほど麻痺した心を持っていたはずもなく、表舞台から退かなければならなくなった自身の価値を如何ほど問うたことか。
生きることは時に、酷く辛い。
話の中の存在だったウィアド・アルスヴィズという人間が、現実として色や形を帯びてくる。小さな罪悪感を飲み下した彼女は、その苦みに心の中でただ呻く。――それで王子は解呪を拒んだのか。
「絶望に身を浸すことは許されない。死から引き戻す刹那の安息……生きて、向き合って、ずっと……。君も、彼が私のことを恨んでいると思うだろう?」
そっと、痛そうに。懸命に唇の端を上げたウィアドの力ない問いかけにも、ベルカナは何を答えることもできなかった。
*
結局初日は、ちょうど国王の前で披露したのと同じように、ベルカナが古代の詩を詠い、その解釈が概ね共通していることを確認するだけで終わった。
語句、比喩の意味するところ、表現技法、韻律、史実との対比……ウィアドの口から淀みなく紡がれる古典の知識には、内心ベルカナも舌を巻いた。さすがは“月女神の愛し子”と呼ばれていただけのことはある。それとも一国の王子としての教養の範囲だったのかもしれないが、それは彼女の知るところではない。
ともかく、ベルカナはこれまで同年代――というか父親以外――とはあまり話が合わずにもどかしさを抱えてきたのだが、ウィアドと話し終えて気付いてみれば、一度もやきもきさせられることなく滑らかに神話について語ることができていた。純粋に楽しいと思った自分に驚いたのと、別の仕事があるのだからと浮かれた感情を押し込めようとする心と。
王子の居室から退出し、扉を背中にそっと溜息。やや遅れて、茶器類を持ったセレスティナも出てくる。
「お疲れ様ですわ、ベルカナ様」
「ありがとうございます」
笑顔を作るのに頬が軋んだような感があってはじめて、ベルカナは自身が緊張していたことに思い至った。ウィアドとの会話中は、趣味に傾倒するあまりの興奮を抑えることばかり考えていたものの、逆に慣れない上品な所作を心がけていたのが負担であったらしい。自分にしては頑張った方だ、と彼女は自らを褒めてやりたい気分であった。
一方のセレスティナの方はと目を遣ると、黒髪の侍女が持つ銀色の盆の上には先程まで紅茶が入っていた器と、今もまだ焼き菓子の乗っている皿がある。ベルカナはとても美味しく頂いたのだが、未だに香ばしい匂いを漂わせているそれらは、少女の遠慮だけで残るような量ではない。
「ウィアド様は甘いものがお嫌いなのですか?」
会談中、菓子にはまったく手を触れようとしなかった王子の姿を思い出し、ベルカナはセレスティナに尋ねてみる。答えはわかりきったようなものだったが……王子が好まないものを侍女がお茶請けに出すはずがない。
やはりセレスティナの回答は否定だった。城に住まう者独特の柔らかな雰囲気を帯びた苦笑を浮かべつつ、ゆるやかに首を横に振って見せる。
「いいえ。お食事に添えられた果物などは普通に召し上がりますから」
「ではお身体の具合でも……」
首を傾げながら言いかけたベルカナを遮り、続ける。
「これはわたくしが作った菓子ですが。ウィアド様は多分……わたくしのことが、お好きではないのだとは思います」