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第4話

 生あるところに死がある。そうであるならばやはり、死あるところに生があるのだろう。

 頭ではわかったつもりでいても、後者にどうにも納得できないような気がするのは、自分が現在生きているからだろうか、それともそもそも死者が思考することがないからだろうか。

 いくら(まじな)いの類を用いてみても死は覆らない。不可逆の変化は、だからこそ、生者を苛む。

 ウィアドは椅子に納まったまま、膝に置いた自分の手を見下ろした。

 小さな手のひら。他国に勢を示すべく王族の嗜みとして身に付けた剣術は形を重視するもので、演武以外で用いることはほとんどなかった。それでも未だ消えない肉刺(まめ)は何度もそれを潰すほどに鍛錬した証だったし、あの日も帯剣してさえいれば、何か違った結果が得られたのかもしれない。

 もう詮無いことだのに、とウィアドは瞳を閉じてゆったりと天井を仰ぐ。死は生へ返らない。とっくに諦めたことのはずが、胸の奥がちりちりと燻ぶるような、この感覚はどうしたことか。

 閃光が友の身体を貫いたあの夜の光景は、数えきれないくらい何度も夢に見た。いつだって夢の終わりは、友の苦悶の表情と紡がれた呪詛が告げる。


 『俺が死んだら、お前に天狼の星を降らせてやる――!』


 その度にウィアドは自分の叫び声で目を覚ます。そして汗に濡れた衣服の感触によって助長された寒気に震えながら、侍女も護衛も締め出した暗い部屋の寝台の上で、自らの息遣いにさえ耳を塞いで眠れぬ夜を明かすのだ。


 けれども今宵の彼が目を冴えさせているのは、いつ訪れるか知れない悪夢への入り口で足踏みしているためではなく、昼間に彼のところへとやって来た若い娘のおかげだった。


 『わたしが、必ずや』


 彼女はそう言って憚らなかった。一国の王子を前にしてさえ。

 「馬鹿なことを」、しんと静まり返った部屋の中、ウィアドは小さく呟く。誰にこの呪いが解けるというのか。仮に百歩譲って解くことが可能な呪いだったとしても、それを為すのが若い娘――それも代理で来たという少女――だとは到底思えなかった。新たな試みに期待するには、彼は落胆の苦みを味わい過ぎていた。

 望みを持つから、叶わなかった時に失望するのだ。そうとわかってからは彼は希望しない、望まない。ただ一つ……自分の命が尽きることを除いては。

 生きることは苦痛である。その命が誰かの命と引き換えにもたらされたものであれば尚のこと。

 満月の日にだけ解ける呪いもそうだ。周囲は月女神の加護だと言うけれど、ウィアド本人はこれが友の言う“天狼の星”がもたらした災いだと信じていた。満月――月女神の力が最も強まる刻であると同時に、銀狼ハティが吼える刻。そんな宵には運命のあの日を否が応でも思い出すよう、刻まれた呪詛だと。友はきっと……己を恨んでいるだろう、と。


 マーニアを治めているのは決して王だけの力ではない。それ以上にこの国では、“神話”が民の心の深いところに根付いている。

 だから王族にとって、月女神マーニを祀った神殿に通うことは義務も同然であり、日課であった。ウィアド自身も二年前までは礼拝を欠かさず、国の安泰を日々祈っていた。

 あの日以来ウィアドが神殿に足を運ぶことがなくなっても、父王をはじめ周囲の人々は月女神に祈っている。祈願の内容に自分のことが含まれていることは重々承知していたが、それでも彼は、共に祈る気にはなれなかった。

 満月の夜に友を喪い、自身は呪われ、彼が抱いた感情は神に対する憤りではなく納得(・・)だった。

 銀糸の髪、夜空の瞳――それはこの国に伝わる狼の姿に酷く似ている。

 終末と災厄をもたらす獣を月女神が“愛し子”として守護することなど、あり得ない。

 智も剣も、政治も体術も。多方面への才覚を表すにつれ、賛美と羨望以外の感情が向けられていくことに、人並み外れて聡かった少年は――呪いを受ける前から――気付いていた。誉れであれ異端は異端。神と化物は紙一重なのではないかと、両親が聞けば卒倒しそうなことすら思う。

 少年は、不幸なほどに恵まれすぎていた。

 幼少時代に周りを取り巻いていた、無邪気な言葉の刃。彼らに悪意はなかったのだろう。気恥ずかしさから年相応の振る舞いは上手く出来ないというのに、何をやらせても失敗することなどなかった少年のことを、“銀狼”の名で呼んだ子供達には。

 そんな“月を追う獣”と心から親しんでくれたのが一人の剣士と、神殿の巫女だった。

 だが今となっては三人が笑い合うことなどない。三人が揃うことは、もうない。


 戦にでも身を投じることができればと思うものの、中立国にそんな物騒な話があるはずもなく。二年前、下手人を送り込んだのが帝国に不満を抱く東国の一つとわかるや否や、戦争を望む声が上がったのは事実だったが、その時は他ならぬウィアドがいきり立つ宰相や剣士らを諌めた。己のために、これ以上の命が失われることが耐えられなかったのだ。

 既に親友を一人。それから有能な学者達の余生を何年分も。更には両親の命までも削っているに違いない、数年前に比べて母親などはすっかり痩せこけてしまったから。


 終わりにしたい。

 幾ら思えども、叶わない。物理的にも精神的にも彼は八方塞の状況にあった。小さな(なり)ではどうせ剣を扱うことも儘ならないというのに、ウィアドの部屋からは刃物の類が一切取り除かれた。せっかく付随しているバルコニーへ至る窓は頑丈な鍵で閉ざされているし、食事も誰かが毒見することが常となっていた。

 全ては自分を守るため。価値すらないかもしれない、“元”王位継承者の命を保つため。

 それがむしろ苦痛であると、どうして父王達は気付かないのか。それでもウィアドは拒絶の言葉を放ることもない。価値のない生であるならば、せめて誰をも傷つけないように居ようと心に決めたからだ。


 薄い唇から音もしないほどの溜息を吐き出し、椅子から立ち上がったウィアドは緩慢な動作でベッドへと潜り込んだ。途中で目に入った窓に切り取られた暗闇の下地に、幸いかどうか、月は描かれていなかった。

 それでも彼は知っている。次の満月は、近い。

 ――そういえば、昼間の娘は“神話”を研究していると言っていた。それも神学ではなく、御伽話の類に近いもの。そして何より。


 『好きなのです、ハティも』


 災厄を愛する?

「……馬鹿馬鹿しい」

 再度呟く。そんな言葉を口にするのはきっと腹に一物を抱えた者か、相当な能天気者だ。

 ウィアドが思うにあの少女は恐らく前者。マーニア国第一王子へ与えられていた形容を知っていた上で、好意で好意を買おうと意図したのかもしれない。幼げな見た目とは裏腹、言い回しの端々に理知的な性が滲み出ていたように感じられた。それが学者の家に生まれたおかげであるかどうかまでは、判断がつかなかったが。

 そういえば少女は父親のことを頻繁に口に出していた、と浅い微睡(まどろみ)の中で彼は思い出す。

 代理という自覚ゆえ、というだけでもなさそうだった。果たしてあの強気な態度が誰かに言い含められた賜物であるかについても、話をしていけばわかること。踏み込んでしまったものは仕方がない、忠告はしたのだ――言い訳となることが納得いかないが、牢の中で悔いる時を迎えるまで、せいぜい付き合ってやろう。

 新しい明日は、引導を渡すまでの日々を数えるためにあるのかもしれない。今宵見るのは悪夢か、それとも。


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