第2話
「わたくしはベルカナ様の身の回りのお世話をするよう仰せつかっております、侍女のセレスティナと申します。ウィアド様のもとへご案内いたしますので、どうぞ、こちらへ」
黒と白のエプロンドレスを身に着けた女性はそう言うや否や、ベルカナが礼を返すよりも先にくるりと背を向けてしまった。ベルカナは見られていないのをいいことに、今度こそ気兼ねなく眉をひそめる。
玉座の間をあとにした彼女は、年上の侍女の道案内に従って、件の第一王子が待つという部屋へと廊下を進んでいた。
窓から差し込む日差しは暖かい。
もうじき、昼を報せる聖堂の鐘が鳴るだろう。
セレスティナの高く結い上げた黒髪が揺れるのを眺めながら、ようやく案内されたのは質素な内装の小部屋。相応の応接用家具はあるものの、人が――ましてや王子が生活するには狭すぎる部屋だ。何せ、寝台すらない。
訝しく思いながらも、促されるままにソファーへ腰かけるベルカナ。その向かいに「失礼いたします」と断りを入れてからセレスティナも座る。二十代後半かそのくらいに見える青い目をした侍女は、すっと背筋を正してベルカナを見つめ、おもむろに口を開いた。
「ベルカナ様。ウィアド様より伝言を預かっております」
言って、彼女はテーブルの下から綺麗な彫刻の施された小箱を取り出す。中に入っていたのは色とりどり、大粒の宝石の数々。
「こちらを好きなだけ差し上げる、代わりに……お引き取りください、と」
「本当に?」
ベルカナの確認の疑問符は宝石に惹かれたからではない。本当に王子がそう言ったのなら、国王の依頼は初めから無理難題ではないかと、半分は驚愕の思いを込めて聞き返したのだ。
セレスティナがどう解釈したかは不明だが、緊張の面持ちで首肯したのを見て、ベルカナは思わず渋面を作る。王子が帰れと言っただなんて、そんな馬鹿げた話があるものか、それではまるで本人が解呪を拒んでいるようではないか――。
「……いいえ、結構です」
文句をぐっと飲み込み、ベルカナは静かに首を左右に振って見せた。
「そのような石ころに惑わされるような覚悟でこちらに参ったりはしませんもの。陛下からも直々に命をいただいておりますし、一度決めたことです。必ず王子様の呪いを解いて差し上げます」
ここで帰るわけにはいかないのだ。何より、自分自身のために。
堂々とした態度が功を奏したか。青い目を瞬かせていたセレスティナだったが、やがて小箱の蓋を閉じると、詰めていた息を吐き出して、ようやく小さく微笑んだのだった。
「……お強い方」
「光栄ですわ」
ベルカナも微笑み返す。しかしその笑みの曖昧さに気付かれてはならなかった。――王子を解放するのとは別の、もう一つの目的を知られるわけにはいかないのだから。
「実際にお目にかかって、とてもお若い方なので驚いたのですけど。……御父君のお体の調子は如何ですの?」
「ええ、まあ……実家には母や兄もおりますし、心身に余程の負担がかからなければ心配はないと思います。お気遣い、ありがとうございます」
「お兄様がおられるのですか? まあ、羨ましいですわ」
ころころと表情を変える侍女をベルカナは呆気にとられて見ていた。「どうかなさいました?」と尋ねられた時でさえ、ぼんやりと「いえ」と返すばかり。
初対面での印象からこうも変わるものなのかと驚いていたのだ。こちらの方が、妙な緊張を強いられないから良いかもしれないが。
「……あ、あの。陛下もどこかお体の調子が? 顔色がよろしくないようにお見受けしましたが」
「陛下も王妃様も、やはりウィアド様のことで心を痛めていらっしゃるのですわ。加えて、もうすぐ各国の長がマーニアで会談を行うでしょう? 北の大地に住む魔女達についてのことですし、またムンディルファリ国が擁護派にまわってしまえば、三度の議論先送りになりかねませんもの。本当なら陛下もウィアド様の弟君のスヴェル様に玉座をお譲りになる心積もりでいらしたみたいですけど、スヴェル様はまだお若いという声もちらほら――」
「は、はぁ」
困惑を隠そうともしないベルカナの相槌に、セレスティナははっとして口元を手で覆った。
「あら嫌だわ、あたしったら! 久しぶりにお話できるのが楽しくって、ついつい喋り過ぎてしまいましたわ」
顔を真っ赤にした喋り好きな侍女に、ベルカナは「お構いなく」と笑って片手を振り、どうやら付き合いにくくはなさそうだ、と密かに胸を撫で下ろす。これから長丁場になることは目に見えているのだし、少しでも過ごしやすいに越したことはない。
「で、では」
立ち上がったセレスティナは、一瞬その表情を翳らせる。
「……わたくしもこのようなことをしたくはなかったのです。ただ審査が――」
「審査?」
呟かれた言葉。疑問に対する返答はない。
顔を引き締めた彼女はすっかり侍女の体で、扉を開けて待機している。合わせて腰を上げたベルカナは、侍女が身を強張らせる理由くらい理解しているつもりだ。
「どうぞ、貴女様には彼のお方の呪いを解いて差し上げて欲しい。……ベルカナ様、今度こそ、ウィアド様のところへご案内をいたします」
*
初めてその部屋に足を踏み入れたベルカナは、それまでの認識を幾分か改めなければならなかった。王族の私室というのは、どうやら、広ければ良いというものでもないらしい。
決して大きくはない。が、特別なのだという印象を与える部屋だった。それは先に王子の部屋だという情報を得ているせいかもしれず、或いは、贅を尽くした調度品の数々や上品な香の薫りによるものなのかもしれない。ともかく、一般的な家庭で育った少女にとっては、非常な緊張と興味を引き出す空間であったことは違いない。
「ウィアド様。此度“解呪”の任にお就きになった、ベルカナ様をお連れしました」
ノックと名乗りに対して無言であった扉を、躊躇なく開いて入室したセレスティナは、数歩を進んでようやく王子へと訪問の理由を述べた。
――王子。
ベルカナの視線の先には柔らかそうな革張りの椅子が、背を向けて置かれている。背もたれから少しだけ覗いた銀色の髪。そこへ向けて、セレスティナは頭を下げている。
「ティナ。帰るように伝えろと、私は言ったはずだが?」
重々しい、けれど些か高い声。とても成人男性の声とは思われないような。
椅子が軋み、紺青の衣装の裾がするりと床に垂れた。
「また“審査”を通ったからか? ティナ、君の主は私だ。父上じゃない」
「申し訳ございません……。ですがこの方はきっと!」
「もうよい。私が話をつける」
ベルカナ達の方を向いて立つ少年は冷ややかに言い放つと、おもむろに腕を組み、睨むように新参者を見上げる。セレスティナは何か言おうと口を開きかけたが、ついに引き下がる他なかった。
新参者――ベルカナは彼を見下ろすことに抵抗を覚えながらも、膝を着くという行為もどこか違った意味を成すことのように思われて、ただその場に立ち尽くしたまま。
ふと。少年の口端が持ち上がる。微かに、皮肉げに。
「……驚いたか」
「こんな、ことが、実際に起こり得るのかと……驚いています」
小馬鹿にしたように鼻で笑ったところを見れば、ベルカナの反応は彼の予想の範疇を出なかったということだろう。
それでも、ベルカナは思った通りのことを正直に口にしたのだ。王子の呪いについては、今回の任を請け負うにあたってもちろん話には聞いていた。だが心のどこかで疑っていたこともまた事実。いくら彼女が父親の影響で古今東西の伝承に造詣が深いとはいえ、物語内の出来事が現実に起こり得ると信じられるかどうかは別問題だった……むしろ伝承の類に詳しかった故に、神話の中の事柄を現実にあるものとして受け止められないでいた。
「これが私にかけられた呪いだ」
そこにいるのは齢十と少しばかりに見える、少年。二年前に二十二度目の誕生日を迎えたはずの、マーニア国第一王子の、あまりにも幼い姿。
全体的に均整のとれた体つきではある。だが背丈はベルカナの胸よりも下程度で、手足は非力そうに細い。
それでも美貌の中で一際強い光を放つ濃紺の瞳は、ひどく大人びた様相で、見上げる眼差しに怜悧さを見て取れはすれど、臆する様子は微塵も感じられない。逆にベルカナの方が委縮してしまいそうになるほどの威厳は、見た目通りの年月のみを過ごした子供に出せるものではなかった。
“月女神の愛し子”と、美しい王子はかつてそう呼ばれていたのだ。
否、もうひとつ。銀色の髪に濃紺の瞳を持つ王子にはもうひとつ、呼び名があったのだが……
「あの日に私に向けられた攻撃は、単なる殺傷ではなく、存在の抹消を意図した魔術だった。時間を逆行させることにより、私が誕生した事実そのものを無に帰そうとしたのであろう。……だが、かの魔女の悪意は、勇猛なる剣士によって阻まれた」
あの日、というのはまさしく王子が呪われ、世間的に死んだ日。下手人が魔女であったという新しい情報よりも、剣士のことを口に出した時の苦痛に歪みかけたウィアドの顔が、ベルカナにとっては気になった。
「……込められた殺意は相当なものだったらしい。剣士の命を以てしても呪いは完全に防がれることはなかった。私は時を遡らされ、満月の日にだけ、元の姿に戻ることができる――」