第24話
とうとう今宵は満月だ。月女神の力が最も強まる刻、そして銀狼ハティが吼える刻。
明日になれば任は終わる。ヤドリギを戴く月女神の像を眺めるベルカナ。しんと冷えた神殿の空気の中、一日のみの解呪を味わっているであろうウィアドを思う。彼は今日もいつも通り床に就き――そして、また少年へと戻るのだろう。
『もう少し本を読んで、お話をまとめてからウィアド様にお会いします』
ウィアドからの伝言を受け取った翌日。そうセレスティナに伝え、ついに今日まで文献をめくって日々を過ごした。無論、かの王子とはまったく会っていない。
しかしそのセレスティナをはじめ、護衛の剣士らも含めて城内の人々の彼女に対する態度は微塵も変わることはなかった。せいぜい、任期がもうじき終わることをベルカナが知らないと思ってだろう、ベルカナ自身が神話談義を辞退したことへの控え目な異論というか、助言があった程度。
企みがばれなかった、否。どこまでも高貴なる王子に改めて敬服する。彼は最後まで、ベルカナの名誉だけは守ってくれようとしたのだ。
だからこそ報いたかった。かといって、いまさら焦ったところで、これまでなかった手がかりがすぐに集まるはずもなく。
「結局、傷つけたのね」
いつの間にか傍らに来ていた小さな巫女。その声に責める色はない。
期待していたのに。言外にそう伝えられた方が辛かっただろうか。知るすべはなく、ラグの言い方には何もない。またか、という諦めのみ。それがベルカナを苦しめたのは、自分が救うと言ったばかりに尚更。彼女は恥じ入り、俯いた。
「ウィアドはもっと幸せになるべきなの」
唐突にラグは漏らす。驚いて向くと、巫女はベルカナがしていたのと同様、じっとマーニの像を見上げていた。それはベルカナにとっては意外なほど冷めた眼差し。巫女であるのにまるで――神を非難するかのような。
「愛し子なら、もっと平穏を与えてくれてもよかったでしょうに」
月女神が愛した子。銀糸の髪に夜空の瞳。類稀なる才を備えた御子。
「……これでは彼が銀狼と自分を思い込むのも、無理はないわ」
それはベルカナにとって予感であった。
何かを、思い出しそうな――
「それは、一体」
「あなたは知らなかったのね。……ウィアドは、あまり、人付き合いがうまくなかった」
自分が言えたことではないけれど、と淡々とラグは付け足す。
今でこそ、否、当時であれ彼は人望を得ることはできただろう。決して愚かではなかったから。むしろ賢すぎたゆえに、彼は“異端”とみなされた。
自らと異なるものに対しては、時に子供の方が容赦がない。加えて、王城という特殊な世界の中で、幼少時より彼は人を選ぶことを教えられ、国を背負うために己の欲求を抑えてまで期待に沿おうとした。
「“ハティ”。ウィアドのことを陰でそう呼ぶ人々も、少なくはなかった」
ウィアドが本当は野山で駆けまわりたかったことも、調理場に忍び込んで悪戯したかったことも、ラグは知っていた。そして不器用な彼が、心無いあだ名を耳にする度に自分を責めては、奔放に遊び回る貴族の子息達の姿から必死に目を逸らそうとしていたことも。
最初、ラグはウィアドのことが怖かった。かなしいのに、ラグのことを愛しんだから。
今となってはもうわかっている。それこそが彼の、ウィアド・アルスヴィズの強さなのだ。
「……」
一方のベルカナは、思案に耽って再びマーニの像を見上げる。
破滅と災厄の獣の名で呼ばれるなど、どんなにか辛かったことか。立場ゆえと断じ、天秤が傾きを取り戻すための不幸なら、眺めやる神の心は如何ばかりか。
ラグの先程の表情の意味がわかった気がした。彼女はウィアドに敬称をつけない。だからこそ赦せなかったのだろう。相手がたとえ、筋書かれた大いなる存在であっても。
引っかかるのはあの剣士――アルジズのこと。無二の友という彼が、最後の最期、ウィアドを置いて逝かねばならない時に、わざわざ彼が忌み嫌っていた呼び名を持ち出すだろうか? そこまで情がないのなら、何故に友を庇いに飛び出したというのか。
石像が片手に掲げた球体。円みがきらりと一瞬光った、ように見えた。
星のように。
ベルカナは息を呑む。
『俺が死んだら、お前に天狼の星を降らせてやる』
「もしかして、アルジズ様は――っ!」
初めからわかっていたはずだったのに。ベルカナは歯噛みする。ラグへの挨拶もそこそこに、神殿を飛び出した。厭わしいものであってはならないのだ、この神話の禍は。
マーニアに伝わる、そしてベルカナの愛する神話は、終末を含めた物語。
狼の導く黄昏は、決して物語の終端ではない。