第23話
思えば満月以外の夜に奇怪な客人と相対するのは、これが初めてのことである。
まさしく道化師の衣装。だが決定的にその者をそれ足らしめているのは、人を恐怖に陥れるような仮面。白磁の面の奥はどうなっているのか。声音から男と思われたが、それすらも意味はないのかもしれない。彼の者は、矛盾の存在。時に女であり、時に獣である。
ウィアドは目の前のソファーに腰かけたそれに、どう話を切り出したものか決めあぐねていた。何せ相手が相手である。腹立たしいまでに落ち着き払い、愉しげに足を組み換えつつ。先に口を開いたのは道化師の側であった。
「キミも父君に似て賢いのだねぇ。ワタシに対してまるで動じない」
「……父に対しても、唐突に部屋へ現れたのか」
「は、は、は。失敬したね。次はきちんとノックをしよう」
急速に周囲の世界の音が消えてゆく感覚。ふわりと薫ったのは、雨の日の土と緑の匂いに似ている香。次の瞬間には道化師が目の前にいたのだから、いくら望んでいたことで前兆があったとはいえ、その仮面に叫び声をあげなかっただけよくやったと思う。
しかし神にとっては礼儀も何もこだわるようなものではない。既に相手の調子に巻き込まれていることに若干の苛立たしさを感じつつ、ウィアドは精一杯その濃紺の瞳を鋭くさせた。下手をすると、相手があの破壊の神だということなど忘れてしまいそうだった。
「父に、何を吹き込んだ」
少年の低くした脅し声でさえ、超然としてそよ風の如く歯牙にもかけず。されど気紛れな神は、かつてベルカナに告げた言葉を繰り返してやる。
「人聞きの悪いことを言う」
喉の奥でくつくつとわらいながら。
「ワタシはキミを救いたいという父君に助言をしてやっただけだよ。それに、そうだな、我が愛すべき子孫の土地に繁栄をもたらしたと言ってもよい」
「助言?」
「そうさ。けれどあのお嬢さんはちょっと驚いたねぇ、若いのに、可哀想だ」
理解に驚愕が追い付くのは早かった。
一瞬、ベルカナのことを思う。確かにあの娘の余生を奪うのは自分だ。仮に彼女の企みが己を傷つけたとして、果たしてそのために一生涯地下牢に閉じ込めるほどのことか? どうやらいつの間にか、二度目の満月が来てしまうことの意味を失念していた。解呪が成功するしかあの哀れな娘が救われる道はない、だが。
それは叶わぬ、とウィアドは信じている。これまでも、これからも。しかしそれと己のために民の命が無為にされることとは関係がない。ウィアドはあの書簡を読んで以来、ベルカナが地下牢に囚われることの残酷さを忘れていた自分を恥じた。
彼は今度こそロキを睨みつける。
「貴方が、学者達を召喚するよう言ったのか。解けぬ呪いとわかっているというのに、さすが、フェンリル狼の父親だ」
「解けぬかどうかはわからないよ、何せワタシは全知全能の神ではないからねぇ」
神々さえも欺き、幾多の罠をすり抜け、最高神へすら敵意を向ける。不埒な神の一柱は、それでも世界に必要とされているのだ。
「しかしね、本当に解けないものなのかとも思うよ」
「神の戯れというのか」
――それでアルジズは死んだのか。
呑み込み奥歯を噛み締める。まるで子供に諭すようなロキの態度は至極当然のもの。所詮ウィアド達は人間。やるせなさを強く感じながら、それでも闘わなければならない。それが民の、アルジズのためだと彼は固い信念を持っている。
「ワタシが学者達を呼んだのは、舞台から排するためだったのだから、仕方ないだろう?」
「は――」
「固定観念って知ってる? 自分の持論が正しいと盲目的に過信しているようなヤツらがいつまでも舞台の真ん中にいたら、誰も出てこられないのだから」
信じ難い話であった。戯れなどという範疇を遥かに超越し――それが“善行”であったと、この道化師は述べたのだ。
巨狼達の土地に繁栄を。
「そんな理由で」
思わず口をついて出た。
だが答える道化師の声には変わらず愉悦の響き。それどころか、幾分か誇らしげですらある。
「キミら王族も世代交代するだろう? 老いたら新しい風をいれる……当たり前だろう?」
「下らない理由で民を弄ぶなど!」
人間の発展も、眺める神にとっては暇潰しでしかないに違いない。わかっている、そんなことは。
だがそのために陽を見ることも叶わなくなった学者達。彼らとてひとりの人の子だ。神の退屈を紛らす道具である以前に、自らの命を生き抜く権利がなかったはずがない。……そう思わねば、救いがなさすぎる。
「おやおや、何かあったようだね。あの怜悧の王子サマにしては随分と感情的だ」
「やはり私は、父を傷つけてでもこの方針に反対すべきだった……っ」
「ヒトに対して優しければ、それはヒトから好かれるだろうねぇ、“月追う獣”。キミのために死のうだなんてねぇ、赦されないよ、キミ自身だけは」
ウィアドが怯んだ隙に、音もなく立ち上がった道化師。その仮面は嗤い顔のまま、椅子に硬直する王子を見つめた。
“月女神”でさえ残酷な星のもとに生まれたことなど、演者に過ぎぬちっぽけなヒトの子が知るはずもない。知る必要もないことだ。
「だが物語の結びは決まっている。……フォルセティも、そろそろ秤を弄ってくれる、かもね」
最後にそう告げ、瞬く間に道化師は消えた。
静寂が氷解する。
残された王子が額の汗をぬぐい、この土地に馴染みのなかった神の名をベルカナにきいたのだと思いだしたのは、それから随分と経った夜更けのことであった。