第22話
失望など、数えきれないほど味わってきているというのに。
死生ばかりを考え時間を過ごしていた自分に、煩わしいながら、今となっては幸福なことだと理解できる、人との関わりについての思考を重ねることを経験させてくれたというのに。
怒りか悲しみか? ウィアドは今度こそ人形のように無心であった――否、無心となりたかった。もう何も思わぬ体になってしまいたかった。
一度目は衝撃で内容がうまく理解できなかった。二度目はよく読み切ったと己を褒めてやりたかった。羊皮紙をそっと折りたたんで机上に置き――それから思い直して、引き出しの中へ仕舞う。たった一枚の羊皮紙で人の心は壊れるのだと、執務に携わっていた頃は当たり前のように紙面で国民の人生を左右していたというのに、新鮮な驚きがあった。
他の学者達とは違うという見込みは、これ以上ないほど悪い方向へと転がってしまった。やはりあの娘は聡かったのだ。初めから自分達に取り入ろうとすれば、より強引で媚びた手段を使ってくるであろう……先入観を持っていたがため裏目に出た。
あの生気にあふれた眼差しも、ただ話しているだけで楽しそうに綻んだ口元も。全てが演技だったとするなら、よほど恐ろしいものだと彼は思う。
いっそ……ラグに会いに行ってしまおうか? 淡い期待を打ち砕かれて脳裏に浮かぶのは、昔からの確固たる信頼を積んだ友のこと。今や神殿の巫女となった彼女は、家族以外で心を開くことのできた数少ない存在である。
ふと自嘲し目を瞑る。しかしあの巫女もまた、アルジズを殺した自分を許していないに違いない。本心、それを気にしていかなくなった神殿に、今更泣きつきに行くことなどできるものか。それに、“審査”をしたはずの彼女からまだ知らない真実をきくのも……怖かった。
あの娘がアルジズやラグと同列になるとまでは思わなかったが、それでも。口惜しい、という感情が、彼女との短い付き合いにおいての置き土産だろうか。今回ばかりは、生きている自分のために欺瞞を重ねなければならなかった少女への罪悪感ではなく、自分のために悲しむことが唯一の救いであり、思いの外喪失感を味わっている自分がおかしくもあった。
先日の父との会話を思い出す。
『あの娘が気に入っているようだな』
あのようなことを言った父へは、あの瞬間とても嬉しそうな顔をした父へは、どう説明すればよいというのか。そういった対処が思い浮かばぬわけではないのだ、と言い聞かせる。もう二度目の満月は近い。あの哀れな娘のためにせめて誰へも言わないことが、己を保つための気高さであった。
そうだ、あの時。
ひとつ静かに深呼吸する。“道化師”のことを思い出した。人ならぬ者のことである。あの道化師ならば、この世の理を変えてしまうことなど容易かろう。
それが、物語というものではないのか。
ぐるぐる、ぐるぐると。思い詰めても失われた命は帰って来ないと皆が言う。だが、悩まずとも時間は戻らない。もう何もなすべきことも、スヴェルが成人となればいよいよ存在自体もなくなる身となって、贖罪を願い続けるのは単なる時間の浪費などではなかった。
ここにきてのあの娘の裏切りは、奇しくも背中を押してくれたといってよい。『死にに行くのではない』と、父を納得させるために口にしたものの。口の大きく裂けた奇妙な仮面……不吉な予感はしていた。
どのくらいの時が経ったろうか。少なくとも夕餉までは時間がありそうだから、思いのほか短かったのかもしれない。とにかく、ようやく落ち着いた頃ウィアドはセレスティナを呼んだ。
いつも通り生真面目な侍女は、ぴんと背筋を伸ばして「何か御用でしょうか」と問うてきた。決して無愛想なわけではない。ウィアド自身が幼い八つ当たりに身を任せていた間でさえ、決して見捨てようという素振りは見せなかった。
立場ゆえではない。彼女はウィアドの心が壊れないことに常に気を配っていた。
「……ティナは、私より随分とよく出来ているな」
思わず零れる。アルジズやラグだけではなかったのかもしれない。本当に、今更だ。
唐突な、それもすばらしく珍しい賛辞にセレスティナは目を白黒とさせる。とはいえ「あの娘に伝言を」と言われれば、顔を引き締め業務にあたる。
「“グレイプニルは断ち切った。私は父に会いに行く。”……そう、伝えて欲しい」
*
さて、侍女にとってはまるで意味の曖昧な伝言をベルカナへ伝えた時、もともとが地味ではあるが活発そうな娘は、心なしか具合の悪そうな表情であった。
「大丈夫ですか、ベルカナ様?」
「え、ええ……少し体調が、すぐれなくて」
「それは大変ですわ。すぐにお薬をお持ち致します。この後の御夕飯はどうなさいます? こちらのお部屋に温かいスープでもお運びしましょうか」
「ありがとうございます。そうしていただけると助かります」
恥ずべき大失態を犯した彼女にとって、侍女の気遣いは本当にありがたいものであった。とてもではないが、王子と会食どころではない。否、この先、地下牢へ入れられるまでに、果たして彼と一度でも顔を合わせることができるだろうか?
伝言が、その証拠だ。グレイプニル……あの巨狼を騙し縛った紐を断ち切った、つまり、ウィアドは謀られたことに気付いたとわざわざ伝えに寄越したのだ。
そして父に会うという文言。最初は父王へ告げられるのだと思った、しかし。
フェンリル狼の父親は誰であったか?
思い出すのは湿った土と、苔の匂い。ウィアドがもしあの道化師の存在を知っていたら? 邂逅の時、その神は何と言っていたか。
『何せキミの父親をはじめ、無名の学者を喚ぶように国王へと進言したのは、このワタシなのだからね』
なんと言えばよいのか、この悲劇は。
頭の隅はどこか冷静で、次々と論が組み立てられていく。ウィアドは己のための犠牲を良しとしなかった。原因たる道化師の存在を知っていれば真っ先に向かうはずだ。しかしこれまでそういった話は聞かなかったし、恐らく『父に会いに行く』という今回の言い方からして、これが初の対面となるのだろう。また、彼は道化師の正体を理解している。
であれば、彼はこれから、ベルカナが思い至る理由――災厄の引き金に何らかの抗を試みるため――とは別の理由で道化師と接触するつもりなのだろう。そしてこれは直感でしかないが、道化師は恐らくベルカナに対して行ったのと同じような“種明かし”をするはずだ。
そうなった時、今のウィアドがどう行動するか。
自分の裏切りが、遥か高みの王子に爪痕を残すなど――それが些細な男女の駆け引きであれば願ったりかなったりであったのに。
否。
ベルカナはそれを望んでいたわけではない。確かにウィアドは魅力的だ。王家の血筋であり、見目麗しく、多才だ。加えて驕らず、責任感も強すぎるほど強い。
だが、そういうことではないのだ。それでは、父親と同じ発想ではないか。
あまりに無礼で身の程知らずなことはわかっている。それでも同じ人の子として。
ただ仲良くなりたかった。話し相手として、楽しく。近づきたかったのは本心だが、それは彼を利用しようとしてのことではない!
「ベルカナ様?」
けれども今できることはあるのか。ベルカナは必死で考えた。
神に抗うことは得策ではない。ウィアドを引き止められるはずもないし、そんな権利があるわけがない。凡庸なる人の子であっても闘うべきだと王子に言ったのはベルカナである。
それならば物語を書き換えてやるのはどうか。
「わたしは、」
二度目の満月はもうすぐだ。しかし黄昏を報せる角笛は、未だ吹き鳴らされていないに違いない。迷っている時間は惜しい。
「必ずや、ウィアド様の呪いを解いてみせます」
決意を、新たに。失われた信頼を自らの手で取り戻すことへ、たとえ災厄の道化師であれ、罰を与えることなどできようものか。