第21話
“父さんへ
お手紙ありがとう。その後、家は変わりないでしょうか。母さんは元気ですか。……”
いつも通りの決まった挨拶を綴ったきり、ベルカナは未だ数行しか埋まっていない返信用に用意した羊皮紙を前にして手を止めていた。脇に広げた真っ黒な便箋は、何通目とも知れない父親からの手紙。
巫女ラグの言葉。道化師との遭遇。
この数日、彼女は自分がどうしたいのかずっと考え続けていた。
父親の言う事を聞きたい気持ちはある。だが、王子を裏切ってまで親の希望を優先できる環境にあるのか、ベルカナ自身がそれで後悔しないのか。
ウィアドに好意を抱いていないと言えば嘘になる。
しかしそれは父親が期待するような想いではなかった。確かに神話や伝承についての話が通じることを嬉しく思いはしたが、それを積極的に発展させていこうというよりはむしろ、恐れ多いことだが、同士のような特別な相手としての好ましさを感じていた。
それよりも、書物や食べ物を差し入れるなどして、どうにか王子と接触を図ろうとする貴族や高官の娘達の方が、自分の魅力を訴えることに関しては余程前向きだ。父親が自分に求めているのはそういう積極性なのだろうな、と送られた手紙を一瞬だけ見て彼女は思う。
見た目が如何にも冴えない田舎娘はそもそも競争相手と見られてはいないのか。それともやはり、継承権の有無も問題なのか。自らを気に入ってもらおうと迫る娘達の努力は、ほとんどが第二王子スヴェルへ向けられており、物語によくあるような宮内でのいじめがなかったことは、ベルカナにとって大きな救いではあったのだが。
色めき立つ少女らを遠目に見ながらも、自分の家のために必死になる彼女らの気持ちは、ベルカナにもとても、とてもよくわかった。
何せ……と彼女は栗色の髪を少しばかり乱暴に掻き上げる。何せ、さして困窮していない家でさえ、あわよくばお零れに与かれはしまいかと思ってしまうくらいなのだから。
誤算であったのは、二年前の事件の原因。魔女と婚姻関係にあったとは、それはますます父の期待に応えられる望みが薄いというもの。
“父さん。わたし、よく考えたのだけど、自分達の利益を勘定してウィアド様と仲良くなろうだなんて、間違っていると思う。”
頭の中では何度も唱えている。あとはそれを紙の上に現してしまえばいい。――よくわかっている。
いざ覚悟を決めたつもりで綴ろうと思うとその頃にはペン先はすっかり乾いてしまっていて、インク壺に羽根を浸せばいいだけだと理解してはいても、その一動作までの間にまた逡巡してしまう。結局、決意は揺らぐばかり。
それは道化師から任務の期限を告げられたせいかもしれなかった。残り十日と少し。結果を出すことができなければ二度と陽を見ることは叶わない。
正直ベルカナ自身も、次の満月までに王子の呪いを解くことは難しいと思っている。神話談義は楽しい時間ではあったものの、有益な手がかりがあったかといえば進行具合は芳しくはなく、ウィアドの側も不可能を承知した上で日々を過ごしているような気さえする。
呪った本人が死すれば、呪いは解けるという定石もある。だが現実にウィアドは少年のまま。魔女も、仮に呪った人物であったとして剣士アルジズまでもが絶命した今、呪学や医学の大家が挑んでも解明できなかった呪いの原因の謎を、ちっぽけな田舎娘が解けるはずもないのだ。
ベルカナは城へ来た当初に抱いた胸の熱を、もはや忘れかけていた。そもそもはじめから難題であったことはわかっていた。つまり彼女が解呪の任に就いたのは、いざとなれば父親の言う“目的”があったからに他ならない。だから、今更になってその“目的”を無碍にすることができないのだ。もしもそれを拠り所にしていれば、少なくとも、任期が終わっても地下牢へ軟禁されるような事態は避けられる。
身も蓋もない言い方をすれば。王子に気に入られれば、王家との繋がりによって彼女の未来は安泰。その際に呪いが解けていようが解けていまいが、どうだっていいことだ。
そうして割り切って考えることができればどんなに楽だったことか。良心を煩わしく思うことがなかったあたり、彼女はまだ優しい娘だと言えるかもしれない。
現実に生きている王子と接して、言葉を交わして。生きた人間を白か黒かで分類することなど、ベルカナには無理な話だった。
いっそ異性として近寄ろうとするか、最後まで任に徹するか。悩んでいる時間さえも本当ならもったいない。
王子に気に入られるためにも、呪いを解くという成果を上げることは無駄にはならないだろう。いずれにせよ解呪を成功させようという方向で行動するに越したことはないのだが、その間に、彼を騙しているという罪悪感が付きまとうのがベルカナは嫌になってしまったのだ。
きちんと断ろう。
とうとう彼女はペンを壺に浸した。父親に自分の気持ちを伝えるために。
親を悪だとは思わないし、正義だとも思わない。父は実際にウィアドに会っていないし、城の空気を体験していないのだから、どこか安直なような考えが生まれるのは仕方のないことだし、それぞれ個人の主義や思想として認めるべき。ただ今回は少し違う行動をしたいんだと、伝えるだけ。
ベルカナが運命の一文に着手した時だった。扉が二度、叩かれる。
「――失礼いたします。ベルカナ様、入ってもよろしいですか?」
それは年上の侍女の声。慌てて許可の言葉を投げれば、いつもと変わらず黒髪を結い上げたセレスティナが入室してくる。
「そろそろお時間ですわ」
「ああ、もう、そんな時間でしたか」
手紙の内容を読まれるわけにはいかないと、ベルカナは真っ先に二枚の羊皮紙を重ねて折りたたむ。この際少しくらいインクが写ってしまっても仕様がない。とにかく慌てず、自然さを心がけて互いの手紙を隠してしまわなければ。
送られてきた手紙は普段は鍵付きの小箱にまとめてしまっている。もちろん鍵はベルカナが持っているから、中身を見られる心配はない。しかし今セレスティナの目の前で箱を取り出し、その存在に注目されることは避けたかった。故にベルカナは、折りたたんだ紙をそっと懐にしまいこんだのだった。
「あら、お返事を書いていらしたんですね。よろしいんですか?」
「はい、戻ってきてからでも書けますから」
ベルカナの所作に細かい注意を払うこともなく、セレスティナはただ机上の筆記具にだけ視線を遣っている。「一旦、片付けておきますね」と壺の蓋を閉めた侍女に、ベルカナは無言で小さく頭を下げた。内心の安堵を悟ることができるのは、あの巫女くらいのものだろう。
セレスティナは筆記具をしまい終えると、今度は少女自身の身支度を整えにかかる。といっても、軽く衣服や髪の乱れを直す程度だが。
「前回に仰っていましたけれど、一応、今回で一区切りなのですよね」
まるで初めての衣装を合わせる時のように肩口の形を整えながら侍女が問う。
彼女の言う通り、マーニアとソーリア、それと狼達を中心とした物語は今日で大体の区切りを迎える。それもこれも、任期が存在することなど思いも寄らない頃からの計画。決して綿密なものではないが、あと僅かしか時間が残されていないのなら、結果はどうであれこの後に話す物語が最後となるだろう。厳選しなければと思う一方、任期について知らないはずはなかろうにと侍女を恨めしく思いたくなる。
しかし、隠し事があるのはお互い様。自分の手の内を明かさずに相手の札を見ようとすれば、釣りあわせるための手痛いしっぺ返しを見舞われるに決まっている。
「次からはどんなお話をなさるんですの?」
次回から始まる語りが終焉を迎える頃には、ベルカナは既に地下牢の中かもしれない。それをわかっていながら弾んだ声音で尋ねた侍女に、少女は精一杯の笑顔を返した。
「それはまだ、決めてはいないのですけど……そうそう、例えば――詩人の蜜酒のお話なんて、どうでしょう?」
*
どんな時であれ、事件は唐突に起きるものである。それが祝いの席であれ、単なる日常と化した作業の中であれ。水面に石を投げたのが意思ゆえでも、その波紋の形は人に決められるものではない。
神話談義が済んで後、部屋に戻ってから返事を書こうとしたベルカナは、懐にあの羊皮紙がなくなっていることに気付く。
味わったことのない、血の気が引く感覚。やけに速く、そして不自然に遠い鼓動の音。
何もかもが終わった。
彼女が思うのは、今、ただそればかりであった。