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第16話


 肩を怒らせ、足音も荒く歩廊を進む少女。夕餉の時間に平静に顔を合わせられるように発散しておかなければ。それとも食卓を共にすることさえ断られるほど、先方の機嫌を損ねてしまったか?

 それはない、と熱い頭の隅でベルカナは考え直した。王子は感情を行動に繋げることも諦めてしまっているようだから、セレスティナが拒絶の伝言を運んでくることはない。

 彼女にはわかっていた。この気持ちは怒りだけでなく、焦りを含んでいるのだ。


 私室までの道程を半分ほど踏み鳴らしたあたりだろうか、彼女はようやく異変に気が付く。

 無我夢中でいるうちに調子に乗って大きな音などたててきてしまったが、それを咎める者は誰もいなかった。

 否。改めて廊下の先を見通す、そして辿ってきた道を振り返る。いつも書類を抱えて忙しなく行き交う文官も、ベルカナを見れば服の裾をつまんで会釈をする侍女も、剣を腰に堂々と行く護衛の剣士らの姿までもが見えない。

 異様な静寂。

 再び前へと顔を向けたベルカナは、その静けさの中にひとつの足音を聞いた。それと共に、先には気配すらなかった何者かが近づいてくることも認めた。

 見慣れない影かと思えば、先端の反り返った靴、やけにだぼついた派手なズボン。装飾のついた白いシャツの上に、袖のない極彩色の上着。そして……ニタリと嗤う、仮面。

 どこまでも道化、しかし人を楽しませるにしては、大きく吊り上った口はむしろ恐怖心を煽る。

 ベルカナは身を硬くして相手の出方を待つ。城内を自由に歩き回っているから、王室お抱えの芸人なのかもしれない。が、その可能性もすぐさま己で否定する。沈黙の世界に現れた鮮やかな一点。こうして異常の中に通常でいるあの道化師もまた、異常なのに違いないのだ。

 案の定、わざとらしいほどに長い時間をかけて歩いてきたその道化師は、とうとうベルカナの眼前で足を止める。近くで見ればますます奇怪としか言いようがない、異質な存在。

「――王家の人間に嘘を吐くなんて、キミもなかなか大それたことをする」

 突然の邂逅。口火を切ったのは道化師だった。その声は貼り付いた表情に違わず、どこか他者を小馬鹿にしたように嗤っていたが、言葉は揶揄もおどけも捨て去り真っ直ぐに核心を衝く。仮面の向こうで彼が目を細めたことがわかる。

「…………何のお話ですか」

 やっとのことで発した声は自分でもわかるほどに掠れていた。汗は滲むのに、喉が()けたようにひりつく。

「キミが王子を利用しようとしていることくらい知っているんだよ。何せキミの父親をはじめ、無名の学者を()ぶように国王へと進言したのは、このワタシなのだからね」

 ベルカナは思わず翡翠の双眸を見開く。

「ああ、安心してくれていいとも。ワタシは王の家臣ではないから、そのことでキミの立場が危うくなることはない。でもキミももう気付いているとは思うけど……甘かったね。キミら親子が考えるほど軽い問題ではなかったというわけさ」

 浅い呼吸を繰り返す少女の耳元に、道化師は流れるような動作で口を近づけた。一瞬薫ったのは森の木々にも似た匂いと、湿った苔の匂い。ベルカナは彼の昏い金色の髪を視界に捉えたまま身動ぎもできなかった。

「ワタシの息子達を愛してくれるお礼に、キミにはいいことを教えてあげよう。王は二度の満月を迎えて成果が出なければ、学者達を解任してきた」

「何ですって?」

 甘く囁かれた残酷な事実にぎょっとする。

「だから、あと一回だ。次の満月を見たら――」

 あまりにも短すぎる。それではどちらの目的を果たすにしろ時間が足りない。

 ベルカナの焦りを嘲笑い、道化師はわざと何でもないことのように結末を予言する。

「キミはもう、一生この城から出られない」

 三十日、否、実際にはそれよりも少ない日数しか彼女には残されていないのだ。それまでに決断し、かつ、結果を出さねばならない。でないと少女もまた地下牢の囚人の仲間入りを果たすことになろう。

「“ワタシは変わり、ワタシは出来事を生む”」

 顔を離す時に道化師はそう呟いた。

 そして自身より背の低いベルカナに鹿爪(しかつめ)らしく腰を折り、

「馬鹿みたいに踊ってみるのもいいだろう、お嬢さん。踊らされていると気付かないうちは、ね」

 混乱に思考を掻き消された少女の目の前で、大気に溶けるように見えなくなった。窓からは明るい光が差し込んでいるにもかかわらず、だ。途端に戻ってくる背景、音。そして再び動き出す時計。

 幽霊の類ではないだろう、彼の身体には感触があった。しかし人間でもないに決まっている、彼の作り出した空間の奇妙さを思えば。


 “ワタシの息子達を愛してくれるお礼に、キミにはいいことを教えてあげよう”


 馬鹿げている。たとえ話をしても誰も信じてくれないだろう、それでも。少女は確かに出遭ってしまったのだ、千変万化の道化師(巨狼の父親)に。

 それから彼女に気付いた通りすがりの侍女が慌てて駆け寄ってくるまで、ベルカナは震える体を抱いて廊下の真ん中に座り込んでいた。



 ロキは、月女神を祀った神殿を訪れていた。

 目的はもちろん祈りを捧げることなどではない。彼は、彼の目の前で強気に見上げてくる小さな巫女に会うためにやって来たのだ。

 まるで親子のような身長差。だが、彼らの関係は友好なものからは程遠い。仮面は不気味な笑みで巫女を見下ろし、対する乙女は凛とした深緑の眼差しで迎え撃つ。

「キミがあの娘の意図に気付かなかったはずはないだろうに」

 指すのは一介の学者の娘。

「どうして王に報告しなかった? 城に立ち入る者の邪心の有無を確かめる――それがキミの仕事だろう。それとも何かな、王子のことなんてどうでもよくなっ」

「違います」

 ぴしゃりと、他人の心を読むことのできる少女は神の言葉を断った。纏う空気をロキは意外そうに揺らめかせたが、次瞬にはそれさえも愉快で仕方がないという風に一層笑みを深める。

 相手が相手、仮面の向こうで歪んだ表情を読み取ることさえもできなかったが、ラグは背筋を伸ばしたまま微動だにしない。

「あれは邪心と呼ぶほどのものではありません。解呪以外に彼女が抱くのがあの目的なら、少なくともウィアドを傷つけることはないから」

「まぁ、そうだろうとも。確かに二年前の魔女みたいにはならないだろうさ」

 ラグがはじめて不快げに眉根を寄せた。


 疑うことを前提とした役割は辛いもの。しかしウィアドのためならどのような苦みでも耐えると、彼女は二年前のあの日に誓ったのだ。

 普通の人間にはわからないであろう機微も、特別な力を持つ巫女になら判った可能性は高い。奇異の視線から逃れるために読心を極力封じていたとはいえ、事前に自分が魔女の邪な心に気付いてさえいれば。ラグは何度も悔やんだ。

 そんな折の国王からの提案。外部から誰かを招く際に、先んじてラグがその者の心を覗き見ること。それは悪意ある者を二度と城内へと入れないための策だった。

 ウィアドの解呪の任に就く者は国内出身者と限定された。加えてラグの審査である。これにより邪な思いを抱いて王子へと近づく者は格段に減った。ラグは当人に気付かれないうちに審査を行っていたから、何が理由かもわからないままに地下牢へと放り込まれる者が出る恐れはあった。

 幸いと言うべきか、王家の誰かを傷つけようとする悪意を持つ者はなかった。そして同時、王子のことを本当に考えている者もなかった。

「自分の名誉のため、ウィアドを研究対象として見ていた輩よりは、ずっといいと思います」

 吐き捨てるようにラグは言う。

 確かに彼らは真面目に任務を果たそうと取り組んだが、その向こうに別の目的があって、そちらをむしろ重視していることもまた事実だった。謎の呪いは学問の探究者にとっては興味をそそるうってつけの題材であったし、さらに王子を救ったとなれば栄光の未来は確定したも同然なのだから。

「でも彼女は別だとキミは言うのだね?」

「……わざわざ自分に会いに、神殿まで来ただけましでしょう」

 ロキの問いかけに、すぐには答えることができなかった。ベルカナも純粋にウィアドのことだけを考えているとは言い難かったからだ。

 しかし巫女は娘の心に微かな迷いの感情を見た。これまで解呪を任された人間とは違い、歴史や論理ではなく、ウィアド個人を診ようとしている行動に少しだけ期待をしてみたくなったというのもある。だからラグは、忠告をした。

「陛下には、彼女のことに関して留意されるよう申し上げるつもりはありません」

「わかっているとも。ワタシも何も言うつもりはないしね」

 下からの睨むような視線をひらひらと片手を振ってやり過ごし、ロキは何を思ったか、部屋の中央に位置する月女神マーニの像へと向き直る。珍しくも無言の道化師の姿に、ついラグの方もつられて像を見上げると。

「……父親にその名を付けられなければ、追われることもなかったのかもしれないね」

 驚くほどに静かな声音。ラグは思わず道化師の顔を見たが、相変わらず、仮面の奥の感情を読み取ることは叶わなかった。

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