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第15話


「ウィアド様っ!」

 少女の怒号が第一王子の私室の空気を震わせたのは、農夫達に終業を報せる夕の鐘が鳴る時分。机に向かって書き物をしていたウィアドは、挨拶もなしに飛び込んできたベルカナを半身ごと振り返る。見れば、いつも穏やかで理知的な娘は興奮に顔を上気させており、そのただならぬ様子に、咎めるより先に彼は驚愕で手一杯であった。

 足音も荒くウィアドの目の前に立った彼女はそこでようやく「失礼しました」と投げ遣りに呟いた。が、それが謝罪ではなく単なる入室のための文言であるのは自明。彼女はどうやら何事かについて相当に腹を立てているらしい。

 夕餉の時間にはまだ早い。何事か、とウィアドが尋ねるより先にベルカナが叫ぶ。

「どういうことですかッ!」

「何がだ」

 いきなり怒鳴り込まれて良い気分になどなるはずもない。見上げるウィアドも顔をしかめる。

 ただ――ベルカナ自身にも、どうして自分がこれほどまでに腹を立てているのかわからなかった。しかし考えるより先に体が動いてしまっていた、言葉が溢れてしまっていた。

「つい先程、スヴェル様とお会いしました」

 ウィアドの柳眉がわずかに跳ねる。ベルカナはスヴェルと別れてから当初の予定を変更し、そのままの勢いでウィアドの部屋へやってきたというわけだ。

「どうして事実をお教えしないのですか」

「……どういう意味だ」

「スヴェル様はウィアド様の呪いをお認めにならない」

「……」

 彼が下唇に歯を立てたのは一瞬のこと。直後には既に、少年の濃紺の瞳は冴え冴えとした冷たさで覆われる。

「まさかスヴェル様は本当にご存知ないのですか?」

「それはない」

 きっぱりと遮る。ウィアドはもはや完全に椅子の向きを反転させ、未だに小さく体を震わせている娘を、腕を組んだ状態で見上げた。

「それはあり得ない。マーニア国第一王子ウィアド・アルスヴィズは二年前のあの日に死んだ。これだけ近くにいて肉親の死を知らないことなどあるまい。ただスヴェルは“認められない”だけだ。この容姿ですれ違おうとも声をかけることはない。兄が年端もいかぬ少年であると、受け入れられないのだろうな」

「だからっ、それは――」

「私が解せないのは君がそこまで怒る理由だ。もしも現実を直視できないことを責めるのなら、スヴェルに直接言えばよい」

「そうではなくて!」

 思いが言葉にならないもどかしさ。せっかく築いてきた関係を張りつめさせたことに対してもベルカナは自己嫌悪を感じ始めていた。しかし言わなければ気が済まないことがある、それは多分――。

「家族にまで存在を認められないなどと、そのような寂しいことがありますか!」

 ベルカナの家族との関係が頗る良好であったせいもあるかもしれない。世間並に反発することもあれど、肉親への情愛という根幹は揺るぎなかったから。

 ともかく。呪いを受けて以降の彼もウィアド・アルスヴィズに違いないのだ。彼は彼のまま、中身は変わりないというのに。本人が死を望んでいるのかもしれない、それでも、彼をウィアドと認めない者がいることが、さらにその現実を当人が受け入れてしまっていることが、ベルカナには悲しくて仕方がなかった。

「……スヴェルは今、大事な時期にある」

 しばしの間を置き、少しだけ小さな声でウィアドは言う。

「余計な問題は彼を惑わすのみならず、国をも揺るがしかねない。マーニアの未来はもはや彼に託されるしかないのだ」

「しかし王位継承権は」

 ベルカナは疑問を口にしようとして思いとどまる。それが愚問であることに気付いたのだ。

「弟が王位を継ぐことに関して心配はしていない。往々にして二番手というのは先んずるものと比べられるが、あれは単に私の後ろで微笑んでいるのが好きだっただけで……否、私がいたからそうせざるを得なかっただけで、純粋な(まつりごと)や剣技の才では何ら遜色ない結果を出している」

 淡々と。

「彼が次期国王となることに異論を唱える者もある。確かにまだ大人になりきれていない面もあるが、成人の儀を経れば文句のつけようもあるまい」

 スヴェルは十七歳、そして成人として社会に認められるのは十八歳から。あの少年が冠を戴く日はそう遠くない。

 もしそうなってしまえば――、と、そこでベルカナは大きな問題に気付いてしまう。本当に今更の問題に。

 ウィアドは死んだものだと国民には思われている。国王が一度は――それはウィアドに対しての話ではあったが――譲位を宣言した手前、スヴェルの名前を知る彼らはもう第二王子が後を継ぐものと信じているだろう。成人と同時に彼が即位しなければ逆に訝しむに違いない。ウィアドのことさえ隠している王家としては、国民に疑念を抱かれることは決して好ましくないはず。

 だが。

 スヴェルが王位を継げば必然的に、第一王子という肩書きは何の意味も成さなくなる。彼の居場所は?

 それと……自分の役割は?

 地下牢に囚われているという大勢の学者や医師達、彼らはどうして解呪の任を解かれたのか。皆が皆、途中で諦めたわけではないだろう。であるなら、この任務には期限がある可能性が高い。

 ベルカナの父のような無名の学者にまで声がかかった理由も納得がいく。恐らく各人に与えられる時間の猶予はそう長くない。失敗に次ぐ失敗、次から次へと新しい人間を呼び寄せ、すぐに成果を出すことができなければ牢へ放り込み、また別の人間を召喚する。要するに数を撃っているのだ。

 少女は自身の内側で潮が引く音を聞いた気がした。――自分の任期はいつまでなのか?

「じきに私の名は民の記憶から消えるだろう」

 銀色の長い睫毛(まつげ)が伏せられる。

 自棄になっているだけだと指摘するのは簡単だ。王家の方針を糾弾することも造作ない。しかし所詮、他人は表に見える判断材料しか持たない。ここにきてベルカナは、ウィアドに生を奨めることが本当に正しいのかどうか自信を保てなくなっていた。その上、むしろ彼は己のために人の命が捧げられることをまるで良しとしない人物。

 国王か――、難儀な事情を苦々しく思う。動悸が止まらない。

 親は子を救いたいがために、子が望まないと知りながらも、その方法に(すが)らざるを得ない。

 弟は兄に英雄を見、憧れの像を頑なに守り続ける。

 そしてウィアドはいずれの幻想をも保つために心を砕いているのだ。無用の命ならばせめて誰をも傷つけないように――彼の言葉は虚言ではなかった。

「……ウィアド様は本当にそれでよろしいのですか」

「スヴェルの、ひいてはマーニアのためになるのなら。長い目で見れば、この方が民にとっては幸せだ」

「でも貴方は幸せじゃない!」

「だが私は生きている」

 反駁は静かな、されど確固たるものだった。

「友は死んだ。だが私はこうして命を得た。呪詛が付きまとおうとも……これを幸福とせずして他に何を望むことができると言うのだ」

「……」

 唇を引き結んだベルカナにウィアドは背を向ける。

「用が済んだのなら戻るがいい」

 語るのは少年の声。それでも少女が抗うことは許されない、重み。

 どちらにせよ彼女にはこれ以上言うべき言葉はなかった。

 「失礼します」と今度は少しだけ張りのある声を無理に作り、机へ向かう小さな背中をわざと視界には入れないようにして退出したのだった。

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