第12話
今日は王子との神話談義は休みだ。数日前にセレスティナを通して伝達があった。
数日間連続で通い詰めていたので、ちょうど良い小休止なのかもしれないとベルカナは思う。彼女にとっても王子と連日、長時間にわたって顔を突き合わせているのはあまり好ましい状況ではなかった。そう頻繁に会うにしては互いの関係は脆いし、下手をすれば疎ましがられる可能性もあり、それは彼女が抱く“目的”に対して大きな障害となる。
それでベルカナは息抜きついでに、城から歩いてすぐの場所にある神殿へと行ってみることにした。セレスティナが言っていた、ウィアドと親しい巫女と話ができればなお良い。ただし夕食は王子と卓を共にすることとなったから、それまでには戻らなければならない。
そう急ぐ用事でもないと余裕を持っていたら、結局はいつも王子のところへ行くのと同じような時間帯になってしまった。気楽すぎる格好もどうかと思いはしたものの、あくまで私用で出かけるだけなのだからと自分に言い聞かせ、結果として彼女はワンピースに薄手の上着を羽織っただけという地味な服装で城の廊下を歩いていた。
成人したばかりの娘が城内にやって来たということでもともと話題の種だったのだろう。数日ですっかり名前を憶えられてしまっている彼女には、すれ違う侍女や官吏らも親しげに挨拶をしてくれる。
全てが平穏とは言えない城の中だけれども、長閑で優しい空気が流れていることも確かだ。窓の外に気持ちの良い青空が見えることもあって、休養を得たベルカナの機嫌はすこぶる良かった。
「――兄上っ」
耳に届いた声に、思わずその方向を見遣る。
真っ直ぐ通り過ぎようとしていた角を曲がったその向こう、歩きながらの一瞬に横を見たベルカナの目に映ったのは二人の男性の姿。
灰みがかった銀髪の少年が、瞳を輝かせながらもう片方の男性を見上げている。長身の男性はベルカナに背を向けていたから顔を見ることは叶わない。だが彼らが身に纏う上衣の紫は高貴の証であり、このマーニアにおいてそう多くの人間に許された色ではない。
思考はすれど彼女は足を止めなかった。気にはなったが、躊躇している間に、後戻りするにしては不自然な距離を通り過ぎてしまう。
最初は少年の側をウィアドだと思った。しかし彼はあんなに興奮気味に声を上げないだろうし、何よりどちらかといえば見覚えがある銀色を有していたのは、長身の男性の方だったのだ。
腑に落ちない感を抱きながらも、機会があれば夕飯の時にでも尋ねてみれば良いと思い直し。その出来事は頭の隅に追いやって、彼女は再び神殿を目指すのだった。
*
その石造りの建造物は本当に城の目と鼻の先にあった。昼下がりの陽気の下を歩いても、汗ばむ暇もないくらい。
月女神マーニアを祀った聖域。外見は、平たい箱に入り口や窓がついているだけの質素な建物だが、壁面に施された彫刻は遠目でも手の込んだものとわかる。後で全面、細かく見て行こうとベルカナは思う。
田舎に住んでいた彼女が、王都にあるこの神殿を訪れるのは初めてだ。人づてに話を聞いたことはあったものの、いざ本物を目の前にすると緊張せずにはいられない。各地から参拝しにやって来る者もいるそうだが、そういった一般の人間は日にせいぜい片手で数えられる程度だという。やはり大半は王宮の関係者。門をくぐってみた今もどうやら、ベルカナ以外に神殿を訪れている者はいないようだった。
まず現れたのは、脇に円柱が並んだ、まっすぐ奥に続く通路。一歩入ると中に溜まっていた冷たい空気が揺れた、気がした。外と比べて幾分か涼しいが、湿度はそう高くなさそうだ。陽光には劣る明るさもさほど問題にはならず、通路脇に立ち並ぶ像を見ることができるくらい。
等間隔でそびえる石柱の一本一本の上方に、中程度の大きさをした像が飾られている。ベルカナがいる位置からは細かい表情までは見ることができないけれども、それぞれに特徴的な容姿や得物から、神話に登場する英雄や神々の像だとすぐにわかる。
足音は響くが、硬い音色が吸い込まれ消えてしまうほど通路は長くない。像を眺めながら少しゆっくりと進んだ彼女の目の前に、第二の門。
唐突に開けた場所がベルカナを出迎える。しかしそこが終点であるらしかった。広い部屋のほぼ中央に一番大きな石像が立っていたのだ。長い衣を身に纏い、頭上にはヤドリギの冠を頂き、天へ向けて掲げた手の平には象徴の球体。無論、それは月女神マーニアの像だった。
女神像の前にある祭壇には未だ新しい供物が置いてある。乙女に捧げた花束と酒杯とは、一体誰が祈った結果だろうか。
しばし像に見惚れていたベルカナは、背後から聴こえた音に慌てて振り向く。彼女が先程くぐった入り口の隣にまた小さな扉があり、そこから一人の巫女が出てきたところだった。
先に声をかけたのは巫女。戸惑うベルカナのもとへとゆっくり近づいてくる。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
ベルカナがどぎまぎしてしまったのは急に声をかけられたこともそうだが、それよりも巫女の容姿についてだった。確かに聖職者の服装をしているが、背丈はウィアドよりも小さく、まだ年端もいかない幼い少女にしか見えない。
しかしそれにしては纏う空気がどことなく大人びている。彼女は特に華美な容姿をしているわけではなかったが、人目を惹きつける何かを持っていた。あえて挙げるとすれば、腰元まで伸びた蒼く長い髪は目立つだろうか。巫女が涼しげに見上げてくるので、ベルカナは愛想笑いを保つのに些か苦労しなければならなかった。
「良い場所ですね。気持ちが落ち着きます」
「……」
ベルカナをじっと見上げてくる少女は無言のまま。しんと静まり返った水面のような深緑の双眸に、吸い込まれそうな錯覚をも覚える。
まだ何か言うべき挨拶があったのか、それとも服装がまずかったのか……落ち着きなく思案するベルカナを尻目、ずっと黙っていた巫女は微かに目を見開く。小さな唇が開かれて、零れた声も澄んだ音色。
「あなた、ウィアドに、隠し事してる」
揺るぎない指摘にベルカナは内心大いに動揺した。心当たりは確かにある一方、もしかすると別のことかもしれないと警鐘を抑え込む。初対面の巫女に知られているはずはない、きっとこの少女は普遍的な言葉で神託の真似事でもしているのだろう。
「……ウィアドを傷つけたら、だめ」
だが次の言葉は決定打としてベルカナを打ちのめした。その物言いから同時に悟る……この一見して幼い少女こそ、セレスティナの言っていたラグという巫女に違いない。
「取り返しのつかないことになる前に、正直になるか、諦めるか、するべきです」
立ち尽くすベルカナに少女は軽く頭を下げ。ごめんなさい、と消え入るような声で呟くと、現れたのと同じ扉の向こうへと帰って行ってしまう。
返事をすることも追うこともできないまま、やがてベルカナは月女神の石像を仰ぎ見留める。その無機質な瞳に、初めて畏れを感じた。