第10話
セレスティナは悩んでいた。
王子が笑わなくなったのは、無口になってしまったのは、彼女が作った菓子を食べてくれなくなったのは。全て、何もかも……あの日から。
以前からどちらかと言えば饒舌な方ではなく、やけに大人びて飄々とした人物ではあった。それでも表情はもっと柔らかかったし、何より生き生きとしていたのだ、王宮の娘全ての憧れたる彼は。
自ら望んで表舞台から下がって後。継承権すら失った身に時間と労力を割かせることを良しとしなかった王子だったが、願ってすぐに下野などできるものではなく。城内に留まる結論に落ち着いたとはいえ、自身で支障なく家事の類をこなすことは難しい。
ようやく渋々ながらも傍仕えを承諾したのは、侍女が一人と護衛が二人。その唯一の世話係こそがセレスティナだったのだ。
多少妬まれはしたものの、かれこれ五年以上もの間、第一王子のために頑張ってきた彼女のことを仲間達もよく知っていたから、同僚の侍女らは快く背中を押してくれた。セレスティナ自身も当初は浮かれていたものだ。
しかし呪いを受けて以降のウィアドは、まるで別人だった。見た目だけではない。むしろ内側――魂がどこか遠くへ行ってしまったかのようだった。
ウィアド様はお亡くなりになったのだと、不謹慎なことを囁く輩も少数ながら現れた。もう“月女神の愛し子”は戻ってこないのだと。実際、彼は幾度も自殺未遂を繰り返した。
けれど今はそれさえもしなくなってしまった。本来ならば喜ばしいこと、なのだろうに。無気力な日々を繰り返す王子の姿は、彼が本来担っていたものの大きさを思えば一層、見ているセレスティナの胸を締め付けるのだった。
同じ空間にいたところで、必要以上の会話が為されることはない。それでセレスティナはいつも、ウィアドが食事を摂っている最中は退室し、終えた頃に再び皿を片付けに訪れる……というようにしていた。
だが今日は違う。彼女は伝えねばならないことがあって、少年が機械的に料理を口に運ぶのを眺めながら、機会を窺っている。
食器が擦れ合う音だけが響く、静かな室内。粗相の気配ひとつなく、慣れた手つきで食べ物を切り分けては黙々と平らげていく幼い少年。食事の最中に傍観者が一人増えたところで、彼にとっては些細な違和に過ぎないのだろう。
どことなく虚しくて、というか沈黙に耐えかねて、とうとうセレスティナは「ウィアド様」と声をかけた。
「お食事中に申し訳ありません。少々お話が」
ぴたりと動きを止めた少年は一瞬の間を空けてから、ナイフとフォークを置き、白いナプキンで丁寧に口を拭い、セレスティナを見上げた。
「……何だ」
ここまで耳を傾けてもらえることが逆に意外だった彼女はたじろいだが、それは表に出すことなく、ただ必要な情報のみを伝えようとする。
しかしまとめようとすればするほど、考えが上滑りするような。思い返せば、こうしてきちんと向き合って会話をしたのはいつ以来だったろうか。
「お、お食事をご一緒してもよろしいでしょうか?」
「……私と、ティナがか?」
「ああぁ、いえ、そうではなくてっ、」
わずかに目を見開いた王子を見、侍女は顔を真っ赤にしつつあたふたと手を動かす。伝えたいことの半分以上が抜け落ち、提案の内容も内容。彼女自身はよもやこれほど緊張するとは思ってもおらず、怪訝そうにする王子の機嫌を損ねてしまったかと思ったのだ。
「っ……」
ところが次に聞こえたのは怒号などではなく、小さな、本当に小さな呼気を漏らす音。
思わず固まるセレスティナ。
「君がそこまで取り乱すなんて、珍しい」
侍女でさえ対等に呼んでくれる白銀の君は、久しく私事で言葉を交わすこともなかった麗しの少年は――笑っていた。
確かにそれは笑顔と呼ぶには程遠い、本当にわずかな唇の歪み。だが長年付き従ってきたセレスティナにはわかる。彼が凍てついた表情を微かに弛め、それを自身で気恥ずかしく思っているであろうことも、濃紺の双眸が逸らされたために読み取ることができた。
はっと我に返り言葉を続けた時にはもう、彼女は緊張など忘れていた。
「あのっ、わたくしではなくてですね、ベルカナ様が」
「あの娘が?」
「はいっ。わたくしがお二方のお世話をして差し上げていると申しましたら、気遣っていただいてしまって……おひとりでの食卓は寂しい、お食事を運ぶのもその方が一度で済むから、と」
正直、セレスティナは話している中身をよく覚えてはいない。ベルカナには申し訳ないことになるが、王子の許可がなくてもそれはそれで構わなかった。ウィアドと会話ができている、この状況がただひたすらに嬉しくて堪らなかったのだ。
それでもウィアドの側は何か思うところがあるらしく、元の無表情に戻りながらも、顎に軽く手を当て思案している様子。
「それは朝か? 夕餉だけか?」
「どちらでも。ウィアド様にお任せすると仰っていました」
やがて腕を組みつつ椅子にもたれ、ウィアドは軽くうなずいた。
「夕食だけならば構わないだろう。あまり頻繁に通っていては怪しまれるかもしれないからな、それではあの娘が可哀想だ」
独り身の王子の私室に年頃の娘が通い詰める。如何なる背景があるにせよ、傍からすればその行為は特別な意味を持ちかねない。
セレスティナはそこまで配慮が至らなかった己を恥じた。と同時に、間違いなく民のための名君になるであろう彼の素質が無為に終わっていることを、悔しくも思うのだった。
「料理は彼女と同じものを出してくれないか。私が彼女に合わせよう」
「承知いたしました。きっとベルカナ様もお喜びになりますわ」
侍女は慕う王子に向けて腰を折った。
「それと、」
「はい」
「明日のために服を用意してくれ。今夜中に」
頭を上げた彼女に、否、どこか遠くに眼差しを飛ばし、ウィアドは驚くほどに色のない声を出した。
セレスティナの顔が強張る。対照的にウィアドの表情はまるで平淡だった。虚ろ、と言っても差し支えない。極力“明日”のことを考えないようにしているのだ。
「……」
再び気まずい沈黙が訪れた。
ウィアドは膝に置いていたナプキンをおもむろに畳み、ナイフやフォークを皿の端へと寄せた。
「すまないが、片付けてくれ」
大方食べ終えていた料理を下げるように要求すると、彼は片付けが途中であるにもかかわらず席を立つ。そしてそのまま併設されている小部屋――浴室へ。
「湯を浴びる。服はどこか適当に置いておいてくれればいい」
「は、はい」
セレスティナは皿を片付ける手も止めて、小さな背中が扉の向こうに消えるのをじっと見つめていた。
王子は“月に一度の日”が近づくにつれ、次第に落ち着きがなくなる。今回はベルカナが来たこともあってか、かなり平静を保っている様子だったのだが。やはり前日ともなると意識せずにはいられないのだろう。
明日は月女神の加護が強まる日、銀狼ハティが吼える夜――満月、なのだ。