第八話「『姉』と言う名の絶滅危惧種」
ふと気が付くと、僕は綺麗な花の園にいた。
そこはとても心地よく、心が穏やかになる。
どうして僕がこんな所にいるのか、そんな事はこの気持ちよさの中では、どうでもいいと感じてしまう。
近くに人の気配がする。
気配の方を向いてみると、そこには死んだはずの父さんと、母さんがいた。
「父さん、母さん、どうして……?」
「それはね才人、ここは天国なの。あなたが死んだから私達、また会えたのよ」
「なーんだ、そっか~」
それなら納得だ。
そうかそうか、僕は死んじゃったのか……。
「って、そんな事なってたまるかああああああああ!!」
勢いよく起き上がる。
また天国に行ってしまわないように。
起きてみると、今度は違わず家にいた。
どうやら臨死体験をしただけだったらしい。
そもそも、親の顔なんて忘れているのだから、誰が父さんと母さんなのか、見ただけで分かるわけがない。
「あ、お兄ちゃん! よかった~」
瑠璃は心底安心した様子で、こちらを見ていた。
あれからどれだけの時間が経ったのかは定かでないけれど、後少しでも瑠璃の救出が遅ければ、僕は確実に天国へ住み着いていただろう。
「ごめんね~、サーくん。大丈夫だった?」
先程僕を絞め殺しかけた女性が、本当にすまなかったという顔で謝罪をしてくる。
どうやら本人に悪気があったわけではないようだ。
あっても困るのだけど。
僕の事を『サーくん』と呼ぶこの女性は、黒く長い髪が、整った顔立ちによく似合い、典型的な和風美人という印象が持たれる。
年齢は、おそらく二十代前半かと思われるが、あまり詮索するのは止しておこう。
そして何よりも特徴的なのが、僕を絞め殺す凶器になりかけていた、例えるならメロン程の、大きな胸。
あんな大きな物で圧迫されたら、呼吸なんて出来なくなって当然だ。
本来男ならそういう時喜ぶんだろうけど、流石に僕の命を奪いかけたものなので、素直に喜べない。
むしろ怖い。
瑠璃はこの女性を『お姉ちゃん』と呼んだけれど、果たしてこの女性は本当に僕の『姉』なんだろうか。
「大丈夫、です。全然問題ないですから、気にしないで下さい」
本当は、全く大丈夫じゃないです、と言いたい気持ちを必死に抑える。
この人だって悪気があったわけじゃないのだから、責めるのは酷い話だ。
「嘘吐き~、余所余所しくしてるじゃな~い! ほんとご~め~ん、ってば~」
「じょ、冗談だよ、冗談。軽いジョーク! 本当に怒ってないよ」
「……ほんと?」
「ほんと、ほんと! もうぜーんぜん、怒ってないよ」
こんな子犬の様な目で、しかも涙ながらに見つめられたら、許すしかないじゃないか。
しかしまあ、何とか誤魔化す事が出来たけど、非常に危なかった。
相手に対する口調とかにまで気を使わないといけないなんて、全く考えていなかった。
ここまで苦労するようなら、いっそ「記憶喪失です」と明かしてしまいたいくらいだ。
「うわーん、サーくんありがと~! ごめんね~」
「んぐっ!?」
感激のあまりか、姉は再び抱き締めてくる。
すると僕はまた、呼吸が出来なくなるわけで……。
「お姉ちゃん! だからお兄ちゃんが死んじゃうってば!!」
「あっ、ごめーん」
「ぜぇ、ぜぇ……はぁ」
瑠璃の言葉でまた助けられた。
この人、本当はこっそり僕を殺そうとしているんじゃないか……?
この人が一体何者か分からない所為で、迂闊な行動は出来ない。
せめて名前だけでも知れたら、どうにかなりそうなものの、その方法も思いつかない。
瑠璃に聞くのは不味いし、本人に聞くわけにもいかない……ん?
「あっ!」
「え、何、お兄ちゃん?」
「え? あ、いや、ゴメン何でもない」
思わず声に出て焦る。
でももしかしたら良い事に気付いたかもしれない。
それこそ声に出てしまうくらいに。
今までの様子から考えるに、この女性は以前の僕とも、それに瑠璃とも親密な仲に違いない。
これはつまり、先程葵さんと話していた時に言った『協力してくれる人』の条件にぴったりじゃないか。
それに僕はこの人の事は綺麗サッパリ忘れている。
周りから聞く事が出来ない以上、やはり本人に聞くしか方法が見つからない。
そう決定するが早く、早速行動に移った。
「あの、姉……さん? ちょっと二人きりで話したい事があるんだけど……」
以前にどう接していたのか分からないから、一文字一文字、慎重になって話す必要がある。
さっさと話してしまえれば楽なんだろうけど、瑠璃がいるこの状況では、言う事が出来ない。
「いいよ~、何?」
「あ、じゃあ私は席外すね」
「うん、ありがとう」
わざわざ気を使ってくたんだろう。
本当にありがたい。
「姉さん……」
類がリビングから出ていくのを確認し、話し始める。
「姉さんに、話しておきたい事があるんだ」
そうして僕は記憶喪失になった事、それを瑠璃には知られたくないという事、そしてそれに協力してくれる人を必要としている事、包み隠さず全て話した。
自分に説明出来る事は全て。
姉さんは最初僕が記憶喪失になったと聞いた時、驚き、悲しみ、そしてほんの少し、泣いていた。
どんな理由があったにせよ、泣かしてしまった自分が許せなかった。
自分には慰める資格すらない。
「ごめん……」
何に謝っているのかも分からない。
泣かせてしまった事か、記憶喪失になってしまった事か、それともただ謝る事で、罪の意識から逃げたかっただけなのか。
今無性に自分を殴りたい、
でもそれをやってしまうと、姉さんにまた心配をかけてしまいそうで、出来なかった。
「ううん、いいの。一番辛いのはサーくんだもんね」
「僕は――」
自分が記憶喪失になった事よりも、それによって姉さんを悲しませた事の方が辛い、と言いたかった、
けれどそんな事を言って、何になるのか。
言っても無駄だ。
「気にしててもしかたないもんね。じゃあ私、サーくんに協力するから、サーくんの記憶が戻るまでずっと! よし、『瑠璃ちゃんを悲しませない作戦』がんばろ~!!」
「……うん!」
その通りだ、確かにくよくよしていても何も変わらない。
今は僕に出来る事を精一杯やればいい。
「じゃあ、まず自己紹介からするね。私の名前は天壌 優衣。サーくんや瑠璃ちゃんとは幼馴染で、小さい頃からよく遊んでたの~。だから『お姉ちゃん』って呼ばれてるんだよ~」
成程、それなら納得だ。
従兄弟や近所の年上の人を、『兄』や『姉』と呼ぶ事は、そこまで珍しいわけじゃない。
「えっと――じゃあ、姉さん、って呼べばいいのかな……?」
さっき瑠璃の前で『姉さん』と呼んだ時には特に怪しまれてはいなかった。
とすると多分以前もそう呼んでいたんだと思う。
「うーん、私は『お姉ちゃん』って呼ばれたいんだけどな~? ねぇ、『お姉ちゃん』って言ってよ~」
「え!? 流石にそれは……」
照れくさいと言うか、何と言うか……ともかく言うのには抵抗がある。
「む~、ケチ~」
……この人は本当に年上か?
先程からずっと思っていた事ではあるけど、態度や仕草が、自分よりも年上だとは到底思えない。
これなら瑠璃が年上の方がまだ納得出来るくらいだ。
「姉さん、嫌なら答えなくてもいいんだけど、姉さんっていくつ?」
「私? 私はね~、今年で二十二歳だよ~」
「……」
「あぁ!! サーくん、今私の事バカにしたでしょ~!?」
「イヤ、ソンナコトナイヨ?」
「嘘! 棒読みになってるもん!!」
姉さんはまるで、幼い子供のように拗ねる。
姉さんはもしかして生まれてくるのが早すぎたんじゃないか?
……いや、もう考えるのはよそう。
姉さんがきっとこういう人なんだ、それで納得しよう。
「そ、それに急に呼び方変わったりしたら、瑠璃の変に思うしさ。だから以前と同じ呼び方にしないと!」
我ながらよくこんなに言葉がすらすらと出てくるもんだな。
「ちぇ~、いいもん! いつか『姉さん』じゃなくて『お姉ちゃん』って呼びたくなるような人になるもん!!」
それが一体どんな人なのか、かなり聞きたい衝動に駆られたけど、やめておこう。
多分答えられなくて、泣かれる。
そしてそこに瑠璃が来て僕が怒られる羽目になるだろうから。
「ねえ、サーくん。記憶喪失の事は瑠璃ちゃんには内緒にするって言ってたけど、どうして?」
「瑠璃を悲しませたくないから、かな。大丈夫、記憶が戻った時にはちゃんと話すよ」
「ンフフ~、やっぱりサーくんは優しいね~」
「いい子、いい子」と姉さんは僕の頭を撫でる。
正直かなり気恥ずかしいのだが、撫でられて嫌な気分がするわけではないから、おとなしく撫でられたままにしておく。
「そういえば姉さん。一つ聞きたいんだけど……」
「ん、な~に?」
「僕が帰って来た時、姉さん隠れてたよね? 何で?」
あの時、気配は感じられたものの、姿は簡単に見つける事が出来なかった。
意図的に隠れていたりしない限り、あまりあり得ない事だ。
「あぁあれね~、サーくんをビックリさせようと思ったの。さぷらいずってやつ?」
「そ、そうか、サプライズか~、それならいいや……」
そんな人を殺しかけるサプライズ、初めて聞いたよ……。
「あ、もうこんな時間! ゴメンね、サーくん。もっと話たいんだけど、そろそろ夕飯の支度しなくちゃいけないの~」
窓から外を見ると、確かに薄暗くなっている。
僕が最後に時計を見た時は正午だった。
あれからもうこんなに時間が経っていたのか、全く気が付かなかったな。
「支度するのはいいけど、姉さん料理出来るの?」
とてもじゃないが、家事や仕事をそつなくこなすイメージではない。
むしとドジを踏みまくって失敗しそうなイメージだ。
「フフ~ン、サーくんってば信じてないね~? 私はお姉さんなんだから、家事くらい出来て当然なんだよ~?」
姉さんは自信満々だと言う風に胸を張る。
姉である事と家事が出来る事は全く関係ないというのは、言わないであげた方がいいだろう。
本当に出来るかどうかはかなり疑わしいけれど、胸を張る姿は葵さんよりもよっぽど様に――、
ナニカイッタカシラ?
「ひっ!?」
い、今幻聴が!?
……もしかして、幻聴じゃない……のか?
「サーくん!? どうしたの? お顔真っ青だけど、大丈夫?」
「な、なんでもないよ。それよりさっさと支度した方がいいんじゃないかな?」
「うん、じゃあ準備してくるね~。サーくんは瑠璃ちゃん呼んできて~」
「了解……」
そうして姉さんはキッチンまで向かった。
心配な事も多いけど、任せる事にしよう。
しかし何故だろう、ただ普通に会話をしていただけなのに、死にかけた気がする。
でも気にしちゃいけない気もする。
ともかく今の事は忘れよう、そうしよう。
「あ、姉さん」
リビングへと向かって行った姉さんを呼び止める。
「瑠璃の部屋って、どこ?」
家の構造も忘れているのだから、瑠璃の部屋が分かるわけがなかった。
「瑠璃ちゃんの部屋なら、階段を上がって、一番近くの部屋だよ~」
「うん、わかった。ありがとう」
姉さんに部屋の位置を聞き、二階へ上がる。
二階へ上がり、辺りを見回す。
部屋は見渡す限り四つ。
僕と瑠璃の部屋が別々なら、この四つの部屋は両親と僕と瑠璃、それぞれの部屋という事だろう。
姉さんに聞いた通り、迷わず一番近くの部屋へ向かい、扉の前で立ち止まる。
そして一度深呼吸をし、コンコンコン、とノックをする。
『は~い?』
瑠璃の可愛らしい声がする。
部屋の中で一体何をしているのか、気になるが勝手に入るわけにもいかないので、我慢する。
『何~?』
「あぁ、ごめん。姉さんがそろそろ夕飯だから呼んできてって」
と、姉さんからの伝言を出来るだけ、簡潔に言う。
下手な事を言って、ボロを出してしまいたくないからだ。
『うん、わかったー。ちょっと待ってて』
言われた通り少しの間待っていると、瑠璃は直ぐ部屋から出てきた。
「お待たせ、ちょっとやっておきたかった事があって……」
「それはいいけど、何かしていたの?」
「うん、ちょっと学校の予習や復習をね」
「へぇ~、偉いね」
ただでさえ可愛いのに、その上真面目だなんて、まさしく非の打ちどころが無い。
シスコンだとか関係なく、皆が皆、良い子だって思うだろう。
だから僕は断じてシスコンなんかじゃない、ロリコンでもない!
「あ~あ、私のお兄ちゃんみたいに頭よかったらなぁ……」
「え、僕そんなに頭いいかな?」
「小学校はともかく、中学校もずっと学年一位だったのに、それで頭よくなかったら他の人達はどうなのよ……」
「あー、うん、そうだね……」
そんな事を言われても、忘れているんだから仕様がない。
こういう事も姉さんに聞いておかないと、このままじゃいつ気付かれるか不安だ……。
「じゃあ行こっか、お姉ちゃんドジだからまた失敗してそうだし」
「うん、そうだね」
やっぱりドジだったのか。
まさか予想通りだとは思っていなかった。
心配だ、任せなければよかった。
瑠璃と一緒にリビングへ行く。
そこには姉さんがドジを踏んで起こした惨状が……なかった。
別段困った様子もなく、姉さんは落ち着いて料理をしていた。
どうやら心配するだけ損だったみたいだ。
「あ、サーくん、瑠璃ちゃん。もうすぐ出来るから食器とか出して準備しといてね~」
「う、うん、お姉ちゃん今日の夕飯、何?」
「聞いて驚け~、何と、オムライスなのだ~!」
どこに驚く要素があるのか。
しかしオムライスか、オムライスなら確かに失敗する事もあまりないだろうし、安心だ。
「お姉ちゃん失敗しなかったんだ、珍しい……」
ボソッと姉さんには聞こえないように、瑠璃が呟いた。
瑠璃、いくらなんでもそれは酷いと思うぞ。
僕も多少心配はしていたけど、珍しい、って言われる程ドジする人なんて、そうそう――
「あ~!? ご飯炊くの忘れちゃった~!」
どうやらいたらしい。
いや待て、ドジの踏み方があまりにベタ過ぎて狙っているとしか思えない。
それ以前に何で先にオムレツの方を作っているのかが謎すぎる。
普通チキンライスからだろう。
もしかすると、姉さんのドジや性格は実は演技で、本当は凄く賢い――
「お米買うのも忘れちゃった~!!」
人かとも思っただが、そんな事はなかった。
「あ~ん、オムレツも焦げちゃった~!」
「「……」」
最早僕だけでなく、瑠璃も呆れている。
ただ、姉さんについて一つ分かった。
姉さんは一つドジをすると、連鎖反応の様に続けてドジを踏む。
つまり最初は大して酷くないドジも、最終的にはかなり酷くなるという事だ。
……絶滅危惧種認定されてしまいそうな人だな。