第01話「狩る夜」
風が止んだ。
それが合図だった。
木立の奥から息を殺していた男は、静止したまま耳だけを動かした。枯れ葉を踏む足音。重く、装備を持っている。二人——いや、もう一人。三人が横並びで森の縁を進んでいた。
猟師は動かなかった。
彼らは今、森に入るかどうか迷っている。迷っている人間は足が遅い。足が遅い人間は音を立てる。音を立てる人間は死ぬ。
三十年、この森で生きてきた。人間より獣の方がよほど頭を使って動くと知っていた。
今夜は北から風が来ている。猟師は木に登る前に、必ず風向きを確かめる。自分の体臭を敵の側に流してはならない。今夜は三人の背後に陣取った。彼らの臭いは届くが、こちらの臭いは届かない。
森には地形がある。どの根が地上に出ていて、夜目の利かない者がどこで必ず躓くか。三十年で覚えた。森は猟師の体の延長だった。
――奴隷狩りの一団がこの辺りに流れ込んできたのは、五日前のことだった。
最初は村の噂だった。南の街道で人が消えている。若い者ばかりが。次に、近くの村から男が一人いなくなった。それで十分だった。
猟師はその夜から罠を仕掛け直した。
男が口を開いた。
「ガキどもが森に逃げ込んだ。まだ中にいるはずだ」
「化物が出るとか言ってたな」
「化物より俺たちの方が怖いだろうが」
笑い声。油断している——仕掛けると決めた。
猟師は音もなく位置を変えた。
幹から幹へと移った。足の裏で落ち葉の感触を確かめながら、重心を低く保って進んだ。落ち葉の上を歩くとき、音が出るのは重心の置き方が悪いからだ。踵から落とさない。指の付け根で受けて、ゆっくり体重を乗せる。三人の背後を取るまでに、一度も枯れ葉は鳴らなかった。
最初の一人は気づかなかった。
後ろから近づいて首を押さえ、声が出る前に地面に沈めた。残りの二人はすぐ前を歩いている。振り返るまで十秒か十五秒——猟師はその間に木の上に登り、息を整えた。
一人が振り返った。仲間がいない——
「おい」
声を出した瞬間、喉から音が消えた。矢が刺さっていた。猟師はすでに次の矢をつがえ、最後の一人が逃げ出す前に足を射た。倒れた男が泥の上で転がった。
静かになった。
猟師は木から降り、息を確認した。全員、片付いていた。
次にやることがある。死体をそのままにしておくと、すぐに見つかる。連れが来たとき、森の入り口で死体が見つかれば、人数や消えた場所が知れる。猟師はそれを望まなかった。一人ずつ森の奥に引きずって土をかけた。装備の分だけ余計に重かった。装備は別に脇に置いた。捨てるのも違う気がして、ただ置いた。
仕事が終わらないうちに、松明の光が森の縁に現れた。
十二。猟師は数を数えた。最初の三人が戻らないと知り、踏み込んできたのか。それにしては早い。腕の良い連中だと思った。松明を持って来るのは愚かだが、数で押すつもりなのは分かった。
猟師は先ほどと同じ場所に戻った。風向きはまだ北だ。体臭は流れない。
松明は便利だ。向こうからこちらが見えなくなる代わりに、こちらから向こうはよく見える。
猟師は一人目を射た。二人目が叫ぶ前に三人目の足元に石を投げた。転倒する音と混乱。その隙に二人目。
残り九人が散開した。固まることを選ばなかった。慣れている連中だと思った。
散開されると手間がかかる。猟師は素早く位置を変え、木の後ろに回り込んだ。九人のうち三人が松明を持っている。松明の動きを追えば、全員の位置が分かる。問題ない。
一人が落ちるたびに、残りが声を上げた。どこから撃たれたかを探している。猟師はその声が収まる前に次の位置へ移った。闇は広い。松明の光の中にいる者には、外が見えない。
猟師は無言で射続けた。八人、七人、六人、五人。
残り四人が固まった。賢い判断だ。しかし固まるということは、動けないということでもある。
猟師は暗闇の中で、低く唸った。獣の声だった。意識してそう聞こえるよう喉を絞る——三十年かけて覚えた技の一つだ。松明の光の中で、四人の顔が青くなるのが見えた。
そのとき、奇妙な感覚が来た。
手が、熱い。
猟師は自分の右手を見た。何も変わっていない。だが確かに、違う感覚があった。やれる、と思った。何をやれるのかは分からない。ただ体が、先に知っていた。
猟師は弓を下ろした。
四人のうち一人が「あいつだ」と叫び、松明を向けた。
猟師は走った。
「目が——」
誰かの声が途切れた。猟師には、何のことか分からなかった。
驚いた一人が剣を抜こうとした。間に合わなかった。猟師の右手が男の胸をつかみ、熱が手のひらに戻ってきた。引き裂いた。骨が鳴り、男の悲鳴はそこで終わった。
血が顔にかかった。猟師はそれを拭わなかった。
「化物だ」
残りの三人が叫んだ。松明が一つ、地面に落ちた。暗闇の中を、足音が遠ざかっていく——森の外に向かって、一直線に。
猟師は追わなかった。逃げた者が噂を広める。森には入るな、と。それで十分だった。
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小屋の扉を開けると、人の気配があった。
猟師は一瞬身を固め、弓を構えたまま中を確かめた。
二人の子供が隅にいた。
小僧のほうが前に出て、娘を庇っていた。両腕を広げて立ちはだかる格好だったが、手に何も持っていなかった。顔が青く、震えている。目に敵意はなかった——ただ、怯えていた。
猟師は弓を下ろし、小僧と目を合わせた。小僧の後ろに、娘がいた。両手で何かを抱きしめている。布で作った、丸い塊のようなものだった。猟師は腰を落として、小僧越しに目線を送った。
娘のほうは——怯えていなかった。震えてはいたが、猟師を真っ直ぐ見返してきた。胸に抱えた塊だけは、固く握られていた。
それが、少し不思議だった。
猟師は立ち上がり、壁の鍋を取って水を入れ、火を起こした。二人のそばに薪を一本余分に置いた。それだけで、何も言わなかった。
やがて鍋から湯気が上がりはじめた。子供たちの震えが、少しずつ小さくなっていった。
小僧のほうが口を開いた。
「逃げてきました。奴隷狩りから」
猟師はうなずいた。余計なことを聞かなかった。
娘は何も言わなかった。初めから、声を出そうとしていなかった。ただ火を見ていた。その目から、一呼吸ごとに緊張が抜けていく。猟師はその様子を横目で見ながら、弓の弦を確かめた。いつもの習慣だった。
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子供たちが眠ったのを確かめてから、猟師は壁にもたれた。
今夜、素手で男を引き裂いた。
指の付け根を見た。乾いた血がこびりついている。洗うのを忘れていた。あの感覚が、まだ手に残っている気がした。熱さと確信。三十年間、一度もなかった感覚だった。
いつまで続けられるか、分からなかった。残された時間を数える年齢に、自分はもう入っている。今夜の熱は、その線を太く引いた。
弟子のことを考えた。
弟子とは五年ほど前に知り合った。村の若者で、弓の引き方は知っていた。撃つべき瞬間も風の読みも、身についていなかった。猟師は最初の一年、言葉少なに教えた。弟子は余計なことを聞かずついてきた。
五年経って、罠の掛け方も獣道の読みも身についている。先月も食い物を持って来た。北の沢で熊の足跡を見つけたと話した。冬眠前だから手出しはしない、と自分の判断を先に告げた。猟師はうなずいた。それで合っていた。
ただ、足跡の脇に潰れた草があったと弟子は続けた。並走していたものがあるかもしれない、と。
並走するものを取り違えれば死ぬ。
猟師はそう言った。弟子はその日の夕方、もう一度同じ沢を歩きたいと言った。猟師は連れて行った。弟子は地面に膝をついて潰れた草の向きを指でなぞった。書き留めたが、紙より地面の方を長く見ていた。正直な奴だと思った。
伝えなければならないことがある。言葉にならないことが、まだたくさんある。それには時間がいる。
なぜ今夜なのか。なぜ自分なのか。騎士団の者でもない、ただの老いた猟師の手に、あの力が宿った理由が分からなかった。
むしろ、自分は罰せられる側の人間だった。
思い出したのは、壁の毛皮のことだった。
弟子と狩りに出た日がある。茂みの奥から突然、狼が飛び出してきた。弟子のすぐ前だった。かばう間がなく、引き裂かれる前に仕留めるしかなかった。弓を引いた。狙いは正確で、狼は声もなく倒れた。
弟子は無事だった。地面に尻をついたまま、死んだ狼を見ていた。それから猟師を見て、「助かりました」とだけ言った。声が少し震えていたが、責める色はなかった。信じていた顔だった——猟師を見れば助かると、最初からそう思っていた顔だった。
三十年、この森で生きてきた。獣を何匹殺したか、数えていない。それが猟師の仕事だった。だがあの狼は、違った。
ヴァルグラードには、狼騎士団がいた。物心ついた頃から、その名前は誰もが知っていた。子供の頃から狼は特別な獣で、憧れていた騎士団の象徴でもあった。国が滅んで三十年が経っても、その感覚は抜けていなかった。
あの狼に落ち度はなかった。縄張りを守ろうとしただけだった。しかも、猟師には手前で気配があったはずだった。足跡も、臭いも。弟子に罠の掛け方を教えることに気を取られて、注意が散っていた。気づいていれば、迂回できた。狼を殺さずに済んだ。
それが分かっていた。だから弦を引き絞りながら、一瞬、止まった。だが止まっただけで、弓は下ろさなかった。弟子を選んだ——そのことだった。
猟師として、殺したものは無駄にしない。手慣れた動作で毛皮を剥いだ。だが剥いだ後、売ることも使うこともできなかった。小屋に持ち帰り、壁にかけた。
捨てれば忘れられた。隠しても同じだった。だから目に入る場所に置いた。弟子が来るたびに視線が止まったし、猟師の目も毎日そこに戻った。どちらも何も言わなかった。
見続けることが、猟師にできる唯一のことだった。それが罰だった——自分で選んだ罰だった。
壁に目を戻した。毛皮がある。いつもと同じ場所に。
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一月前の夜、猟師は小屋に戻っていた。火を起こし、鍋に水を入れた。そのとき、扉が叩かれた。
乱暴な音だった。拳ではなく、もっと大きな何かが扉を叩いている。猟師は弓を手に取って立ち上がり、外の気配を探った。獣の臭い。大きい。しかし怯えていない。むしろ、落ち着いている。
猟師は扉を開けた。
白い狼がいた。
巨大だった。猟師の胸ほどの高さがある。雪のように白い毛並みが、薄闇の中で光って見えた。目に知性の光があった。ただの獣ではない——猟師はすぐにそれを悟った。
猟師の視線が、壁に向いた。毛皮が、かかっていた。
猟師の全身が固まった。狼の神が来たのだと思った。復讐——三十年間積み重ねた罪の清算。
白い狼は動かず、猟師に目を据えていた。しかしその目に怒りはなく、裁く色もなかった。ただ、そこにあった。
それから、狼は小屋の中に入ってきた。
猟師は動けなかった。狼は毛皮に目もくれず、部屋の中を歩き回り始めた。鍋の臭いを嗅ぎ、壁に視線を這わせる。隅の荷物に鼻を近づけ、猟師の弓を少し舐めた。
猟師はその様子を、ただ立ったまま追っていた。
しばらくして、白い狼が戻ってきて、猟師の正面に座った。目線が、ほぼ同じ高さにあった。
それから、猟師の顔を舐めた。
一度だけ、大きな舌が頬を濡らした。
猟師の体から、力が抜けた。膝が折れ、気づいたら地面に手をついていた。肩が震え、目の奥が熱かった。
赦された、と思った。
三十年間、ため込んできたものが溶けた。国が滅んだ日も、仲間が死んでいった夜も、一人で森に残った朝も、狼を殺して毛皮を剥いだことも——全部が溶けた。
「ようやく」
声になっていたかどうかも分からなかった。
気がついたら、白い狼はいなくなっていた。夜明けの光が、開いたままの扉から差し込んでいる。猟師は長いこと、そのままでいた。
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今夜、右手が熱くなり、素手で人を引き裂けた。あの白い狼と、何か繋がっている気がした。
その理由は、まだ分からなかった。




