Case2.追憶のラベンダー
鼻を鳴らし、その女性は出された紅茶を忌々しげに口に運んだ。顔に垂れ下がるベールを、うっとうしいと言わんばかりに払う。
エドワードは例によって、「名乗りは自由」と告げていた。だが、彼女は堂々と本名を名乗った。
エヴァンジェリン・モーレイ。モーレイ子爵夫人と、人は呼ぶ。
近頃、夫のモーレイ子爵が病で急逝したとは、エドワードも聞き及んでいる。彼女が全身を真っ黒なドレスに包み、室内でも黒のベール付きの帽子を被っているのは、そのためだ。
お悔やみの言葉を述べるエドワードを制して、モーレイ子爵夫人は不愉快を全開にして言った。
「レイヴンズクロフト伯爵。あなたには、夫の愛人の正体を暴いていただきたいの」
「……は」
珍しく――非常に珍しいことに――、エドワードが言葉に詰まる。いつものようにペンと紙の束を抱えたシャーロットも、無表情のまま目を瞬かせていた。
普段は人を食ったような態度のエドワードも、中身は二十歳になったばかりの青年だ。異性経験が豊富だとは言い難い。彼よりも更に幼いシャーロットは、言わずもがな。
夫人は困惑する二人をよそに、ベール越しにも分かるほど眉間に皺を寄せて続けた。
「亡くなる半年ほど前から、しょっちゅうコソコソ出掛けていたのよ、あの人。きっと、どこかの女のところに違いないわ」
汚らわしい、と吐き捨てるモーレイ夫人の言葉を、慌てた様子でシャーロットが書き留め始める。そんな妹を横目で見ながら、エドワードは咳払いとともに尋ねた。
「……何か、そう思われた根拠でも?」
途端に、彼女の瞳は怒りに燃え上がり、ベール越しにエドワードを射すくめる。エドワードは内心苦笑しながら、黙って彼女の言葉を待った。
しばらく紅茶を口に運び、彼女はようやく口を開いた。
「……私のものじゃない香水のにおいを、頻繁に漂わせていた。女物の香水の移り香。それに何度か、指先に蝋のようなものを付けて、夜遅くに帰ってきたこともあったわ。金属片みたいなものが、腕周りに付いてたも。
――いかがわしい店にでも、行っていたのかしらね」
女性の発した際どい言葉に、エドワードは思わず頬を赤らめる。シャーロットはそんな彼を、不思議そうに眺めていた。
気を取り直すように、エドワードは再び咳払いをした。
「なるほど。それで夫人は、ご主人に女の影を感じたと」
「ええ。あの朴念仁が、どこでそんな趣味の女と出会ったのかは分からないけれど。……昔から、読書と領地経営だけが趣味だったのに」
不意に、シャーロットのペンを動かす音が早くなる。エドワードは耳聡くそれを捉え、モーレイ子爵夫人に問いかけた。
「失礼ですが、ご主人と結婚されたのは、いつ頃でしょうか?」
「二十年前よ。でも、もっと前から知っているわ。王都の邸が隣同士で、家族ぐるみの付き合いだったの」
――本の虫だったあの人を、よく外に引っ張りだしたものだわ。
懐かしげに呟いた夫人の声が、ふと柔らかくなる。暫時ののち、彼女は再び険しい声でエドワードに尋ねた。
「まだ、あの人の前情報は必要かしら?」
「……しばしお待ちを」
エドワードは紅茶のカップを口元に運びながら、さりげなくシャーロットの方を見やった。
シャーロットの能力は、話者本人が明確な意図を持って発した嘘だけでなく、「話者が嘘だと知らない、重大な嘘を含む話」を耳にした時も発動する。
彼女の筆記が乱れたのは、夫人の最初のひと言と、先ほどの「朴念仁」云々あたりのみ。その理由が何なのか、まだエドワードにも判断がつかない。
彼女が花の香りを感じた時、筆圧は一気に強くなる。その瞬間がまだ訪れていないということは、聞き込みが足りないのだろう。
エドワードはかすかに頷き、子爵夫人に向き直った。
「子爵は病で……とのことですが、医者にはかかっておられたでしょうか?」
「さあ。昔から三月に一度くらいは、健康確認のために主治医の診察は受けていたけど。……大事なことほと言わないのよ、あの人。私は、言う必要もない存在だったってことでしょ」
夫人の吐き捨てるような言葉に、シャーロットの筆記音が勢いを増す。エドワードはふっと息を吐き、夫人に質問を続けた。
「夫人。大変失礼ですが、その指輪……」
唐突なエドワードの言葉に、モーレイ子爵夫人はきょとんとした顔になる。だが、すぐに自嘲するように唇を歪め、自分の左薬指に目線を落とした。
「……黒ずんでいて、汚いでしょう。
私たちが結婚した頃、モーレイの家は苦しくて。お義母さまが受け継がれた代々の指輪も、質に入れたあと、流れてしまったの。
あの人は、『こんな安物ですまない。いつか必ず、良いものを買い直そう』なんて言っていたけど……。きっと、覚えてもいないんでしょうね」
――シャッ。
シャーロットのペンがついに、この日一番の速さで動き出す。彼女が最後の一文字を書き終えた瞬間に、エドワードは立ち上がった。驚く夫人には目もくれず、彼はシャーロットの差し出したメモを読み始める。
そして読み終えてすぐ、今度は暖炉脇の花言葉辞典を猛スピードでめくり出した。指を止め、開いたページに視線を落とし、エドワードは満足そうに微笑む。
「――夫人。ご主人の愛人の正体が、分かりました」
晴れやかなその笑顔に、モーレイ子爵夫人ははじめ、呆気に取られた。けれどすぐに怒りに前のめりになり、両手で飴色のテーブルを叩く。バンッと響く大きな音に、シャーロットがかすかに眉をひそめる。
夫人はエドワードを睨みつけ、荒ぶる声で叫んだ。
「――ふざけないで! まだ調べてもいないじゃない! 馬鹿にしてるの!?」
「とんでもない! 調べる必要もないと、神が妹に教えてくださったのです。ご主人の真意を」
ベール越しでも、モーレイ子爵夫人が頬を引きつらせたのが分かった。エドワードは夫人の反応を意にも介さず、ソファーにゆったりと腰を下ろし、夫人を見上げる。
「夫人。――愛人など、いません。ご主人は、あなたを生涯ただ一人の女性として、愛しておられたんです」
「な、にを……」
そう呟いて、夫人は絶句する。ソファーに崩れ落ちてしまった彼女を、シャーロットが気の毒そうに見つめている。
エドワードだけは意気揚々と、頬を紅潮させてまくし立てた。
「ご主人は、あなたとの約束を覚えておられた。恐らくいつかの健診で、ご自分の病のことを知ったのではないでしょうか? そしてずっと心残りだった、指輪のことを考えた」
ちらりと夫人の左薬指に目をやり、エドワードは続ける。
「蝋は、指輪の鋳造で使用します。最初に蝋で指輪の形を作り、それを形取るんです。
金属片は恐らく、仕上げの段階で出たものでしょう。手首についていたのは、金属をそこに嵌めていたからじゃない。削った金属の粉が、たまたま飛んだんです」
夫人は信じられないというように、ベールを揺らして首を振っている。エドワードはふと真剣な表情になり、夫人に言い聞かせるように言葉を続けた。
「女性ものの香水は恐らく、その指輪工房の女性職員のものでは? 指導を受ける際近付きますから、においも移るでしょう」
「……その女目当てに、工房に通っていたのではないの?」
力なく反論するモーレイ子爵夫人に、エドワードはきっぱりと首を振った。
「失礼ながら、ご主人はあまり、女性心理に詳しくないご様子。ご自身でも自覚があり、どうすれば夫人に喜んでもらえるのか、悩んだのでしょう。だからこそ、女性のいる工房を選んだ。
……神は、そうおっしゃっています」
もう子爵夫人は反論しない。シャーロットは心配そうに夫人を見るが、彼女が動くことはない。
エドワードは畳み掛けるように、ひと息に告げた。
「モーレイ家は、ご子息が継がれますね? 『買い直す』との言葉通り、ご子息の将来の妻のために、名工の指輪も購入されているでしょう。母君の指輪が質流れしているのであれば尚更、財産とするために。けれど彼が作った指輪は、あなただけのものだ。
……女性のいる工房は珍しい。探してみる価値はあるのでは?」
しん、と応接間が沈黙に包まれる。モーレイ子爵夫人は、しばらく無言で俯いていたが、やがて顔を覆って肩を震わせた。
「……サイラス……」
モーレイ子爵の名を、エドワードたちは初めて知った。
「――今回は、私も夫人の思い違いだろうとは分かったわ。でもまさか、指輪の鋳造なんて」
窓の外に目をやりながら、シャーロットが呟く。鬱蒼と茂る常緑樹に遮られ、姿は見えないが、夫人は先ほど屋敷を飛び出して行った。応接間の外に待機していた彼女の従者が後を追って行ったから、恐らく問題はないだろう。
シャーロットはふと、いつものお気に入りのソファーで甘い菓子を口に運んでいるエドワードに尋ねた。
「――ところで、夫人の言葉で一つ、分からないことがあるんだけど。……蝋や手首の金属片の何が、『いかがわしい』の?」
途端にエドワードが激しくむせる。シャーロットは珍しく醜態をさらした彼を、驚いて見つめている。
気管に入りかけた菓子を何とか飲み下し、咳払いで喉を整えたエドワードは、苦笑と共に答えた。
「……君にはまだ早いよ、シャーリー」
シャーロットが今回感じたのは、ラベンダーの香りだった。
その花言葉は、『静寂』、『幸せが来る』などである。
金属片は……手錠の欠片だと思ったのかな……?




