Case5.ワスレナグサの戸惑い(2)
「取っ掛かりと言ってはなんですが……。まずは、その女性について、思い出せることがないか確認しましょう」
香り重視で選んだ紅茶のカップをアーサーの目の前に置きながら、エドワードは小さく微笑んだ。アーサーは戸惑った様子もなく、美しい所作でカップを持ち上げ、口に運ぶ。力強さを感じさせる端正な顔立ちがふと綻ぶが、すぐにまた不安げな表情に戻ってしまった。
彼の仕草を観察するエドワードの目線には気付かず、アーサーは宙に視線をさまよわせた。
「声……は、比較的若い女性のものだと思います。何だか、悲しそうな……」
シャーロットが彼の言葉を書き留める。平坦な速度だ。エドワードは目を細めて尋ねた。
「どういう状況だったのでしょうね?」
「分かりません……。ただ、小さく唇が動いているような……。その女性は仰向けで、僕を見上げている……」
(その女性は、伏せっている状態? ならば、見舞いか?)
「……どこかの部屋でしょうか?」
「薄暗くて、よく……。白い肌と、青ざめた唇だけが見えて……」
それ以上は思い出せないのか、アーサーは力なく首を左右に振る。エドワードはその様子をじっと見つめながら、次の質問に移った。
「頭の怪我はどうです? その位置だと恐らく、正面から殴られた可能性が高い。怪我をした状況、その時見えた光景。何か、思い出せませんか?」
この問いにはアーサーは答えられず、再び黙って首を振った。エドワードはトントンと自分のこめかみを右の人差し指で叩き、思考を巡らせる。シャーロットがペン先を走らせる音が、伴奏音のようにかすかに流れている。
エドワードはアーサーの服装に目を止め、ふと動きを止めた。彼は今朝、屋敷の玄関ホールに現れた時のままの格好だ。比較的細身のエドワードと違い、アーサーはしっかりと筋肉のついた体付きをしている。自分の手持ちのシャツでは無理だろうと、申し訳ないがそのままにしていたのだ。
エドワードはシャーロットにも手伝ってもらい、倒れた彼を何とか背負い上げてベッドに運んだ。今まで気付かなかったが、正面からしっかりと見てようやく、その服装に気になる点が見つかった。
「――袖口近くに、皺がある」
「え?」
慌てたようにアーサーが、自分の両手首に目をやる。森の近くで倒れていたせいで、シャツの前面が草の汁や土に汚れている。しかしシャツの手首あたり、誰かに強く掴まれたような跡は、明らかに倒れた時についたものではない。彼を背負う時、エドワードが掴んだのは腕のもっと上部だった。
さらにワタワタと袖口を確認するアーサーを観察していたことで、その右手の甲にミミズ腫れのような古傷が見えた。幅一センチにも満たない、何か鋭いもので抉られたような傷だ。
いつ、なぜ、これらの跡は付けられたのか。
エドワードは指先を顎に移して、ひとり考え込み始めた。
(……貴族が、シャツとウエストコートのみで出歩くのは不自然だ。それならば彼は、ある程度くつろいだ格好の出来る場所――それも室内に、倒れる直前までいたと考えて良いだろう)
彼が聞いたという女性の声、状況。アーサーが記憶を失ったことに関係があるかは不明だ。
だが、皺の幅や長さから考え、その跡を付けたのは女性の可能性が高い。手の甲に残る傷跡も、爪か何かが深く刺さったように見える。
――どちらも、向かい合って必死で抵抗された時に、つくような。
穏やかではない推測に、エドワードはかすかに唇を引き締める。シャーロットが無言で、そんな彼の表情をうかがっている。
アーサーは突然黙り込んだエドワードに、不思議そうに首を傾げた。
「あの、伯爵……?」
(問題は……身分と、人数か。絞り込めるか? シャーリーを深入りさせたくない。
たったこれだけの状況証拠で、この結論は荒唐無稽に過ぎるかもしれない。……それでも、シャーロットを巻き込む可能性は排除しなければ)
レイヴンズクロフトの一族は元々、病などで短命の者が多かった。けれど、数代前にある劇薬を含んだことで、その傾向に拍車がかかった。遠縁関係にあったエドワードの両親も多分にもれず早逝しており、たとえ血の繋がりがなくとも、シャーロットはエドワードにとってたった一人の肉親だ。
危険は迅速に取り除かなければならない。
「――アーサーさん」
おもむろに顔を上げ、エドワードは笑顔で彼の仮名を呼ぶ。その改まった声に、アーサーが思わずといった様子で背筋を伸ばした。
エドワードはじっと彼の顔を覗き込み、口角を更に釣り上げた。
「今から私が言うことを、繰り返してもらえませんか? 一言一句、違わずに」
「はあ……」
どこか要領を得ないアーサーの返答に、エドワードは瞬間、真剣な目を向ける。そのままシャーロットに視線を流し、再び正面から身元不明の男に向き直った。
「私は、彼女を愛していた」
「私は、……彼女を愛していた……」
「彼女は、私にとって唯一無二だ」
「彼女は……、伯爵、なんの意味があってこんな……」
戸惑い顔で控え目に抗議の声を上げるアーサーを、エドワードは黙って右手を上げて制する。アーサーは眉間に皺を寄せたが、大人しく繰り返した。
「彼女は、私にとって……唯一無二だ」
満足げに笑い、エドワードは尚も続ける。
「彼女を、誰にも渡さない」
「彼女を……誰にも渡さない……」
「この愛は永遠だ」
「この愛は永遠だ……」
メモを取るシャーロットも、困惑した様子でペンを動かしている。不審げなアーサーの目にも構わず、エドワードは最後のセリフを吐いた。
「そのためなら、罪を犯しても構わない」
「……」
「アーサーさん?」
エドワードは口元だけを微笑ませ、念を押すように名を呼ぶ。アーサーは顔を青ざめさせるものの、ポツリと呟くように繰り返した。
「そのためなら……罪を犯しても……構わない」
最後の一文字を書き付けたシャーロットを見やり、不意にエドワードは強い口調で告げた。
「――シャーリー。メモを置いて、部屋に戻っていてくれ」
「……え?」
驚いたように声をもらす妹に、エドワードは有無を言わせぬ鋭い眼光を向ける。シャーロットはその強さにたじろいだものの、筆記具をエドワードに手渡したあと、軽く頭を下げて応接間を出て行った。
唖然として兄妹のやり取りを見守っていたアーサーに、エドワードはひたと視線を据えた。




