5 やるべきことはやりましょう
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腹筋をしながら信太朗は、ふと思った。
「死んだらどうなるんだ……?」
「リズムが崩れた」
「ぶふょっ」
エトラナがさり気な~く放ったアッパーが、みぞおちに入った。咳きこむ信太朗を無視して、彼女はまた信太朗の足首を押さえる。
足首を押さえられての腹筋運動とはいっても、ただの腹筋ではない。
信太朗の背中には地面がないのだ。
はるか下方で、ざっぱ~んと北島三郎もビックリな荒波が崖に砕けて飛沫をまき散らしている、それが信太朗の背負っている背景である。
「あの~……」
信太朗は運動を始める前に抗議しようとしたものだった。が、エトラナに一睨みされただけで、抗議の言葉は本題どころか「あの~」の一言だけで消え去ってしまった。
さっさと仰向けになれと怒られて、崖のきわに寝かされた。膝下が崖の上に残っているだけなので、エトラナが手を放したら信太朗は崖下へまっさかさまである。
アッパーを入れられた瞬間は、パンチされたことよりも手を放されかけたことの方に縮み上がった。しかしエトラナは器用にサウモを押さえており、崖へ落とすことはなかったのだが……。
「あの~……」
と信太朗は最初と同じ、情けない声を出してエトラナを盗み見る。
少し顎を上げただけで返事もくれない彼女に話しかけるのは勇気が必要だったが、信太朗は頑張って訊いてみた。
「さっき、もう帰るって言われてませんでした?」
エトラナは鼻白んだようだった。何を訊くのかと思えば……という言葉が、ため息と一緒に出たようだった。
「貴様の情けない顔を見ていて、気が変わったんだ。換金はいつでも行けるが、貴様が嘆いている間にサウモの筋肉が弱ることは耐えられん」
「いや練習メニューは憶えてますから、一人でできますから~……」
言いかえしてみたが、信太朗は最後まで言い切れずにフェードアウトした。蛇に睨まれたカエルがごとくである。がまの油みたいな汗までダラダラ出てくる始末である。いやこれは運動しているせいだろうが。とにかく熱発散値の高い体で、今が快適な気候でもあるのだろうが、信太朗はまったく寒さを感じない。
運動すれば暖かくなるんですよと言われても、できやしないのがグウタラ人間のグウタラたるゆえんである。信太朗は自分の下腹が自分で見えることに感動しつつも、これが人様の体であることに落胆するのだった。
「まったく情けない」
と、エトラナは吐き捨てる。信太朗は何か言いたい気分になったが、余計なことを喋ってリズムが狂うとまたエトラナに殴られそうだったので、黙々と腹筋した。確かあと274回だ……と思いながら。
本当なら一人で鍛錬できるように、サウモ家の庭には鉄棒が設置してある。膝を引っかけて腹筋すればいいのだし、ぶらさがり健康器にもなるし大回転だってやっちゃうよ、てなモンである。が、逆らえない。
黒髪の美女は憂いの顔で愚痴りだした。
「サウモの体だというのに、サウモの顔だというのに中身が変わるだけで、こんなに別人になってしまうとは。あの精悍だった目が、今は死んだ魚みたいだ。ハゲなんて前は気にならなかったのに、今は風にそよぐ毛が必死にしがみついてるみたいに見えるし、ヒゲも白さを増したように見えるしっ。これでは、ただのハゲ爺じゃないか。貴様のせいだっ。サウモを戻せ!」
独り言かと思ったら、いつの間にか八つ当たりされている。信太朗は「俺も被害者なんですけど」と思ったが、今は近くにミーニャもいないので話を振る相手がいない。足首を掴まれて崖にぶら下がっているような状態なので、逃げることもできない。
こんな状況でサウモが持っていた表情など再現できるワケがない。
いつも余裕の笑みをうっすらとたたえていた、自信に満ちあふれていた強い顔。目の力。ピンと伸びた背筋。サウモの、いつもその顔を保とうとしていた気持ちは記憶に残っている。うつむいたら終わりだと自分に言い聞かせていたことを憶えている。誰の追随も許さず、前だけを見て走り続けた男の強さがあった。
けれど、それを憶えているからといって、その顔の作り方を知っているからといって、信太朗に“サウモの顔”を作ることはできなかった。ちょっと真似してみようと思って顔を歪めたが、やっぱりうまく笑えないのだ。
ヒヨコ一羽を倒すこともできず何の稼ぎもない今の自分に、自信ある笑みなんてできるワケがない。
信太朗はさきほど思った疑問を再度、口にした。
「例えば今、俺がこの崖に落ちるとかして死んだら、元に戻りませんかねぇ?」
「……」
エトラナは三白眼で信太朗を睨みながら、ぱっと手を放した。
「うわぁっ?!」
思わず足をバタつかせたが、それをエトラナがすかさず掴んだので落ちずに済んだ。これ以上ないぐらい腹筋を使った気がした。膝の裏も痛かったが、爪先をつりそうだった。
「なななな何するんだよっ!」
「落ちたかったんじゃないのか?」
エトラナの冷ややかな目は変わらない。彼女とはまだ出会って数時間だというのに、すでに心の底から嫌われているようである。
元の信太朗なら、会って3秒で嫌われることも少なくなかった。あの外見だから仕方がないという思いも持っていた。だが今はあの体ではない。彼女の師匠を時空の彼方にぶっ飛ばした犯人として憎むのなら、信太朗を嫌悪するのはお門違いだ。
中身だけを判断されて3秒で嫌われる場合もあるのか……と信太朗は悲しい気持ちになった。
「いきなり落とされたらビックリするよ! 心の準備ってものが、」
「だったら待ってやるから、準備とやらをしろ。サウモの体を粉々にして自分だけ助かろうとしている心を、綺麗に整えるがいい」
「あ……」
言葉をさえぎられて、信太朗はやっと自分が何を言ったのかに気づいた。そりゃあ彼女が怒るはずである。中身で判断されて嫌われるはずである。
人を傷つけまくったヒヨコもどきは助けようとしたくせに、自分が助かりたい時は人の都合などどうでもいいと思っていたのだ。サウモが死んで信太朗が現代に戻ったとしても、その時サウモはどうなるというのか。
それは、相手は73歳だからもういいだろうとかいう問題ではない。ないが、信太朗の胸にはそうした思考があったのだ。崖下に身を沈めた信太朗は、顔をそむけたまま、ゆっくりと上体を起こした。
サウモの血肉が感じられる。腹の力、腰の筋肉、胸の熱さ……。
「ごめん」
うつむいたままだったが、信太朗ははっきりと謝った。エトラナが足首を掴む力を強くしたようだった。
「こちらでも自分だけ助かりたい思考のヤツは大勢いる。貴様もその一人だっただけだ、謝ることはない」
さりげなく、もの凄くキツい。期待した私が馬鹿だったんだとまで言いそうだ。
と思ったら、言われた。
「肉体がサウモだけに、過分な要求をしたまでだ。私が馬鹿だった」
かっちーん、と信太朗の脳裏で何かが金属音を立てた。
信太朗の怒りバロメーターは、かなり低い。人に怒られ慣れてしまったわりに、自分が怒る機会が少なかったせいだ。怒りを感じていないワケではないのだが「何だかなぁ」ぐらいの軽い気持ちでサラッと流して、二度とその方にお近づきにならないようにするだけだったのである。
従って、怒り慣れていない。
「お……俺は違う」
うなる信太朗に、エトラナは「ほう?」と面白そうな目つきをした。
「確かに今はサウモのことを考えてないこと言っちゃったけど、そう気が付いてからまで自分だけ助かりたいとは思ってないよっ」
「貴様が呼び捨てにしていい相手じゃない」
「ぶはっっ」
また殴られた。
信太朗は気合いと腹筋を使って上体をひねり起こし、地面に乗り上げて転がった。
「あと100回ちょっと残ってるぞ」
「……や、や、やってられるかよ!」
決死の覚悟で言いきった。肩で息をする信太朗の体からは蒸気があがっている。足下にはポタポタと汗が落ちている。決して失禁ではないはずだ……と思ったものの、思わずそっと手を当ててみた。が、エトラナにはそれが何の行動なのか分からなかったらしい。
信太朗はほっとしながら、入れ歯が外れないように気を付けながら言葉を続けた。叫んだ瞬間、またズレたような感触があったのだ。
「俺だって人間だよ、やりたいこともいっぱいあるんだよ! なのになんで、ここまでクソミソに言われなきゃならないんだっ。爺さんになっちゃうしハゲだしヒゲだし入れ歯だし、あげくに腹筋やらマラソンやら階段昇降やら反復横飛びやら、どうせ俺はニートだよ運動してないよ、悪かったな!」
要するに鍛錬したくないだけじゃないのか? と、エトラナは眉をしかめてから、急にひょいと顔を明るくした。
「よし取りあえず、貴様のことはニートと呼んでやる」
「え?」
斜め上行く見事な返事に萎えてしまい、信太朗の怒りパロメーターがポポポポポと下がった。
彼女は言う。
「貴様の名前を呼んでやると言ったんだ。こっちだって貴様のことをサウモとは呼びたくない。人権を尊重してやるから、その上で貴様自身がやりたいことというのをやってみろ。この世界でできることなら、して構わん。だから肉体の維持も怠るな。分かるか?」
分かりません。
信太朗はエトラナの言い分を聞きながら、後半にはまた泣きたい気持ちになってしまった。
名前を呼んでやると言われたことは嬉しい。先ほどの村人、全員が信太朗の名前を聞かなかった。ミーニャも「お爺ちゃん」で呼び名を完了している。信太朗本人のことを考えているのは、ひょっとしたら最初からエトラナ一人なのかも知れない。
でも、それは名前ではない。
「すみません、あの……」
「不満か?」
「いえ、そうではなく」
またもガマの油汗を体中に光らせて、信太朗は小さくなる。その風情と同じぐらい小さな声で、信太朗は抗議した。
「俺の名前は、ニートじゃなくて山田信太朗って言うんです」
「はぁ?」
聞き取れなかったらしいエトラナの顔が歪む。信太朗はさらに小さくなる。でも頑張った。
「信太朗っス……」
「シンタレア?」
「ちっがーっう!」
わざととしか思えない間違えっぷりである。
「シンタロウだよ、や・ま・だ・し・ん・た・ろ・う!」
信太朗は自分の名前を連呼して駄々をこねたが、どうやらここの人間にとって「シンタロウ」という言葉は名前として成立しないらしい。横文字な感じの国なので、名前が理解しにくいというのは納得できるが……。
「ええい、よく分からん! ニートにしておけ、やかましい!」
と一蹴されてしまうのは、頂けない。ニートがニートと、しかも声高に言われるなんて異常に情けない。
けれどエトラナの剣幕には負ける。信太朗が駄々をこねる姿など、デパートのおもちゃ売り場でひっくり返っている5歳児でしかない。3歳でなく5歳な辺りが微妙である。実は自分でも駄々をこねるということが悪いことであり恥ずかしいことなのだと、内心では知っているのだ。
エトラナは、その5歳児を引っぱって歩く、果敢な母親のようであった。
「名の話は終わりだ。したいことというのも後回し! 体を鍛えろというのは、サウモのためだけでなく貴様自身のためでもあるんだぞ! 長生きしたかったら、腹筋あと300回だ」
言うなり、エトラナは信太朗の足首を掴んでブンと崖下にほうり投げる。
「うわぁっ!?」
しかし足首を掴まれているので落ちない。信太朗は、遠心力によって後頭部を崖の側面にぶつけた。腹筋で体が落ちるのを支えれば良かったのかも知れないが、とっさにそんなことをできるワケがない。
信太朗はエトラナに足首を支えられたまま、仰向けでぶらーんと崖にぶらさがった。この体勢から腹筋をするのだ。あと300回。
「増えてる……」
と思いながらも、しないワケには行かない。
確かに、長生きするためにも体を鍛えなければならないという理屈は分かる。信太朗自身が帰れる日までにサウモの体が老衰で死んでしまっては、元も子もない。
信太朗は心の中で滝のように涙を流しながら、腹筋を始めるのだった。
その時である。
ミーニャの声が聞こえた。
「ん?」
腹筋をやめようとしたらエトラナに睨まれたので、上体を上げるたびにしか光景が見えなかったのだが、そのたびミーニャが近づいてくるのは見えた。草原から走ってきたミーニャは本を一冊、抱えていた。
「あった! あったのよ!」
と嬉しそうな声を上げるではないか。もしや、この展開は……と信太朗は期待してしまい、すぐさま、いやいかんと自分を叱咤した。すでに何度も、こういう展開に裏切られている。これ以上は甘い夢を見ない方がいい……。
と思った時に限って、ミーニャは信太朗が予想した通りの言葉を出してくれる。
「お爺ちゃんたちを元に戻せるわ!」
「本当に!?」
珍しくエトラナと言葉がハモった。同時に同じことを言ったのが気持ち悪かったのか、エトラナが信太朗をギンと憎んだ。信太朗は、そろそろと崖下に身を沈めた。
で、またそろそろと上体を起こす。
「魔の山に住む、魔法使いの中でも最高の存在、魔道士様だったら逆の“転移”が可能なの!」
「魔道士?」
エトラナが眉をひそめる。ということは、さほど有名な名称ではないのだろう。魔の山などという場所に住んでいるぐらいだ、きっと人里には顔を現さないのに違いない。
そう。彼を人世に引っぱりだしてくるのは大変だった……。
……と思ってから信太朗は、また一つサウモの記憶を引っぱり出せたことに複雑な気分を味わった。
「俺、その男を知ってるわ」
最後の冒険だった。一緒に魔物アーバオアクウを倒した男だった。
魔法使いじゃない。魔道士だ。
サウモは、すっかり忘れていたのだ。
信太朗は「このボケ老人が……」と内心、毒づいた。