本編完結後外伝「童貞を守れ!?」
信太朗が異世界にいる間の、サウモについて頂いた感想を元に創作いたしました、その後ネタです。
信太朗がまだ異世界にいて、あくせくしていた頃の話である。異世界側でなく現代社会では、サウモが信太朗として働き、日々を謳歌していた。
とにかく見るもの聞くもの触れるもの、すべてが珍しくて新しい。73年培ってきた己の知識がまったくと言っていいほど役に立たない毎日は、サウモにとって清々しいほどだった。
アッチの世界じゃ一日2食じゃ、肉は塩漬けにするもんじゃーっ! などと主張しても始まらない。信太朗の母が出してくれる3度の飯をたいらげて、冷蔵庫から出てくる生肉が焼かれるのを不思議がりながら眺めるしかないのである。
一番驚いたのは刺身だったが、これも一カ月もすれば、すっかり大好物となったものだった。あとチョコレートなる絶品を知ってしまった時の驚きは、どうやら死ぬまで忘れられなさそうである。
バイト先の会社にいる、事務の女の子が「おみやげ」と手渡してくれたものだ。
「……これは……?」
個包装の黒い塊にまでは、まだ知識が及んでいなかった。山田家で菓子を口にすることはあまりなかったし、スーパーに行っても余計な買い物をせぬよう心がけていたので、お菓子売り場の通路をじっと眺めたことがなかったのだ。
お菓子という物体は知っている。ミーニャが焼き菓子を作っていたものだった。信太朗の母がケーキなるものを買ってきてくれたこともある。あれは至福の喜びであった。
「まさか山田君、ディズニーのチョコクランチ食べたことないの?」
事務員の女の子えっちゃんは、ちょっと演技かかってるぐらい驚いた顔をして信太朗サウモの顔を覗き込んだものだった。そして、すぐに「ははーん」などと意味ありげな笑みを浮かべたのだった。
「そうねぇ、男の子同士で行くこともあるだろうけど、山田君そんな感じじゃないしね。彼女と行ったこともないってことだよね」
えっちゃんは、それなりに可愛い27歳のベテランさんだ。高卒で務めて10年、オツボネさんになっちゃったよう、などと話していたのを覚えている。あまり聞ける空気じゃなかったので「オツボネ」なる言葉を、帰宅してから辞書で調べたものだった。
サウモからして見れば、まだまだヒコっこザクっこだ。お尻を振ってぴぃぴぃ鳴いてそうな小娘に「ははーん」とか言われたのが心外で、つい「行ったことも知識もないことは、社会人として恥ずべきことなのでしょうか?」などと反論してしまったのだった。
そりゃそうよディズニー知らないなんて失格よ、と開き直られたら謝らないとなぁと思ったが、えっちゃんは思惑通りにひるんでくれて、それどころか信太朗に謝ってくれたので、ことが丸く収まった。その後、信太朗サウモが大急ぎで『ディズニー』と『チョコクランチ』を調べたのは、言うまでもない。
えっちゃんは「そんなつもりで言ったんじゃないの、ごめんね」と、おまけで黒い個包装の物体をもう一個、手渡してくれた。同僚からは「いいなぁ、お前」と羨ましがられ、サウモは『えっちゃんからおまけしてもらう』優遇を味わって笑い、一件落着したのだった。
が。
帰宅した夜、自室に戻ってパソコンで『ディズニー』を検索しながら、2個もらったクランチをひとつ、口に入れた瞬間だった。
サウモは思わず、くわぁっと目を見開いてしまった。
「う……! ……うまいっ!?」
予想外の美味だった。
イチゴのショートケーキを食べた時も感動したものだったが、それ以上に、いや、まったく違う次元で小宇宙を感じちゃうほどブッ飛んでしまったのである。
「よもや、これほどの美味がこの世にあろうとは!?」
と、家じゅうを転げまわりそうな、はしゃぎっぷりである。
ケーキも確かに美味しかった。しかし小麦やイチゴ、生クリームも動物の乳である以上は口にしたことがある。それらを組み合わせて素晴らしき菓子を作り上げた手腕には平伏したものだったが、チョコレートという物質が持つ味わいは、サウモの培った味覚データにまったく存在しなかったのである(まわりくどい)。
そして翌日だ。
「えっちゃ……遠藤さん!」
会社の皆がえっちゃんえっちゃんと呼び捨てにしているので、内心ではサウモもそう呼んでいた。ので思わず、そのまま呼んでしまったのだが、信太朗は年下だ。呼ばれた彼女は少しむっとした顔で信太朗を睨んだのだった。
だが信太朗サウモの感激しきった顔が、すっかり彼女を氷塊させてしまった。
「美味かったです! 2個も頂いてしまって俺は、何とお礼を言って良いか。2個目を食べるのが惜しくなったけど、一個目をあまり味合わずに食べちゃったから、それも勿体なくて、2個目にはコーヒーを入れて、ゆっくり頂きましたよ」
なんて、まぁ、語る語る。ほっといたら一人でどんどんカカオの生い立ちやら、ディズニーのチョコクランチが定番商品となるまでの紆余曲折やらまで語りそうだったが、えっちゃんのドン引きしている顔色にサウモが気付かないわけがなく、そこは、ほどほどに抑えられたのだった。
何しろディズニーの菓子は、名だたるメーカーがこぞってプレゼンテーションし、激しいコンペに打ち勝った上、かつ数ある審査をすべてクリアせねば消費者の手にまで行きつかないという、恐ろしい代物なのだ。UFナンタラも似たコンセプトで数々の商品を扱っているが、あの比ではない厳しさなのである。
感動を素直に語る信太朗に、えっちゃんはくすくす笑ったものだった。
「そんなに喜んでもらえるなんて」
「ぜひ、また食べたいですね」
と、まっすぐ目を見て満面の笑みで爽やかに頷く好青年に、えっちゃんが頬を染めても仕方がないことだったろう。
いくらベースがデブで後ろ向きでオタクでも、そこに筋トレと前向き思考と勤勉を積み上げて行けば、人間どれだけでも変われる。上積みできるかどうかが勝負どころであり、今はそれのできる人が中にいるのだ。
「じゃあ今度、バレンタインデーには特大のチョコあげるわ」
などと快諾してくれる彼女の言葉に込められている意味は、言葉からではなく、彼女の目から悟った。
これは、コナをかけられている。いい返事をしたら、えっちゃんと恋愛が成立しちゃうかも知れない兆しだ! と、瞬時に(ほぼ野生の勘で)嗅ぎ取ったのだ。もちろん『バレンタイン』も帰宅してから調べて、自分の勘に間違いはなかったと悦に入ったものだったが……。
信太朗の顔をキリッと引き締めて、サウモは「いいえ」と微笑んだものだった。
「遠藤さんのお気持ちは嬉しいですが、それは特別な方に差し上げるべきでは? 僕なんかが頂くものではありませんよ、申し訳ないことです」
やんわりと。
サウモは可能な限り信太朗の顔を優しく優しく低姿勢に仕上げて彼女を立てて、申し出を断ったのだった。
えっちゃんはサウモの拒絶に反論や抗議を示さず、鉾を収めてくれた。サウモの気持ちを理解してくれたのだ。
「まぁ、そうね。山田君なんかにあげてる場合じゃないもんねぇ」
と一笑に伏して話が終わり、じゃあ、と昼休みが終わって仕事に戻れたことに安堵して。
帰宅したサウモは、ひっそりと地団駄を踏んだ次第だった。
「ああああああああああああもう、くそくそくそ、この信太朗めが!! ワシなら間違いなく、チョコどころかあの子を美味しく頂いとるっちゅーに!」
自室にこもって、いつも以上にどったんばったん筋トレやりだすサウモのことを、両親が「何かあったのかねぇ?」「さぁ?」などと見守る平日の夜。よもや異世界の爺ちゃんが、若い身体を持て余して運動に力を注いでいるんです、とは知るよしもないだろう。
もし信太朗に女性遍歴があれば、サウモも禁欲を解いただろう。しかし23年間、女の子と手をつないだこともないともなれば、逆に気を使うのだ。果たして他人に己の童貞を卒業されちゃう、という不可思議な事態を起こして良いものかどうか。
信太朗の記憶や性格を紐解くだに、しみじみとサウモは情けなくなってくる。妄想だけは一人前にスンゴイくせに、実際には何もない、何もできない消極的な性格で。今はサウモにも信太朗の後ろ向き加減がよく分かるので、怒ったり呆れたりは感じなくて、情けなさしか出てこないのだ。
もう少し自信を持てないものなのか。もう少し、やる気を出せないものなのか。アンタに自信とヤる気がありすぎるんです、という信太朗の泣き声が聞こえてきそうだが、本当に、サウモの性格を信太朗の身体に植え付けることができるなら、そうしてやりたいところだ。
以後、信太朗サウモの密かな楽しみは、食後にコーヒーを入れてチョコを一口かじることになった。かじるたび、いつも少しだけチョコの苦さをえっちゃんへの想いに重ね合わせていたことは、誰も知らない2人だけの秘密である。
そう。サウモと、日本に戻ってきた信太朗だけの。
「シンタロ? ナニ笑ってル?」
かなり日本語に長けてきた外国人の少女が、信太朗の顔を覗き込む夜。住みついたレティスエトラナに「ああ、いや」と手を振って、信太朗はチョコクランチをかじる。
ディズニーランドに行ったことがないからというレティスを連れての、ディズニーデビューであった。散々振り回されて人ごみに揉まれて疲れて、でも楽しくて。もちろん土産に買ったのは、チョコクランチだ。
食べながらサウモは元気かな、元気だろうな、などと思いめぐらす信太朗の身体は、幸か不幸か童貞を貫いている。アランなお店とか行ってみるかなと思わないでもなかったが、イギリスから越してきたパンク少女と会ってからは、そんな気も失せた。
今はチョコのほろ苦さを、エトラナへの想いに重ね合わせている次第だが、これは正真正銘、信太朗だけの秘密だ。
横ではレティスなエトラナが、チョコクランチの美味しさに舌鼓を打っている。イギリスでも、こんなに美味しいチョコはなかったとか何とか、エトラナとしてだけでなく、レティス的にも大感動している。
「そりゃ良かった」
「マタ行こうナ」
レティスが笑う。近頃はやっと少し服装や髪の色が大人しく地味になってきて、本来のあどけなさが滲み出ている。それがゆえに余計、彼女がまだ高校生なのだということが強調されて、信太朗を躊躇させている。いや、そうじゃなくても躊躇しまくりで手など出せないのだが。
レティスの方が大人にならない限りは。
「今度はバレンタインのチョコを買オウ」
「え」
「オッキいチョコクランチが出るんダ」
限定品で売られる、それが食べたいらしい。彼女の無邪気な要望に凍りかけた信太朗は、意味が分かって安心したような残念なような気持ちである。
レティスは信太朗の表情を確認した後、ぷいと横を向いてテレビを見ながら信太朗の両親と談笑を始めた。その横顔を見ながら信太朗は、今はこれでいいんだ、などと笑みをこぼす。
娘を見守るサウモの気持ちも持っているから。今は体内に残っているサウモの心を、大事に暖めていたかった。
少しずつ、少しずつ。花開いていく少女が眩しい。彼女のためにも今は鍛練あるのみと決めて信太朗は毎日の筋トレに励み、レティスを見守っている。彼女が育ち、大学生となっても変わらず山田家にいてくれるなら、信太朗の側にいてくれるなら、その時は言おう、と。
――って、もたもたしてたら、なぁんか3年後にはイヤンなオチが付いてそうなんですけど。
などとも思わないでもなかったが。さすが信太朗思考は年季の入ったクオリティなのだ。
いやいや大丈夫、きっと……いや多分。
などとレティスを見ながら、チョコクランチを、もう一個。
遥かな空の彼方から「えー加減にせぇよ」と野太いツッコミが入りそうな夜が更けて行くのであった。
せめて、あっちに戻る前に、もう一個食べたかった……とチョコクランチに想いを馳せる、サウモの記憶と共に。
了
これにて本当に終わり……かな?
ありがとうございましたvv