33 さすがに容赦がありません
突き放しておるんじゃよ。
脳裏に響いた低い声は、硬いが柔らかかった。変な表現だが、そう感じたんだから仕方がない。なんだか自分がサウモの孫になったような気にさえなった。
まだ話し足りない。伝えてないことがある。聞きたいこともあるのに。
だが追いかけたくとも姿はなく、話しかけたくとも、すでに気配なく。
「サウモ」
呟きは、自分の声になっていた。
目が覚めたのだ。
「あ……?」
シンとしている。
信太朗は夢からさめた気分で、天井を見上げた。いや気分だけじゃなく、本当に夢だったのだ。天井は、すっかり見慣れた済み慣れた家のもので、ででんとサクラちゃんのポスターが貼ってある。ミニの袴という、ありえないコスチュームだが、サクラちゃんなら許される。
二次元キャラの笑顔によって現実に引き戻されるというのもどうかと思うが、今はアニメ絵のポスターという存在が、この上なくリアルにせまってくる。
「俺……」
異世界という夢を、ずいぶん長く見ていたらしい。と、感じるほどに。
胸に乗っている布団。肌に触れているパジャマ。頭を乗せている枕。どれも、しっかり現実だ。
カーテンから差し込む光が、薄暗く部屋を照らしている。電気が消えている。夜明けは近いみたいだが、まだ日が昇っていないようだ。そんな時間に目覚めちゃうことが珍しいので、なんだか不思議な気分である。どっちかといえば信太朗にとって、明け方は寝る時間だったりする。うっかりネトゲにハマってたりすると、寝るのを忘れるのだ。
だが今は、やけにスッキリとした目覚めで、身体も軽い。布団を蹴りあげて飛び起きて、ラジオ体操のひとつもやりたい心持ちである。
そもそも信太朗は、部屋を真っ暗にして寝るタイプじゃない。かならず豆電球はつけていたのに、それが消えているのだ。
「リモコン」
サイドテーブルをまさぐって点灯させてみると、ちゃんと豆電球が着いた。電球が切れていたわけではなかった。
信太朗は豆電球でなく、全灯をつけて部屋を明るくした。
「……」
ベッドの様子から部屋の隅々までを見渡し、目を丸くする。
ところ狭しと散らばっていたはずの漫画や雑誌が、ひとつも転がっていない。でも綺麗な部屋ではなかった。代わりに転がっているのは、ダンベルやゴムチューブ、かと思えば六法全書に刑事コロンボだったのだ。あ、十津川刑事シリーズもある。
そういえばサウモの部屋も武器いっぱいで、ごちゃごちゃしていた。まるで正反対みたいだった2人だが、意外な共通点があったのだ。とは言っても、こんな共通点じゃ何の役にも立たないが。
「は……はは」
笑みをもらしつつ信太朗は身体を起こし、じっと手を見た。
見慣れたはずの太かった腕が、ギチッと締まったものになっている。布団をどけて足を見ると、足もカモシカのごとくである。胸に手を当てると、これが自分の身体かと思うような厚い胸板が張り付いている。血をたぎらせて、脈うっている。二の腕や腹にこんもり付着していたはずの、綿飴みたいに柔らかかった贅肉も、少なくとも贅肉ではない。硬い。自分の足の付け根が、贅肉に邪魔されることなく見えている。我がムスコはかような形であったか、などと覗き見たくなってしまう。
信太朗は起きて、タンスに備え付けてある姿見に自分を映した。
涙が出そうになった。
……色んな意味で。
鏡には、贅肉デブでなく筋肉デブの姿があったのだ(by冬木洋子様の名言)。
「痩せる前に鍛えちゃった感じ……?」
呟いても笑っても、後から後から涙が出てきて止まらない。「サウモの馬鹿野郎ぅ」と敬意をこめて呟いたら、もっといっぱい泣けてくる。
夢じゃなかったのだ。
ちゃんと彼らは実在してて、この世界のどこかとは違う空間に存在してて、今も生きてて、信太朗も昨日までそこにいたのだ。
くしゅっと、くしゃみが出た。
確か夏だったように記憶している季節が、すっかり寒くなっている。でも寒さを感じる身体じゃない。くしゃみは、冷風に鼻をくすぐられたからだ。明け方の風が窓の隙間から流れこんでいる。身体が暑いのだろう、サウモはちょっとだけ窓を開けて寝るタイプだったらしい。
空気が冷たい。
時計を見ると、4時だった。
「寝直したら、皆の夢を見るかな?」
言い訳みたいに、口に出す。言ってみたら、ありえないだろうことが痛感された。これから先、どんなに眠ってもサウモと入れかわることは永久にないだろうと思えた。確信といって良かった。
だって信太朗は、サウモに突き放されたのだから。最上級の愛情をもって。
起きて、部屋の隅々まで点検して回る。まるで縄張りを確認するワンコの散歩みたいだが、よく見ておかないと落ちつかないのだ。パソコンも電源をつけて、立ち上がるのを待った。パスワードも信太朗の記憶のうちだ。サウモがログインしていないとは言い切れない。
「あ」
立ち上がった画面からして、いじられまくりなのが一目瞭然だった。いきなり壁紙からして、ロッキーに換わっていたのだ。ロッキー6最後の戦いだ。職場では、刑事ものと格闘ものと筋トレが好きな変な兄ちゃんとして、親しまれていたようである。という憶えがある。
食品会社の倉庫番なんてバイト、よく見つけたものである。しかもフルタイムで毎日出勤なんて、以前の信太朗なら考えられない事態だ。いや、まぁ信太朗じゃなかったのだから、できて当たり前とも言えようが。
信太朗は、パソコンのデスクトップにテキストを発見した。
「信太朗へ」と書いてある。
サウモが置いていったものだろう。
すぐに開けたいような、まだ見たくないような複雑な感情が沸いたが、えぇいとばかりに速攻で開いた。
だが、テキストには。
『筋トレを欠かすな』
たった一行しか書いてなかった。
がくぅっと脱力してしまうではないか。
さすがはサウモである。男は黙って筋トレだ。なぁんてキャッチがよく似合う。
どうしても、くすくすと笑みが洩れてしまう。スーパー爺ちゃんサウモヴァル。あのレベルにはなれないだろが、ああした出会いは貴重であった。
微笑みながら信太朗は、朝4時に起きていたサウモが何をしていたかを思い出し、ちょっと出かけるかなと着替え、まだ両親も起きていない暗くて静かな家を後にして、公園へ向かってアスファルトを蹴りだしたのだった。
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