32 死後の世界にあらずんば
だが、いつまでたっても来るべき衝撃が訪れない。
「?」
数秒もたっていないだろうが、落下に値する時間はとうに経過した。まさか底がないなんてことはあるまい。信太朗はかたく閉じていた目を、そっと開けたのだった。
「あれ?」
が、やっぱり景色は真っ暗である。何も見えない。人の声も聞こえない。自分も地上に“転移”できたんだとすれば、皆の顔と声があってしかるべきだ。でも、そうしたものはまったくなく……下手すると自分の姿さえもない。
いや、ちょっと待て。
「俺……」
呟く声も、どこかおかしい。耳に響いて聞こえる、いつもの声じゃない。低くて少しハスキーで、どっしりと落ちついた大人の声じゃない。現代で信太朗たる自分が発していた声を、今の自分が出している……ように感じる。
急に気が付いた。
音声がないのだ。
発しているように感じている自分の声は、声になっていない。思考の表面が空気中に漂っているような、変な感覚なのだ。
声そのものどころか、自分の身体すらない世界に来ている。伸ばそうとする手の感覚はあるが、目前に伸ばされていなきゃおかしい手が、存在していない。
「わあああああぁぁっ!」
なんとなく叫んでみた。つもり。
叫んだという感覚はあるが、本当の声にはなっていない。自分の耳さえないのだ、当然といえば当然だ。
「もしかして本当の、死後の世界だとか……?」
「死んだ方が良かったか?」
「わぁっ!?」
どこから聞こえた声なの!? と、驚いて周囲を見るも、まっくらである。うろたえているという身体の感覚はあるのだが、実際の身体はどこにも見えない。難儀な状況だ。
声は頭に直接響いているようである。
低くて少しハスキーで自信に満ち溢れた、どっしりとした声だ。
この流れで、まさかの新キャラってこともあるまい。出現しそうなキャラといえば限られている。信太朗は心中で声の主に呼びかけてみた。
「サウモ……さん?」
「いかにも」
自分の耳に響く自分の声は、他人が聞いているものと少し違う。でも、このどっしり感を出せる人物は、そうはない。
「お主には、ずいぶん世話になった。いや、お主の身体には、というべきか」
笑いを含んでいる声音に、信太朗の緊張も少し解けた。よく分からない暗闇だが、多分精神世界だとか、そんな感じなのだろう。
ってことはサウモの身体がどうなったのかが、気になるところだが。
「あ……」
信太朗は落ちただろうサウモの身体を思って、言いよどんだ。
すると信太朗の胸中も読めるのか、サウモの声が「心配ない」と微笑むではないか。
「間一髪、無事じゃったよ。わしもエトラナと共に“転移”されておる」
「え? じゃあ」
今のこの状況は、“転移”によるものとは違うらしい。首をひねるイメージを作ったら、サウモが分かってくれたらしい。
「これは、もうひとつの“転移”じゃ。もうすぐ、お主とわしの心が入れかわる」
「……え?」
入れかわるという言葉の意味が分からなかったわけじゃない。元に戻れるのだ。サウモが言葉を続けてくれた。
「お前さんの頑張りを認めてくれた、エノアのヤツが動いてくれたのよ」
やったな、というように、肩に衝撃を感じた。でも身体はない。おかしなものだ。今やサウモとは一心同体である。彼が心から喜んでくれているのは、とても理解できている。
だが信太朗は、戻れると聞いて喜ぶよりも、一抹の寂しさと不安をまっさきに感じてしまったのだった。筋トレやら殺陣やらオカマやらと色々大変だったのに、サウモの身体から離れたくないと感じたのだ。
サウモがマッチョだからではない。毎日の腹筋300回やら腕立て伏せ200回やらは、何度くじけそうになったか知れない。ちなみに毎晩寝る前の入れ歯磨きも面倒だった。忘れた朝の口臭は、自分で「くさっ」と目覚めるほどだったし。
「そんなに臭いのか、わしは」
「あ、いえ、ちゃんと手入れすれば大丈夫だったんですけど、僕が……」
思わず恐縮して、一人称が「僕」になってしまう。そうだ、サウモの身体を維持するのは、信太朗だった頃を維持することの500倍は大変だった。何しろ信太朗の身体は、好き放題の野放図だったし。
「……僕が、あなたの身体を駄目にてしまいました」
ボロボロ泣きたくなりながら信太朗は謝った。イメージはすっかり号泣である。きっと“転移”で助かっても、あの身体は回復するのに時間がかかる。下手をすれば怪我は一生消えないだろう。立てなくとかなってても、おかしくない。何しろ73歳、マッチョとはいえハゲで入れ歯だ。
何より離れたくない理由がそこじゃないのにも、信太朗は気付いていた。
サウモにも、もうバレている。
彼の呟きが脳裏に響いた。
「エトラナか」
「はい」
彼女のことが気にかかるのだ。
「それにミーニャと……あと、アーバオクーたるダナクサスさんもどうなったのか」
それから、ついでに俊足のユデアも。
まだ返してない、山分けした賞金のことが信太朗の脳裏にある。
「律義なヤツだ」
豪快な笑みが耳元で木霊したように思われた。が、そのイメージはすぐに硬く厳しいものになった。
「?」
「だが、お前さんの気がかりは解消されない」
「え」
「知る術がないのじゃ、一生知らぬまま終わろうて」
「そんな」
そりゃ確かに、そういうこともあるだろう。現代じゃ、きっと知りたくても分からないことや、やりたくてもできないことなんか、ごろごろしている。
でも今この状況で事実を突きつけられるのは、突き放されてるみたいで寂しい。
サウモが言う。
「突き放しておるんじゃよ」