30 どうやら助かりそうですが
「お爺ちゃん、“転移”するわ!」
頭上からの提案に、信太朗はびくっと肩をすくめた。
いや、いくら運を天にっつっても、さすがにリスクが高すぎます。
「待ってよ、もうちょっと“移動”とか“飛行”とか穏やかなやつ、ないの? 空間ぶっちぎるのはやめようよ」
提案してみるが、ミーニャの声が力強い以上、他の選択肢はないのに違いない。主張を曲げない娘なのは、育てた自分がよく知っている。
信太朗は足がぷるぷるして来たのを感じながら、何とか安全に地上へ出る方法はないかと考える。が、思いつくわけがない。
ミーニャは言う。
「これだけ距離があったら、持ち上げるのは重いわ。手が触れてればまだいいけど、遠隔操作とか無理だから」
あっさり却下である。分かってはいたが、ちょっと寂しい。
「それに今度はクサスがいるから大丈夫! 2人で力を合わせた“転移”なら、成功率も高いわ」
クサス自身も飛ばされた人じゃなかったっけ……? と思ったものの、反論はできない。声を出そうにも、身体に力を入れ続けている方が限界で、しゃべるどころじゃなくなってきている。
なのに、ミーニャの魔法うんちくが続く。
「クサスってねぇ、ちゃんとニートの世界に座標を取って、“転移”をしたんだって! 私みたいに当てずっぽうじゃなくてね、地球世界の北半球を狙ったのよ! すごいよね」
いや本当どうでもいいから。と思ったが、彼女的には重要な部分らしい。
だから亀裂の底深くに落ちた信太朗たちに焦点を当てて地上へと飛ばすことができるのだ、という結論なのだ。
「お爺ちゃん、その位置から動いちゃ駄目よ。魔法を飛ばして、お爺ちゃんたちを捕まえに行くんだからね」
「分かった! 分かったから、何でもいいから、お願い早くやって!」
たまらず叫ぶ信太朗サウモの足は、もう限界である。元々片足が骨折しているのだ。エトラナの身体も支えている以上、長時間はもたない。
が、ここで更なるミーニャのマイペースな追い打ちが信太朗を打ちのめす。
「すぐ取りかかるから頑張って! 半日はかからないと思うから!」
「……え?」
なんですと?
「“転移”の呪文を練って正確に発動させるのに時間がかかるのよ! それぐらい知らないお爺ちゃんじゃないでしょ!?」
ミーニャはミーニャで、急ごうと焦ってはくれているらしい。何やら彼女の側からクサスのごにょごにょした声も聞こえてくる辺り、彼はすでに取りかかってくれているようだ。
でも動かず頑張れってのは、何の修行ですか。っつーか絶対に無理です。
するとミーニャの頭も視界から消えた。いや、わずかに脳天が見える。座り込んだらしい。呪文を始めてくれたのだろうとは分かったが……それにしても半日て。
「ニート……大丈夫か?」
信太朗の心境が分かったのだろうエトラナが、そっと首だけ上げて囁く。信太朗も思わず小声になった。
「平気」
苦し紛れじゃ強気も出せない。エトラナの眉がひそめられたので、信太朗はもう少し付け加えた。
「さすがサウモだよ。このまま一週間とか過ごせそう」
「馬鹿」
エトラナが微笑み、つられて信太朗も笑った。ちょっとだけサウモの笑顔が作れた気がした。
罵倒の言葉が、こんなに優しく魅力的に聞こえたのは初めてだ。馬鹿って、いい言葉だよな、などと馬鹿なことを考えられるほど。
「馬鹿はどっちだよ」
信太朗はエトラナを抱く腕に力を込めて、彼女の動きを封じた。
「何をっ」
かっと目を吊り上げる彼女のことも、今は怖くない。
「落ちようとしただろ、今」
信太朗を気遣って自己犠牲に走ろうとした。
「……っ」
図星を当てられた顔で、エトラナが歯噛みする。
「そしたら俺も落ちるよ。サウモの身体を落とすよ?」
我ながら、こんな脅し文句が出るなんて上出来だ。異常事態のなせる技だろう。いつもの信太朗なら考えられない。
それに“転移”が2人同時にかけられるなら、離れない方がいいに決まっている。
「絶対に放さない」
決意を言葉にしてみてから、ふと信太朗は昔のことを思い出した。信太朗の昔じゃない。サウモが王都を去り、村に隠居した頃だ。思いださないようにしていた、忌まわしい過去。忘れたかったのは魔法使いとの激闘だけじゃない。
妻に先立たれて自暴自棄になっていた、あの頃。息子たちが共に暮らしてくれるようになるまで、サウモは一人ぼっちだった。いたわってくれた優しい女性は、旅芸人だと思っていた。だが、いいところのお嬢さんだったらしく、彼女は何も言わずに王都へと戻っていったのだ。
おそらく、お腹にサウモの子を宿して。
「あのさ……」
信太朗は言うべきか否か、迷った。でも今ここで死んじゃったら、多分サウモもエトラナも後悔するんじゃないかと思えて、言わずにはいられなくなってしまった。
いやサウモはまだいい。すっかり忘れていたのだから。でも彼女のシンテーヤバを聴きに行く気になれなかった理由は、心の奥底にこびりついていた。エトラナは彼女によく似ている。
とはいえ確信はない。エトラナ自身にも証拠がないんじゃないかと思われる。彼女の母親は本当のことを言ったのだろうか。分かっていてエトラナを、サウモの元へ送ったのだろうか。傭兵にするために?
「……お母さん……元気?」
信太朗は何となく、母親は亡くなったんだろうなぁと悟った。でも口火を切る言葉が、他に思いつかなかった。
案の定、エトラナは般若のごときな形相で信太朗を睨んでいる。応えてくれる気はないらしい。彼女の逆鱗をわしづかみにしているのを承知の上で、信太朗は覚悟を決めた。
足に力を入れて、踏ん張り直す。右足に新たな激痛が走ったが、気にしたら落ちる。何としても、エトラナは助けなきゃならない。
ぎっと歯噛みして、エトラナを抱きしめる。こんなことでもなきゃ一生触れなかっただろう。
「あのさ、」
息も絶え絶えに信太朗は告げた。
サウモの心で。
「一回だけでいいから、ここで今『お父さん』って言ってくれない?」
「……」
エトラナの呼吸が、すぐ近くで聞こえた。