12 戦略的撤退と呼んでくれ
誓って言うが、これは敵前逃亡とか臆病風に吹かれただとかいう代物ではない! と、力説したかった信太朗だったが、先のセリフを言い終わるか終らないかのうちに、顎にアッパーカットが繰り出されたため、何も言えなくなってしまった。もはやいつものこととなったが、今回は珍しく決めてみたかっただけに非常に悔しい。
いいパンチだぜ……。
吹雪にあおられつつ、くるくると舞いながら雪に突っ伏す信太朗。まだまだ余力があるじゃないかと安心する一方、そんなに下りたくないんかいと交渉の難しさを痛感させられた。
「ここまで来ておいて下りようだなんて、よくも言えたな貴様……サウモの顔でそんなこと二度と言ってみろ。ミーニャにもう一度“転移”を施させて、貴様をどこかへ飛ばすこともできるんだぞ。サウモの中に貴様なんぞがいることを我慢するのも、そろそろ限界なんだからな」
疲れのため、吹雪のため。理由は様々つけられようが、これまでになく真剣に低いエトラナの声音が、本気で信太朗を嫌っていると分かる。我慢の限界などという言葉は、少なくとも今までには登場しなかった。
旅をして行けば、そのうち少しは認めてもらえるようになるだろう、と呑気に考えていた。サウモでいることにも慣れてきたのだ、2人とも信太朗に慣れてくれることだろう、と。根拠もなく思っていた。
だって物語のセオリーとしては初めは嫌いな相手でも、段々と惹かれて行って……というのがお約束である。見ず知らずだった相手も、長く一緒にいれば、話をして行けば、そうかこういうヤツだったのかと、ほだされたりもするものだ。エトラナは、いつか信太朗の弱さ優しさに、ほだされてくれるものと勝手に期待していた。
期待。違う。当然?
迷い込んだ異世界。被害者の信太朗は、自分を取り戻す旅に出て仲間を作り困難を乗り越えて成長し、ちょっと立派になって現代へと戻る――普通はそんなストーリーでしょうがと思うだに、そこへ登場する人物は皆、信太朗の力になってくれて当然なのだ。ゲームなら。現実世界で嫌と言うほど裏切られてきた、うまく行かない人生を送ってきた自分なのに、異世界ならご都合主義的に自分のいいように進んでくれるものと、まだ甘いことを考えていた。
過酷な筋トレや厳しい旅路の数々とこなしてもなお、いつかは結局ハッピーエンドさとタカをくくっている。ここがファンタジーだから。
顎へ綺麗に入ったアッパーが、雪に冷やしても痛い。いや痛さは、とうに消えている。さすがはサウモの身体でもあるが、痛みや寒さの感覚も薄れているのだ。痛いのは、身体じゃない。
傷つけられて痛いのでもない。信太朗はここに来て初めて、自分が人を傷つけた自覚をしていた。それほどに分かりやすく素直に、エトラナが傷ついていたからだった。
彼女の低い声は泣きたいのを堪えているからだ。戻したくても戻せないサウモに早く帰ってきて欲しくて、ふがいない信太朗が心底から情けなくて、心で泣いているのだ。いじめられっ子歴23年を数えても、人をいじめた経験なぞ皆無な信太朗はおろおろするばかりである。
信太朗を無視して、とにかく進まんとするエトラナの肩を、慌てて掴む。
「ダメだ、がむしゃらに進んでも道は開けない! エノアに受け入れてもらえる材料がいるよ!」
「材料ならあるだろうが、サウモが死にそうになってるんだ」
「そんなんじゃダメなんだよ、分かるだろ?」
ああ、もう! と、躍起になって彼女の肩を振り回す。エトラナだって内心じゃ理解しているのだ、このままじゃ埒が明かないってことを。でも認めたくなくて、他に手段がなくて、山を下りたくなくて、分からないふりをしている。
「山が辛いから下りようなんていう貴様に、一秒たりともサウモでいて欲しくない」
「違う、逃げじゃない! 確かに俺は弱虫だけど、ずっと逃げてきたけど……いつもの俺の逃げじゃない。これは勇気ある撤退なんだよ!」
そうだ。自分で言ってみて納得した。ただ困難を避けたい、平穏に暮らしたいだけの山田信太朗じゃない。そうせざるを得ない状況だから仕方がなしにとも言えるが、確実に死ぬだろう現状に彼女を置いておきたくないのが一番の理由なのだ。サウモの身体は、まだ何とか行ける。でもエトラナもミーニャも疲弊しきっている。
絶対に戻ってくる。それしか道はないのだから。
するとサウモパワーで振り回しちゃったせいか、青白い顔だったエトラナの全身が、急にがくっと落ちた。
「えぇっ!?」
肩を持つ手に力をこめて、懸命に彼女を抱きとめる。
すると崩れ落ちる彼女の向こう、吹雪の中に、エトラナに向けて手を伸ばしている人影があるではないか。金髪をフードの下に隠した、ミーニャの姿が。ミーニャはエトラナから手を放し、やれやれとか何とか呟いた。
「ミ、ミーニャ……?」
「大丈夫よ、ちょっと気絶させただけ」
いや、あの、ちょっと、って。
こともなげに言ってしまった孫娘の暴言に唖然とするも、早く下りましょうと言われて我に帰る。駄々をこねるエトラナを、山を下りんがために気絶させてくれたのだ。
「正直、私もヤバいなと思ってたから。でも私が下りちゃったらエトラナさん確実に遭難して死んじゃうでしょ。ニートが下りようって言ってくれて良かった」
「ミーニャ……」
エトラナの背中から、よっこらしょと荷物を外すミーニャの背中を眺めつつ、信太朗は感慨にふけりかけ……。
「ってか、もっと早く言いだして欲しかったけど。本当に死ぬかと思ったわ」
お約束な追い打ちをかけられ、急いで下山の用意にかかったのだった。そうと決めたら吹雪も少し止んで来たように思えてくる。怖くなくなったのかなと怪訝に感じながら空を眺めると、そうではなかった。本当に止んできたのだ。
翠色の髪をした、嫌味な魔道士が空に垣間見えた――気がした。
下山するなら許してやろう、とでも言っているかの青空っぷりだ。ちょっと悔しかったが、今の信太朗には彼の優しさだと思えた。一度でも登りだしたら二度とは生きて戻れないというのが、この魔の山の言い伝えである。ということは、生きたまま戻れるぐらいには認められている、ということか。
山は中腹から上は、まだ厚い雲に覆われている。信太朗は山頂があるだろう方向を見上げて、ちょっと微笑んだ。
すると、
「うわっぷぷぷっ、すみません、すみません!」
調子こくなよ、と言うかのように雪がゴウとうなりを上げて信太朗に襲いかかった。思わず謝ると、本当に吹雪が止んだ。
「この野郎……絶対また来るからな……って、いやいや、あの、ごめんなさいごめんなさい」
「ニート余計なこと言うの得意だよね」
エトラナを担いで下山する信太朗の尻にだけ、ピンポイントで雪が当たる。山を下りきるまで、それは続いたのだった。