10 さすがにタダでは転びません
「ふぬおおおおぉぉおおおおぉぉぉ!!!!!!」
などという叫び方を耳にすることなど、人生そうはない。アクションアニメかゲームかマッスル番組か。プロレス観たって、ここまで叫びはしないだろう。
駅のホームにひしめき合う人々が一斉に息を飲んだ、事故の瞬間。
目にしたものは事故でなく、奇跡の瞬間だった。
「な、なにぃっ!?」
と叫んじゃった少年漫画ファンの声が響く。
なんたる光景であろう。ホームを転げ落ちた若者が、線路を走ってきた電車の前に立ちはだかったかと思ったら、電車に飛び移って、しがみついたのである!
いや、もう、それ、ありえないから!! と絶叫するのは内心ばかりで、誰もが驚愕の光景に唖然と口を開けるばかりである。
ちょっぴり太めな若い兄ちゃんが、ふぬおっと飛び上がって電車の真正面に、叩きつけられる。だが彼はバウンドするのでなく、そのままがっちりと運転席側の窓を掴んだ、などとは自分の目が正常であるかどうかも怪しくなる。普通は掴める部分じゃないだろ、それ……と思われる小さな凹凸にしがみつく若者の形相を知る者は、運転手のみである。が、想像には難い。
運転手がギギギギギギギギと急ブレーキをかけながら、窓に張り付いて自分と睨めっこしている男に仰天しているのを、何人かの客がホームから目撃していた。と、後の新聞は語っている。
『言い表せないぐらい、すごい光景でした。人間とは思えませんでしたから』
などというコメント付でその日の夕刊に掲載されることとなるのだが、当の本人はそれどころじゃない。
「早よぅ止めんか、おんどれぇぁっ!」
と、サウモは往年の口汚さで運転手をののしる。ブレーキの音が大きすぎて、声をかき消されてしまっている。止めないわけがないので、これは運転手に聞こえなくて幸いだっただろうが、勤務3年目の若造には可哀想な事態と言えた。
早く止まって欲しい反面、止まって落ち着いたら張り付いてるこの客が何を言ってくるんだろうと思うと、それも恐怖で、涙目である。何されるか分からないぐらい、すごい形相である。元が信太朗でも中身がサウモだと、当社比150倍で(以下略)。
完全に止まるのを待っていられなかったサウモが、とうとう力尽きて電車からズリ落ちる。轢いたら、えらいことである。運転手の兄ちゃんは、大慌てで力いっぱいブレーキを踏み直す。さらに甲高い音がして、ようやく電車が完全に止まったのだった。
もちろん乗客も、ただでは済まない。車内でいい感じにシェイクされて、朝も早ぅの出勤前に、すでにヨレヨレである。中には怪我した者もいて、電車が止まったら止まったで、もう一つパニックである。
駅構内にも車内にも、必死な駅員の謝罪が響く。救急車の音も近づいて来た。ホームは野次馬で満載である。
あまり、あってはならないアナウンスなのだが、某首都圏で聞かれる文面が放送されている。
「ただいま当駅におきまして人身事故が発生したため、運転ダイヤに遅延の恐れが出ました。乗客の皆様は誘導に従い、すみやかに車内から避難をお願い致します」
リアルタイムアナウンスは生々しい。シェイクされてパーマ頭が蜂の巣になったオバさんも、ロマンスグレーダンディがバーコード頭になっちゃったオっさんも、皆がどやどやと扉にではなく、電車の先頭に詰め寄った。人身事故現場を目撃せんがためである。ホームでは駅員さんが早く出て下さい~と叫ぶが、そんな彼の視線も斜め下にちらちら向いている。
電車の先頭には、人が倒れているはずなのだ。潰れたのか生きているのか。轢かれたのだとすれば、さぞ血が飛び散って内臓がぶちまけられて、いい感じにスプラッターなはずである……なんていう想像をしながら覗き込む客があったかどうかは知らないが、そんな彼らが何かしらの思いを持って見ている線路には、そんな人間がいなかった。
「……?」
運転手も慌てて降りてきて「お客さん!?」と呼びかけるが、電車の前には誰もおらず、下にも横にも姿が見当たらない。血が飛び散っている形跡はないので、少なくとも轢き潰したわけではないようだ。
とすれば、跳ねて、何十メートルも彼方へ飛び去ってしまったか……。ちなみに80kmのスピードで人を跳ねると、ゆうに10mは飛ぶらしい。明日も使えぬ無駄知識。
うつむいていた全員の顔が、ぐぐぐと上がっていく。電車が沈黙しアナウンスとサイレンの音が響く中だったが、皆は若者の姿を探す必要もなかった。前方から威勢の良い叫び声がしているのだ。
線路上に、ものすごいスピードで自転車をこぐ若者が。
「ぬあああああぁぁ遅刻するではないか~!!」
思わず目が点。
まさか彼が“人身事故”の若者だとは考えにくい。考えにくいが、どう考えても彼しかいない。運転手さんは知っている。先ほど窓にしがみついて脅して来た者と自転車の彼は、同じ服である。
なのに、いつの間にか自転車をかっぱらい、線路上を疾走しているのだ。誰か夢だと言ってくれと本気で運転手さんは祈った。かっぱらったという証拠はないが、状況から判断するに十中八九――言葉を柔らかくしたとしても――拝借なさった代物であろう。
サウモは茫然とする駅の方々に見送られつつバイト先への道を急ぐ。
地図が頭に入っていないが、線路ならいつも通る道なので分かる。目的の駅まで走ればいいのだ。たまに電車とすれ違って注目されちゃったり、正面衝突しそうになって電車の屋根へ飛び乗ったりと忙しかったが、どうにか間に合いそうである。
駅に着いて線路を下りてバイト先へと一直線。遅刻なんざ、勇者の血が許さない。
「おはようございます!」
元気いっぱいに、さる部品メーカーの扉を開けようとしたサウモだったが……扉をくぐる前に彼は腕をがしっと取り押さえられたのであった。
「え。あれ?」
まるでドラマみたいに、手首にかちゃんと丸い輪がはめられる。幸か不幸かサウモには、手錠の知識がある。毎週、信太朗の母が見ている刑事ドラマに、サウモもハマっているせいだ。あの正義感が心地よい。
と思っていたのに、なんで自分に犯罪者よろしく手錠などが、かけられなければならないのか!
くわっと目を開けて振り向いたサウモの背中には、パトカーと刑事さんが立っている。
「やっと捕まえた」
中年刑事が呟くのを聞いて、そういえば自転車を走らせてる最中ずっとサイレンが聞こえていたような……? と、ようやく気付き。疲れた風な刑事さんは、ため息交じりにサウモに告げたのであった。
「刑法124条、往来妨害罪で逮捕する」
◇
ええ~? 何それ? と、すっとぼけたかった(というか本当に知らないのだから勘弁して欲しかった)のだが残念ながら社会たるもの、そうは行かない世界である。と、サウモも理解が進んでいるので、そこから無駄に暴れることはなかった。
結局サウモは山田信太朗として罪を犯し、身元引受人である父親に恥をかかせ、一筆を書かされ罰金を払わされて出所となったのであった。元はといえばホームに落ちたところを助かって、そのままバイトに向かおうとしたのだという彼の主張と多数の目撃証言とが、彼の罪を軽くしたので良かったが、そうでなければ懲役2年、罰金も50万円である。それがどれほどの重い罪か、高額なのかを、できれば知らないままでいたかったものである。
これが信太朗であれば(そもそも線路を走るだなんてグレイトなことはやらかさないだろうが、もしやったとすれば)がっくり落ち込んで後悔しまくって、しばらくは部屋から出てこないことだろう。バイトもクビになったし、社会的立場にも親の顔にも泥を塗りまくったのである。
だが、さすがサウモはスーパーポジティブシンキングであった。
「即刻、弁償します!」
と、さっそく次のバイトを見つけて来て、翌日から通いだしたのだ。
「そこまで、そんなに頑張らなくてもいいのよ、サウモさん。あなたは本当に知らなかったのですから」
母親がいたわるも、サウモは「いいえ」と微笑んで毎日出勤するのである。
「無知は私の怠慢です。知っておくべきだった、でなければ外出をしてはならなかった。ここで暮らすべきルールを知らなかったのですから」
あまりにもあまりな模範回答に、思わず涙ながらに天に祈る母。サウモさん人間できすぎてます! 神様! ぐらいの勢いで。
火のつけ方を知らない原始人、横断歩道で手を上げない子供のようなものですとサウモは笑う。先日の本から得た例え話だ。彼は昼間をバイトに、夜を読書に費やしている。『ガチャ丸楽しい体操ABC』から『六法全書』まで、とにかく手当たり次第に読みまくる。頭に入ったかどうかは別にして読む。父親のベッドに隠してあった女の云々~を見つけてからは、妙な男の友情まで沸いたようである。そこんトコだけで原稿30枚ぐらいアハンな方向で書けそうだが、そこは割愛。
バイトだって、義務感から嫌々こなしているワケではない。次に見つけてきたのは食品会社の倉庫整理という奇妙な仕事だったが、やれ冷蔵庫がでかくて面白いだの、レトルト食品がいっぱい置いてあって楽しいだのと夕食の都度にこやかに母親に語って聞かせる。例え話のそれではないが、学校が楽しくて仕方がない小学生のような笑顔なのだ。
会社の上司にも受けは上々らしく、たまに飲み会にまで誘われる事態である。だが酔っ払うと恐ろしい発言をしそうだとかで自分を律し、外では決して飲みすぎないようにしている。一滴も飲まないワケではない付き合いの良さが、もうひとつ株を上げている。
ただ……。彼の酔っ払った状態も興味がないワケではなかったが、先の事件を思い出すだに、そこだけはちょっと避けどころのようだ。本能で悟ったのか母親は家でサウモに酒を勧めないし、父親も敢えて彼とサシで酌を汲みかわし、などとは、やらないようにしている。
そして朝のトレーニングも欠かしていないと来たものだ。いちいち出来た人間である。あちらの世界では皆さん、あなたのような方ばかりなのかしらという母親の質問には、サウモは無言で笑顔しか見せない。つまり、そうでない人間も多いらしいと伺い知れる。サウモのような者が信太朗に憑いたのは、ある意味、幸運だったのだろう。
息子が戻ってきた暁には、サウモさんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだわなどと、しみじみ溜め息をつく山田母であった。 息子が成長してサウモのようにたくましくなって帰ってくるとは微塵も想像していない辺りがミソである。
そんなこんなで現代ライフ上々なサウモだったが、早く元に戻る方法を進めてくれんと、わしの身体もいつまでもつか分からんしのうとも、思わないでもない。だが、記憶にある信太朗の言動をかんがみるに、あやつを引っぱりだしてきて“転移”をおこなわせるのは至難の業かも知れんのう……などとも思う。あやつ。エノア。とにかく一筋縄では行かない魔道士だ。
だって気に入らないヤツ軒並み、吹雪で凍死させちゃうんだから。