婚約破棄を回避した悪役令嬢は今日から幸せになります。だから、
目を閉じた時、最後に見たのは見慣れた壁と天井。それに消し忘れた――というより、消す気力すらなくてつけっぱなしにしていたシーリングライト。
目を開けた時、最初に見たのは見知らぬ天井と豪華なシャンデリア。
「……え?」
あまりにも大きな記憶の差異に眠気が吹き飛び、思わず飛び起きた。
掴んだ掛け布団がいつものちょっとくたびれた感触ではなく、ずっと触っていたくなるようなふかふかですべすべの感触だったことに驚いて俯く。
「…………え?」
その時視界に入った小さな手に、先ほどより大きな声が漏れた。
喉が震えると共に聞こえた幼げな声に冷や汗が背を伝う。
「もし、かして……」
こういう展開は、小説で何度も読んだことがある。
ふるえる足でベッドを降り――その際に踏みしめた絨毯も、どこの高級ホテルかと思うほどふかふかだった――、目についた鏡の前に足を進める。
そして、金の縁取りがされた鏡を覗き込んだ。
丁寧に手入れされたきめ細やかな白磁の肌。
さらさらと流れる癖のない白銀の髪。
長い睫毛に縁どられた紫水晶の瞳。
「私……「センイチ」のオリビアに転生してる?!」
鏡に映る自分の姿を見て、私は思わず声を上げた。
「千一夜目の夜明けを君と目指して」――略してセンイチは、私がもっとも嵌っていた乙女ゲームだった。
近世ヨーロッパ風の世界観に、見た目も声も煌びやかなキャラクター。
それにかわいらしい立ち絵付きの主人公。
自分がキャラと恋愛するのを楽しむというより、主人公とキャラの恋愛を見守るような操作感が私の好みにたまらなく嵌ってしまったのだ。
ちなみに推しはメインヒーローである護衛騎士。
普段は爽やかな彼がふとした瞬間に見せる、ちょっと陰のある表情がたまらないのよね。
だから、ただこの世界に転生しただけなら喜べただろう。
前世――死ぬ瞬間の記憶はないけど、たぶん私は死んだんだと思う――に未練はないし、センイチの世界は近世ヨーロッパ「風」であってそのものじゃない。
科学の代わりに魔法が発展しているという設定だったから、実は生活水準や治安は現代日本並みによかった。
その上、この世界には推しがいる。喜ばないわけがない。
だけど、オリビアは駄目だ。
確かに彼女は美人だし、実家は公爵家だから一見すると将来安泰に見える。
センイチのラスボスでさえなければ、だけど。
強大な魔力で人々を洗脳し、主人公や攻略対象達の故郷を滅ぼした全ての元凶。
それがオリビア・コンチェルトだった。
彼女が勝利すればゲームはセーブ地点からやり直し。
実質、オリビアの生存ルートはないに等しい。
もちろん、主人公とオリビアが敵対しないルートもない。
「世界を滅ぼそうとするオリビアを止めるため、聖女である主人公と彼女を守護する五人の攻略対象たちが旅に出る」というのがゲームのあらすじだから、当然なんだけど。
「でも……見た感じ、このオリビアってまだ子どもよね?
なら、運命を変えられるかも……」
オリビアが最初に国を滅ぼしたのは十五歳の時。
婚約を破棄されたことがきっかけだったはずだ。
愛する婚約者から捨てられたことで負の感情が抑えきれず、自身が持つ強大な魔力に呑まれた……という設定だった。
鏡に映るオリビアは、ほんの五、六歳の少女だ。
今から頑張れば闇落ちも回避出来るはず。
プレイ時に集めた情報によると、婚約破棄は婚約者側の希望だったらしい。
一人に依存する女性は将来の王妃に相応しくないと判断したそうだ。
なら、それをやめればいい。
さすがに毎日の手紙(しかも即日での返信希望)は相手にとっても私にとっても辛すぎる。
我ながら、よくあんなに書くことを思いつけたものだと思う。
記憶を思い返す限り、オリビアの日常ってそんなに変わり映えしないと思うんだけど。
それくらい好きだったのかな。
まあ、そうでなかったら婚約破棄されて闇落ちしないよね。
実のところ、オリビアの婚約者に関する情報はほとんどない。
本編で出てきたのは小国の第二王子で、海のように綺麗な瞳をしていたということくらい。
オリビアの故郷は彼女がラスボスとして覚醒した時に壊滅させられていて、生き残りもわずかしかいなかったからだ。
もちろん、婚約者は真っ先に殺されているから本編には出てこない。
目の色が分かっているのは、死に際のオリビアがヒロインに「あの人と同じ、綺麗な海の色ね……」と言い残したからで、実際に姿を見たわけじゃないし。
ただ、全く情報がないわけではなかった。
設定資料集に各キャラクターの過去編が掲載されていたのだけど、オリビアの過去編で婚約者とのやりとりが描かれていたからだ。
毎日送られる分厚い手紙と返信を受け取るための使者。
週末ごとに開かれる二人きりのお茶会(拘束時間十時間越え)。
そして、そのたびに強要される「愛している」「決して君から離れない」という誓いの言葉。
正直、読んでいるこっちが息苦しくなってくるお話だった。
そりゃあ、こんな人間に未来の王妃は任せられないよねって納得したものだ。
婚約破棄には私情も入ってるんじゃないかって、ちょっと思ったくらい。
ただ、オリビアだけが悪いわけじゃない。
彼女が婚約者に執着するようになったのは、家族が原因だった。
オリビアの母親は彼女を産んで三日後に亡くなった。
原因は、オリビアの持つ強大な魔力が母体を蝕んだため。
私には馴染みのない死因だったけれど、この世界では稀にある事例らしい。
父親譲りの銀髪と母親譲りの紫水晶の瞳を持つ娘を、父は疎んだ。
疎んだ、というより避けたと言った方がいいかもしれない。
設定資料集によると、父はオリビアを憎んでいたわけではなかったようだから。
過去編にしか登場しないキャラだったから、父親の情報もそれほど多くない。
ただ、本当はオリビアを愛したかったのだと書かれていたことは事実だ。
正直「面倒な父親だなあ」とは思ったけど、まあ父親にも事情があったんだと思う。
だけどそんなこと、当事者であるオリビアが知る由もない。
だから彼女は「自分」を愛するよう、必要とするよう婚約者に求めた。
まあ、結果は全く芳しくなかったんだけど。
正直、かなり詰んだ環境だと思う。
私が転生者じゃなかったらたぶん、オリビアと同じ運命を辿ってた。
だけどさいわい、私は転生者だ。
婚約者がめったに返事をくれない理由も、父がオリビアを避ける理由も知っている。
なら、改善は可能なはずだ。時間だって、あと十年もある。
最悪、父との関係は改善できなくても何とかなるもの。
「せっかく転生したんだし、化粧品とか料理も作りたいなあ。
あとは攻略対象にちょっとでも会えれば……うーん。
ま、ひとまず婚約破棄回避が最優先かな」
前世の知識があれば、婚約破棄回避なんて簡単。
その考え通り、私の第二の人生は極めて順調だった。
無視されても怖気づかず、根気強く話せば父は心を開いてくれた。
適切な距離を保って接すれば、婚約者の方から会いに来てくれるようになった。
婚約破棄なんて気配すら感じないし、むしろ溺愛されている。
苦労したのは、次期王妃になるべく施された教育くらいだ。
私が前世の記憶を取り戻した頃にはすでに基礎は身についていたからしばらくは何とかなったけど、もちろんそれで一生やり過ごせるわけじゃない。
年と共にだんだん要求されるレベルが高くなってきて、それはもう大変だった。
教師についていくのに精いっぱいで、途中から意識が朦朧としていたくらいだ。
その頃から教育係に褒められることが多くなったから、きっと与えられた課題をこなすのに全力を出し切っていたんだろう。
気が付いたら婚約者とのお茶会の最中で慌てたことも何度かあったっけ。
でも、おかげでだいぶ王太子妃らしく振る舞えるようになった。
実のところ、あんまり実感はわかないんだけどね。
ダンスのステップとか、扇の角度とかよく分かってないし。
だけど身体は動くようになったから、染みついたってことだと思う。
前世の知識を生かした料理や化粧品は……まあまあってところかな。
物語のように、みんなに大絶賛とはいかないみたい。
まあ、婚約者の彼には好評だからいいけど。
「なんだか、夢みたいな十年間だったな……」
隣に立つ彼を見つめて、小さく呟く。
今日は待ちに待った結婚式だ。
これが終われば、もう婚約破棄を恐れる必要もなくなる。
何より――愛する彼と結ばれる。
「オリビアの婚約者」を「私の婚約者」と認識するようになったのはいつからだろう。
海のように青い瞳が私を優しく見つめるようになった頃からか、あるいは緊張した様子で愛を告げられた頃からか。
気が付けば、婚約破棄を回避する理由が変わっていた。
破滅を避けるためから、彼と結ばれるために。
推しは相変わらず騎士だけど、傍にいたいのは彼だけだから。
「オリビア、愛しているよ」
誓いの口づけを交わす寸前、ヴェールを持ち上げた彼が微笑んだ。
私はそれに頷いて、目を閉じる。
そして――。
そして、何も感じなくなった。
「……え?」
目を閉じた時、最後に見たのは海のように綺麗な瞳。
目を開けた時、最初に見たのはこちらを見て微笑む彼の姿。
だけど、違う。
彼が見ているのは私じゃない。
「…………え?」
その時視界に入った見覚えのある手に、先ほどより大きな声が漏れた。
喉が震えると共に聞こえた低めの声に冷や汗が背を伝う。
「もし、かして……」
嫌な予感が脳裏を過ぎった。
震える手で頭を触り、顔を触り、手を眺める。
年相応でそこそこ手入れのされた肌。
肩まで伸びたまっすぐで硬い髪。
水仕事で少し荒れた手。
私は、前世の姿に戻っていた。
「なんで……」
元の世界に戻ったのなら理解できる。
でも、私の目の前で彼と「私」の結婚式は粛々と進んでいた。
こちらに向けられる表情も声も口づけの直前と変わらない。
まるで、私の変化に全く気づいていないかのように。
なんの滞りもなく進んだ結婚式はやがて終わりを迎えた。
ドレスからこの日のために用意された夜着へと着替えた「私」が寝室のベッドに腰掛ける。
支度のためについてきた侍女が全員退室した後、しばらくして「私」が口を開いた。
『本当に、感謝しているのよ』
それはまるで、誰かに話しかけるような調子の声だった。
今、この部屋には誰もいないはずなのに。
返事など端から期待していないといった様子で「私」が続ける。
『最初は驚いたのよ。
突然、別の意思が私の身体を操り始めるのだもの。
私の身体を我が物のように扱う貴女が恐ろしかったし、憎かった。
けれど、そのおかげで父と和解出来たし、殿下とも関係を深められたわ。
私も自身の行動を見つめ直すことが出来た。
それもこれも、全て貴女のおかげね』
「私」が話しかけているのは私だと、その時ようやく気が付いた。
向かいの壁に掛けられた鏡に映る「私」の唇が静かに動く。
『でも、そろそろ返して欲しいの』
「返す……?」
「私」が何を言っているのか、訳が分からなかった。
だって、私はセンイチのオリビア・コンチェルトに転生したんでしょう?
オリビアとして生きるのは当然じゃない。
それなのに「返す」って、どういうこと?
その時、一つの仮説に辿り着いた。
私はオリビアに転生したんじゃなくて、憑依したんじゃないかって。
その仮説を肯定するように「私」――オリビアが鏡越しに微笑んだ。
『ええ、そうでしょうね。
私の意識は貴女に身体を奪われた後も続いていた。
徐々に主導権を奪い返せるようになるまでは、ずっと貴女の中にいたわ』
その言葉に、背筋がゾッとした。
だって、この言葉が正しければ彼女は十年も私の中に閉じ込められていたことになる。
誰からも見られず、誰とも話せず、たった一人で。
もし私が同じ目に遭ったら、きっと彼女のことを恨んだだろう。
「ご、ごめんなさい……ゆるして」
『ええ、いいわよ。
貴女は確かに、私の人生を十年奪った。
でも、そのおかげで私は殿下の隣にいられる。
だから、許してあげる』
意外なことに、彼女の返答はあっさりとしていた。
そのことにほっと胸を撫で下ろして――それから、ふと気が付く。
私はこれから、どうなるのだろう。
もしかして、彼女と交代で身体を操りながら生きていくのかしら。
私の疑問を感じ取ったのか、鏡の中の彼女が微かに首を傾げた。
『おかしなことを言うのね。
もちろん、貴女はもう出て来られないわよ。
そのための経路は全て潰したもの』
「……え?」
それは、何? どういうこと?
混乱する私を置いて、彼女はさも当然のように言葉を続けた。
『もともと、この身体は私のものよ。
どうして赤の他人と共有しなければならないの?』
「それは……でも、許してくれるんでしょう?」
『ええ。私の人生を十年も奪ったことはね』
紫水晶の瞳が強い光で鏡を見据えた。
『この世界は乙女ゲームの世界なのでしょう?
ヒロインと攻略対象が出会って、恋をして、そして結ばれるまでがシナリオ。
そして、貴女は無事にエンディングを迎えた。満足でしょう?
これから先は私の人生よ。だから、どうか貴女はそこで眠っていてね』
「待って!」
私のおかげで、彼女は恋する王太子と結ばれることが出来た。
私のおかげで、彼女は唯一の家族と和解出来た。
私のおかげで、彼女は世界を破滅させるラスボスにならずに済んだ。
確かに私がしたことはひどいかもしれない。
でも、私だって破滅を回避するために頑張ったのよ。
それなのにどうして、全部奪おうとするの?
私は何も悪いことなんてしていないのに。
『それを言うなら、私も努力したわ。
貴女の代わりに厳しい王太子妃教育を受けて、教養を身につけてあげたでしょう?
もしあのまま貴女が教育を受けていたら、きっと婚約者の座から降ろされていたわ。
幸福を享受する権利はあると思うのだけど』
それに、と彼女が笑う。
『先に奪ったのは貴女の方よ。
私はただ、奪い返しただけ。
罪は貴女の方が重いでしょう』
違う、と口の中で何度もつぶやいた。
だって、彼女に憑依したのは私の意思じゃない。
彼女の身体を奪っていたなんて、私は知らなかった。
私は悪くない。私は……。
その時、扉をノックする音が部屋に響いた。
さっきまでと違う、まるで恋する少女のように柔らかな笑みを浮かべた彼女が「お入りになって」と声を掛ける。
入ってきたのは、つい先ほど夫になったばかりの殿下だった。
ああ、そうだ。
殿下ならきっと、私に気付いてくれる。
だって、殿下はあんなに私を愛してくれたもの。
きっと違いを見抜いてくれるわよね。
「待たせてしまって済まないね、オリビア」
「お気になさらないで、アベル殿下。
むしろ、心を落ち着かせるためには丁度よかったわ」
そう言って微笑む彼女を見て、殿下が少し怪訝な顔をした。
よかった、気が付いてくれたんだ。
抱いた期待を裏付けるように、殿下が口を開いた。
「少し、雰囲気が落ち着いたように思えるのだけど……」
「ええ、王太子妃になったのだもの。
いつまでも子供ではいられないわ。
……こんな私はお嫌いかしら?」
オリビアの問いかけを肯定して欲しかった。
いつもの私が好きだと、言って欲しかった。
「いいや。少し驚いたけれど……こちらの君も素敵だよ。
むしろ、私は今の君の方が好ましく思う」
「まあ、殿下ったら」
微笑む殿下を見たくなくて、私はその場にうずくまった。
仲睦まじく笑う二人の声が頭に響く。
私は――オリビアは、あとどのくらい生きるのだろう。
私はいつまで、彼女に憑依していなければいけないのだろう。
答えが返ってくることは、永遠になかった。