45:毒の霧
「俺は決めたんだ。デュレク、お前を守ると……。お前だけは、誰の手にもかけさせないと。そのために、俺は理想の兄に徹した。俺が目立てば目立つほどに、大人たちの目は、デュレクから離れた。
たびたび、お前の粛清は話題に上った。それはまるで、飼っているひな鳥の首を絞めるように、いつでもできることのように語られていたんだ。
俺がいなければ、お前はとうの昔に、屋敷で殺されていたことだろう。
いいか、その中で、俺は、あらゆることをこなす俺は侯爵家の理想的な跡取りになった。多くを聞き、聞かなかったことにし、生きてきた。
これが意味することが何か、分かるか、デュレク」
兄の言葉を受けながら、デュレクの心は濡れそぼる。
(俺だけじゃなかったのか。あの屋敷で人として扱われなかったのは……。俺が逃げた果てに、兄貴は……)
「デュレク。あの屋敷にはな。お前だけでなく、俺さえも、はじめからいなかったんだよ」
兄の弁に黙って耳を傾けるデュレクは眉間に皺をよせる。
「お前は平民として大人になり、騎士でも文官でも、平民として門戸が開いている進路にすすめば良かったんだ。どうして、俺の手が届かない地へ行ってしまったんだ。魔眼が開眼しなければ、お前は前線で死んでいただろう。勝手に死ぬな。勝手に消えるな。俺一人をあの屋敷に残して、消えてくれるな」
兄の叱責に耳を傾けるデュレクは、暗澹となる。
デュレクはデュレクであり、兄は兄だ。
まったく違う人間なのだ。
デュレクは兄に頼って生きてきた。あの家で、デュレクを人として扱うのは兄しかいない。兄がいなければ、デュレクは人間になれなかったと言っても過言ではない。
言葉も、感情も、すべて教えてもらった。年端もいかない子どもに親代わりをしてもらい、生かされた。
思い違いをしていたのは、デュレクだけが兄を頼っていたと思っていたことだ。
デュレクが頼っていた以上に、兄もまた弟を頼っていた。
その頼り方は、デュレクより、いっそう重い。
デュレクは、兄に頼っている自覚があったからこそ、前線へ赴いた。
あの頃は、立派な兄に一方的に寄りかかっていると意識し、このままではいけないという焦燥感もあったろう。兄からの自立。目指したのはそこであり、家から捨てられた自身の命を粗末にした結果でもある。
そして、デュレクは成長し、兄だけが取り残された。あの家に囚われた兄は、役割を強要され、自我を殺した。求められるをこに応えるだけで何者にもなれず、ひび割れた土台は今にも崩れそうな未熟さを抱え、体だけが大人になったのかもしれない。
自立したいデュレクが旅立つことを責められようか。
家にからめとられた子どもが逃げ出せずに、壊れていくことを責められようか。
長い年月に堆積した膿は黒々しい。
「俺はお前に手を差し伸べている時だけ、人になれる。
人間とは、かくあるものだという、あり様を体現できた。
俺にとって、デュレク、お前に手を差し伸べている時だけが、生きている一時だけだったんだ。なのに、お前ときたら、なんで勝手に前線に行ってしまうんだ!」
頼れる兄をギリギリの心で演じた、弟に縋っていた兄。
兄が弟を責める言葉の奥には、兄の非業が燻っている。
(兄貴だって、身勝手な発言をしている自覚……、あるんだろうな)
苦しくて、虚しくなるデュレクは、脱力し佇む。褐色と紅の瞳によぎる憐憫。
兄の双眸が激情に燃える。憤怒と悲哀。柄を握る手が振り上げられた。白刃が陽光を照り返す。
デュレクは眩しさに目を細めた。
目に光を受け、耳を傾けることにかけていたデュレクは、兄の動きへの反応が遅れた。
殿下に連れて来いと言われている子どもも担いでいる。
動きも鈍くなり、態勢も悪い。
(せめて、子どもだけでも守らなくては!)
デュレクの体温が急上昇し、緊張が突き抜ける。その身体の微細な変化を感じ取ったのか、子どもの片目が薄く開いた。
瞳が青く底光る。
青の魔眼が働きだす。
子どもを中心に空間に霧が発生しはじめ、デュレクを飲み込む。周辺が霞がかり、デュレクの兄も飲み込んだ。
デュレクの目の前に迫った兄の動きが止まる。手から力が抜けて、剣が地に落ちた。
喉を押え呻く兄が崩れ落ちた。
デュレクの片目が赤く光る。担ぐ子どもが発生させた霧は、魔眼を持つデュレクへは効力が軽減される。魔眼を持たない兄は、霧の威力を直に受けた。
(兄貴! このままじゃ危ない)
再び発生した霧が広がる速さは遅い。まだ、薄い靄がかかっている程度だ。
この霧を払えるのはセシルしかいない。デュレクは地に子どもを寝かせた。兄に駆け寄り、重い体躯を背負いあげる。
ずるずると引きずりながら、子どもへと近づくと、再びしゃがみ、子どもをわきに抱えた。
大の男を背負い、子どもをわきに抱えて、歯を食いしばり、デュレクは屋敷に向かい歩み出した。
靄は御所の庭に侵入する。白い綿のような浮遊物が近寄ってきた。新たな霧の発生に、セシルは動く。女官と殿下を残し、庭の中央へと進み出る。
見据えれば、菫色の瞳が輝きを放つ。薄く広がろうとする靄の動きが止まる。末端を消滅させながら、靄は林の中へと逃げ戻る。
林の奥へと押し返された靄がデュレクの周囲に取り巻き、霧散する。視界は晴れて、歩きやすくなる。変わらないのは、子どもと兄の重さだけだった。
足元が見えるよになっただけでもありがたい。
デュレクは、その現象がセシルの魔眼の効果であるとすぐに看破する。
(セシル、セシル……。頼む、助けてくれ)
霧を浄化する瞳を持つ女騎士の名を、呼びながら、デュレクは林を抜けた。
デュレクは御所の庭に出た。
広い庭があり、大きな御所の建物を見て、安堵する。セシルが林に輝く瞳を向けており、その後ろに殿下と女官が立っていた。
デュレクは崩れ落ちる。背負った兄を地面にどさりと落とし、座り込んだ。脇に抱えた子どもだけ、地面にそっと降ろした。
顔をあげると、セシルが駆け寄ってくる。
「セシル!」
「デュレク、無事か!」
凛とした声に震えるデュレクは、深く頭を垂れた。
「セシル……、頼む。どうか、兄貴を、助けてくれ」




