3:絶縁を突きつける
菫色の瞳は、子爵家の特徴だ。セシルの母が分家の冴えない男をお飾りの夫に選んだのも、瞳の色が決め手だった。
母の愛とは、子爵家を象徴する瞳の色を受け継ぐことだったのだろう。彼女にとって、家こそすべて。セシルの存在も、父の存在も、家という重さに比べたら、とるに足らないものだった。
おかげで、セシルの瞳は綺麗な菫色に染まった。
尊厳を貶められた父は、最も身近な人間に癒しを求めた。その結果が、今、セシルの目の前にいる。年若い娘だ。哀れなほど、怯えている。童顔だから、余計に幼く見えても、セシルとの歳の差は二歳ほど。
(使用人を妻に押し上げることはない。母が死んでも、立場はずっとそのままにしていたな)
この娘の母親、つまり父の愛妾もセシルはよく知っている。
優しい母のようなメイドだった。そのメイドも、すでに亡い。
父に残されたのは、愛のない本妻の娘と、愛のもとに生まれた浮気相手の娘。
父が、どちらを真に愛しているのか、セシルだとて分かっている。
(この家にとって、邪魔なのは私なのだ)
婚約者の不貞。
その不貞をすすめたであろう父。
母を亡くし、父の言うことに従わなければいけない立場の娘。
(父親や当主の言うことに従うしかない、この娘の方が、よほど貴族の娘らしくないか)
騎士になったセシルより、ドレスもきっと似合うだろう。着飾れば、愛らしい容姿により、人目も惹く。それだけの魅力はある。
愛のない権威のみふりかざす女主人という母の人生をなぞるような未来と、近衛騎士の副団長まで上り詰めた地位を逆手にした自立する未来。セシルは選択の岐路に立っていた。
(歪な家族……)
その家族に、背を向けて、自由になる。
今日という日に、どちらの道を選ぶか、とっくに結論は出していた。
「父よ。この娘もまた、綺麗な菫色の瞳をしています。この瞳の色は隠しようもないでしょう」
セシルは口角をあげて、立ち上がった。娘、娘、と口にしているが、セシルはこの娘の名は知っている。知っていてあえて言わない。
彼女の名はライラ。生まれた時から屋敷にいる子どもを知らないわけがないのだ。
セシルに乱暴に掴まれた顎と頬を撫でる娘に、元婚約者の男が寄り添う姿がセシルの視界の端に映った。
「この娘もまた、あなたの娘でございましょう」
椅子の向こうに立つ父が背もたれを握り、セシルと向かい合う。
「だと、したら、何だというのだ、セシル」
「たった今、この男と娘が何をしていたか、父はご存知でいらっしゃいましょう。その手引きをされてたのは、父であるあなただ」
「ふん。セシル、お前は何の証拠をもって、そのような戯言を言う。男が一人や二人、愛人をこさえてるのは当たり前だ。特にお前の母や、お前のような女騎士風情。嫁の貰い手など、本来ならないと思え! お前の母がそうしたように、私だとて、この家のために最善の配偶者を選んだのだ」
セシルの肚がぐんと冷える。剣を抜かなかったのは、心に堆積した諦めが飽和したためだ。父も母も同じだ。皆、家のことばかりで、そこにセシルはいないのだ。
(この家に、私は始めからいない。いないんだ)
分かっていたことでも、改めて向き合うために反芻する。
息を殺し、心を殺し、耐えるように生きてきた。寒々とした心をもって、セシルは父の言葉に耳を傾ける。
「そうだ、ライラは私の娘だ。お前よりもずっと可愛い娘だ。だが、ライラは使用人だ。どんなに可愛くとも、非嫡出子である者を跡取りにはできない。
しかし、ライラとセシル。お前たちの瞳は一緒だ。
セシル、お前が子をなさず、一世のみのおかざりの当主であったとしても、ライラの子が菫色の瞳をしていれば、誰の意義もなく、その子を跡取りに指名できるのだ。
お前など、ただこの家に、張りぼての威厳を掲げ立っていればいいだけだ。あの人生半ばで、命が折れた女のように!」
無感情なままセシルの心胆は冷え切った。これぞ父の復讐かと、暗澹と病む。
「ならば、娘……いや、ライラとこの男の子どもを後継ぎにすればよいのです。そこに私はいる必要などないでしょう。
孫を跡取りにする前例はあるのですから!」
父の思惑通り、私が何も知らない道化を演じる必要はないのだ。
「私などいなくとも、父よ。堂々とこの家を乗っ取ればよいのです。
決別するのは私だ。こんな家に未練はない。潔く私から絶縁する。
本日をもって、セシル・マティックの名を返上し、ただのセシルとなろう」
吐き捨て、セシルは踵を返す。
男と娘を見下し、その横を通り過ぎた。
開け放たれた扉を抜ける背に向かって、元婚約者が、背後で怒声をあげる。
「お前みたいな、狂暴な女なんかと、子どもなど為せるものか。その武骨で、可愛げひとつない言動の男女など愛せるものか」
セシルは振り向かない。足も緩めない。ただ、黙って、その場を後にした。