◆静かの森⑥
黒い魔獣が杖を構えたライムと丸腰のナツを交互に見たあと、より脅威であると判断したライムに狙いを定めて、魔法を放たれる前に飛びかかろうと地面を蹴って襲いかかる。
「幻影の庭にて、災禍は微睡みッ……っ」
鋭い爪から身を守ろうとライムが呪文を詠唱し始めた瞬間に空気の圧力が2倍に増えたような、突然突風の中に放り込まれたような魔力の爆発と共に歌うような声が響き渡る。
『カーテンコール 幕は上がった
お祭り騒ぎ 集う 群衆
残された最後の子は何処へ?
探せ 全ての終わり ハッピーエンドの鍵
望んだ終幕はこれじゃない。
最後の鐘 カーテンフォール やがて幕は降りる』
悲鳴のような、泣いているような、あるいは痛みを堪えているような悲壮な歌声に共鳴するように森がさざめく。
魔力の爆発に弾き飛ばされた魔獣が地面を転がり体制を立て直すまでの刹那の間に黄金の光が矢のように一直線にナツを目掛けて飛来する。
『受け取りなさい、あなたの*****でしょう?』
「え……っ!?」
ナツの目の前でピタリと止まったのは先程忘れてきた曾祖母が使っていた大剣。
漆黒と呼ばれた少女の声がナツの耳元でクスクスと笑う。
確かに武器の名前を呼んでいたはずなのによく聞き取れなかったナツが周囲を見回すが純黒の姿はどこにもない。
「ナツ、剣を!」
「う、うん……っ」
ライムの声に戻ってきた大剣の柄を握り締めるナツの体が勝手に動き滑らかな動きで鞘から剣を抜き放つ。
先程は何をしても抜けなかった大剣はすんなりと鞘から解き放たれ、曇りのない黄金の刀身が太陽の光を受けて鋭い光を反射し、強く輝く。
『臆することはないわ、この僕が力を貸してあげるのだから』
「うん、信じてる。
覚悟しろ魔獣!
もう私はさっきまでの私と違うんだからな!」
少しだけ冷たいナツよりも細く少しだけ小さい手が添えられるような感覚。
『さぁ、息絶えるまで踊りましょう?』
獲物を見つけた猫のようにうっとりと目を細めて嗤う漆黒の姿が浮かぶような愉しげな声がナツの耳を擽る。
不思議とさっきまであった恐れもない。
馴染んだ動きをなぞるようにナツは剣の切っ先を真っ直ぐに魔獣へ向ける。
グルルッと牙をむき出した獰猛な口から重低音で地の底から響くような唸り声が響きナツの方が危険と判断したようで真っ直ぐに向かってくる。
「勇者!」
「うわわわ、こっち来た!?」
悲鳴をあげるライムと狼狽えるナツ。
もうダメだ、と勇者が目を閉じる横でうふふふ、と楽しそうな純黒の笑い声と同時にピンッ、と糸で引かれたような不自然な動きでナツの体が後方へ大きくステップを踏み横に薙ぎ払われた魔獣の前脚を避ける。
風を切る音に目を開けたナツの髪の毛1本分程度の先を爪が通り過ぎていく。
「ひぃぃいいいっ!」
情けない悲鳴と涙目とは裏腹にナツの体は勝手に前方へ力強く踏み込み、手にしている大剣で魔獣の胸から肩にかけて大きく切り上げる。
皮を裂き、肉を断ち切る感覚が手まで伝わりさらに悲鳴を上げるナツの手は剣を手放すことを許さない。
勢いよく血飛沫を上げながら地面を転がる魔獣の返り血で真っ赤に染る視界を袖で乱暴に拭う。
「気持ち悪い、帰りたい……もうやだぁぁ」
『帰れないなら進むしかないのよ?』
怒り狂った魔獣のめちゃくちゃな攻撃に泣き言を上げている間も踊るように体は勝手にステップを踏んで回避するが避けきれない爪や牙で頬や二の腕に焼けるような痛みが走り、そのせいでナツの顔がますます情けなく歪んでいく。
「木漏れ日の庭、星の海、実りの大樹《治癒》」
ライムの魔法でナツの怪我は綺麗に塞がるもすぐに傷がつく。
ガチリ、とナツの目と鼻の先で魔獣の牙が空を噛む。
鋭い牙は成人男性の親指程あり、噛まれたなら間違いなく死んでしまうことが容易に想像出来てしまう。
そして魔獣の吐く息の生臭さまで分かってしまう距離にそれがあることにナツの眉が益々下がり、恐怖にガタガタと歯が鳴る。
逃げろ、逃げろと本能が叫んでいるのに体が言うことを聞かない。
『仕方ないわね』
「"紅き涙、憤怒の炎、泥濘の闇 《灼き水》"」
それどころか後方へ飛ぶと同時に溜息混じりの声が零れて震えてまともに発声できないはずの口が勝手に開き、勝手に知らない呪文を謳う。
眼前に迫っていた魔獣の顔面へ真っ赤な水のようなものが掛かる。
べしゃっという液状の物が当たった音だが、すぐに髪の毛が燃えるような吐き気を催す凄まじい悪臭を放って白い煙を上げた魔獣が悲鳴のような声を上げて地面を転がる。
「"紅蓮の花、竜の吐息、蝶の羽ばたき 《火柱》"」
鼻が曲がりそうな悪臭に顔を顰めるナツの口がまたしても知らない呪文を口ずさむ。
血のように赤黒い魔法陣が浮かび上がり転がる魔獣にダメ押しとばかりに紅蓮の火柱が吹き上がり魔獣を包み込む。
耳を塞ぎたくなるような絶叫がこだまする。
それもすぐのことで焼け爛れてあちこち皮膚がずり落ちた世にも恐ろしい生き物が炎の中から飛び出してくる。
「うわぁぁああっ!」
情けない叫び声とは裏腹に力強く地面をけったナツは飛び出してきた魔獣よりも高く飛び上がり振り上げた大剣を思いっきり振り下ろす。
ゴキリ、と骨を砕いた手応えと共に魔獣の首が胴体から切り離されて宙を舞う。
呆然としたような瞳がナツを映してすぐに光を失う。
どさりと重たい物が落ちた音を追いかけるように着地したナツの足元には魔獣だった物が二度と動くことなく転がっている。
それもやがて光に包まれると霧散し死体の代わりにむき出しの銅貨と何かが入っている皮袋がそこに落ちている。
『お疲れ様、勇者の雛』
漆黒の声に糸が切れたようにナツが地面にへたり込む。
「こ、怖かったぁ……」
「勇者ナツ、無事ですか……?」
小さく震えるナツに駆け寄ったライムがしゃがみこんでその顔を覗き込むとナツがライムに抱き着きおんおんと泣き始める。
「……素人になんてことしたんですか、カタハ」
『あら怖い。
またね、ライム』
そんなナツを抱き締め、背後に幽霊のようにゆらゆらしていた純黒を睨みつけたライムにクスクスと笑い声を零した純黒がふわりと煙のように掻き消えた。