般若面の正体
聖晶橋の上に一人佇む般若面はゆっくり藻香と楪に近づいて来た。
二人は護符を取り出すと魂式を込めて破魔装束を纏う。そんな藻香と楪を見て般若面は口を開いた。
「――少し意外です。ここにいるはずのない私が現れてパニックに陥るものと思っていましたが、随分と冷静のようですね。まあ、そんな些細なことはどうでもいいですね。九尾、今度こそ私と一緒に来てもらいますよ」
「人のことを九尾とか呼ぶの止めて欲しいんだけど。今の私には玉白藻香っていう名前があるんだから!」
「それと、ここには私がいるのを忘れてもらっては困ります。藻香ちゃんは絶対に渡しません!」
藻香と楪はそれぞれ九尾と式武を出現させ、徹底抗戦の意を敵に示す。般若面はその光景を見て笑っていた。
「あなた方二人が全力を出したところで、万が一にも私には敵いませんよ。片や大妖怪の搾りかすのような人間。片やたかが二級退魔師。そんな中途半端な力では私に傷一つ付けられません。――それは『六波羅』から派遣されていたあの少年も同様です。一級退魔師だそうですが、これまでの戦いを見たところ大したことはないですね。仮に戦ったとしても私の勝利は揺るがなかったでしょう」
般若面の口調は淡々としたものだった。ただ事実を述べているだけという印象を受け、藻香と楪の緊張感が増していく。
「燈火に勝つ自信があったのならどうして何もせずに帰したの? 本当は戦うのが怖かったんでしょ」
「私が恐れているのは彼の後ろにいる『六波羅』の戦力ですよ。さすがに黄龍斎クラスの怪物が出張ってきたら私でも対処が難しいのでね。だから、彼らを刺激しないように式守燈火には帰ってもらったんです」
「成程ねぇ。うちの師匠の化け物っぷりは『土蜘蛛』の連中もよく分かってるんだな。こいつは面白い土産話が出来たわ」
「なっ、この声は!?」
突如会話に乱入してきた男性の声。般若面は聞き覚えのある、その声の主を捜すと藻香と楪の後方から一人の男性が歩いて来たことに気が付いた。
赤みがかった黒い短髪に黒い破魔装束を身に纏い、左腰に赤い鍔の刀を差している少年。紅義山での鬼の奇襲を打ち破った退魔師。――式守燈火がそこにいた。
「ちょっと、来るのが少し遅いんじゃないの?」
「そうですよ。もしかして、出て来るタイミングを見計らっていたんじゃないんですか?」
「急いで来たのにこの仕打ち。二人とも酷くない?」
中崎市から発ったはずの燈火を前に自然に対応する藻香と楪を見て、般若面はこの状況を理解したのであった。
「――全て私をあぶり出す演技だったという訳ですか。『六波羅』に帰るという偽の情報を拡散して周囲の人間を騙し、演技をしていたと」
「まあな。そうでもしないと注意深いあんたは表に出て来ないだろ。本当は昨日あの場で戦ってもよかったんだけど周囲に被害が出るし、それにあんたの本当の実力が分からない以上は下手に刺激するべきじゃないと思ってさ。こうしてあんた自らが人払いをしてくれたんで、余計な手間が省けたのはラッキーだったね」
聖晶橋には現在四人以外の人影はない。般若面に張られた結界によって一般人を寄せ付けないようになっていた。
般若面はいなくなったと思っていた燈火が現れても特に取り乱した様子はない。むしろ喜びを感じ、彼とのトークを楽しんでいた。
「今の口ぶりからすると、あなたは私が誰なのか気付いていたということですか。いったい何時から?」
「紅義山の湖に姿を現し俺と戦った時に違和感を覚えた。玉白神社で戦った後、あんたはしばらく仕掛けて来ることは無かった。そして紅義山では鬼を何体も忍ばせて奇襲をしたことから、般若面は注意深く狡猾な性格だと俺は判断していた。けれど、最後には自ら姿を現し俺に戦いを挑んで来た。周囲は敵だらけだったにも関わらず、だ。――俺が思い描いた般若面なら、あの状況で攻めて来るなんてことはしない」
「成程。私のことをよく分かっていますね。でもそれだけでは私の正体には繋がりませんが」
燈火と般若面の答え合わせは続いていく。藻香と楪には二人が答え合わせを楽しんでいるように見えていた。
「あんたが自分のデコイとして利用した本郷先生。彼の証言がきっかけだった。彼は約二ヶ月前からある女性と付き合い始めていた。それから間もなく肉体関係を持ったそうだ。そして、その女性との行為中にふと不思議に思ったことがあったらしい」
「それは何なのですか?」
「剣ダコだよ。その女性の掌には剣ダコがあったんだよ。それもかなり修練を積んだであろう立派なものがね。その女性は仕事上、刀や剣を扱うことは無い。だから本郷先生は不思議に思ったそうだ」
「――そう言えば、彼は妙に私の手を入念に触っていたわね。普通なら胸とか他にいくらでも触るところがあるでしょうに。彼の嗜好はちょっと意外だったわ」
般若面は突然女性の喋り口調になった。その話し方に聞き覚えがあった藻香と楪は般若面の正体が本当にその人物なのだと分かり、沈痛な表情をしていた。
「本郷先生は無類の指フェチらしいよ。もし、彼が指フェチじゃなかったら詰んでたとこだ。まあ、それでその女性を怪しいと思った俺は昨日その人に会う用事があったんで、色々と話をしてみたんだよ。前々からエロそうな先生だと思ってはいたけど、予想以上だった。けど、調子に乗ってお喋りが過ぎたな。俺は学校内で自分が一級退魔師だと言ったことは無い。『中崎陰陽退魔塾』の職員は知っていたけど、その情報を外部に漏らすことは禁じていた。だから、校内で俺が一級退魔師だと知っているのは藻香、楪さん、そして俺を調べていた般若面のいずれかなんだよ。そうだろう般若面――いや、『中崎陰陽退魔塾付属高校』養護教諭、明海智恵!」
燈火が言い終わると般若面は自らの面に手を伸ばし、それを外した。その下から出て来たのは美しい女性の素顔であった。
昨日、保健室で燈火を誘惑した保健の先生、明海智恵が妖しい微笑みを見せていたのである。
「あーあ、ばれちゃった。あなたとの会話が楽しくて、つい余計なことまで喋ってしまったわ。それにしても、保健室で先生となんて男子生徒からしたら夢のシチュエーションだったはずなのに式守君はそっけなかったわね。私が用意したお菓子や飲み物に全然手を付けなかったし、私にも手を付けようとしなかったし。――健全な男子高校生とは思えない所業だったわ」
「――なにそれ。私たちそんなことがあったなんて聞いてないんですけど?」
燈火の両隣にいる藻香と楪がジト目で少年を見ていた。燈火は二人からのプレッシャーに冷や汗をかきながら話を続けるのであった。