バイバイ燈火
「それじゃ、帰るとするか」
「後で師匠に良い修行先があるか訊いてみるよ」
「ありがとう。いやー楽しみだな」
「あんま調子に乗るなよ。まだ見つかるか分からないし、見つかったとしても修業は厳しいからさ」
「分かった。ありがとな、燈火。今度会う時は俺がうんと強くなった時だな」
朝斗と松雪の姿が見えなくなるまで見送っていると、藻香が隣から俺の顔を覗き込んで来る。
「良かったわね」
「なにが?」
「さあね。それじゃ家に入って休みましょうか。明日は早いんだし。それに――」
「そうだな」
藻香は「にしし」と悪戯な笑みを見せながら先に家に入っていく。俺はそんな彼女の背中を見ながら、決意を新たにしていた。
玉白家での最後の夜は緩やかに、そして暖かく過ぎ去っていった。
翌朝もいつも通りに起きて顔を洗い、着替えて皆で食卓を囲み朝食を摂る。一ケ月以上続いたこの日常の生活は日々妖と戦ってきた俺にとってかけがえのないものになっていた。
けれどその生活も今日で終わりを迎える。朝食を終え食器洗いや片づけを済ませ、身支度を整える。
そして、玉白家の玄関を出て神社の境内を見回す。ここに居候するようになり、日常となっていたこの風景もこれで見納めになる。
そう考えると少し寂しさを感じてしまう。俺は境内のとある一角に目をやっていた。すると、藻香も一緒になってそこを見つめる。
「一ケ月ちょっと前のことなのに、もうずっと昔のように感じるわ。私が般若面や妖に襲われた時に燈火が助けてくれた。――あの夜のことは一生忘れないと思うわ」
「大袈裟だな。俺は別に大したことはしてないよ。自分のやるべきことをやっただけさ」
「燈火にとってはああ言うのは日常茶飯事でも、こっちにとっては凄く特別な出来事だったのよ。ピンチの時に颯爽と現れて助けてくれるとか結構凄いことなんだから」
俺と藻香は顔を見合わせて笑っていた。
「燈火君、藻香ちゃん、そろそろ行きましょう」
「「はーい」」
玄関から出てきた楪さんが俺たちを呼ぶ。中崎駅まで三人で歩いて行くのでそろそろ出発しないといけない。
吉乃さんも玄関から出てくると俺の目の前に来て頭を下げていた。
「燈火君、本当にありがとうございました。あなたや楪ちゃんがいなかったら、今日と言う日を迎えられなかったでしょう。感謝をしてもしきれないわ。――本当にありがとう」
「吉乃さん、俺の方こそありがとうございました。多悪霊荘が燃えた時に俺に手を差し伸べてくれたあなたの優しさは決して忘れません。今後は別の人間が護衛としてあなた方を守ってくれます。だから安心してください。――お元気で」
吉乃さんは微笑みながらも何処か悲しそうな表情を俺に向けていた。ちょっと俺も泣きそうになって来る。
「燈火君。『六波羅』に戻ったら、もしも機会があればなのだけれど、あなたをここに派遣してくださった局長さんにありがとうと伝えていただけないかしら?」
「分かりました。局長の近藤に必ず伝えます」
俺が「近藤」と局長お名前を口にした時に一瞬だけ吉乃さんが、今まで見せたことのない表情をしているのに気が付く。
遠い目で懐かしい出来事を思い出しているような、そのはにかんだ表情はまるで恋する少女のような、そんな微笑みだった。
「どうかしたんですか?」
「え? ああ、ごめんなさい。ダメね、ちょっとボケっとしていたみたい」
「もう、お婆ちゃんたら~」
藻香の祖母へのツッコミに皆が笑う。そして俺は玉白神社を後にした。
大烏川に掛かっている聖晶橋を三人で歩いて行く。この橋を渡ると中崎市の市街地に入り一気に都会っぽくなる。
玉白神社や『中崎陰陽退魔塾』は郊外にあり、ちょっと侘しい土地だったのかもしれない。
だが、個人的に俺はその方が居心地が良かったので最高の立地条件だった。
俺たちは無言で歩き進んで行き、あっという間に中崎駅に到着した。改札口近くで二人に別れを言う。
「二人ともありがとう。ここまでで大丈夫だよ。帰り気を付けて」
「燈火も気を付けてね」
「燈火君、また会いましょう」
それだけ言葉を交わし、俺は改札を通ってエスカレーターでホームに下りていく。俺の姿が見えなくなるまで藻香と楪さんは見送ってくれていた。
◇
燈火と別れた藻香と楪は中崎駅を出て学校を目指して歩き始めた。二人は互いに黙ったまま来た道を戻っていく。
つい先ほど行動を共にしていた少年と歩いてきた道。けれど、もう彼はいない。
その喪失感を抱きながら、二人は黙々と歩いて行く。
そして聖晶橋まで戻ってきた時に二人は異変を感じた。大烏川は比較的大きな河川で、そこに掛かっている聖晶橋もかなり大きめの橋だ。
川を行き来する際の要となる場所であるにも関わらず、橋の上には行きかう車も人の姿も無い。
この異常な光景を前に二人が周囲の様子を窺っていると橋の上に一人の人物の姿を認めた。
その姿を目の当たりにして、藻香と楪は息を呑む。
それはそこにはいないはずの人物だったからだ。般若の面を被り身体を覆う黒いマントに身を包む人物が二人が来るのを待ち構えていたのである。