第4話:所長
研究室前にて、俺は指紋認証の扉を開けようとしていた。
以前はナンバーロック式だったが、研究情報の漏洩対策が厳しくなってきた影響だ。
「まあ、打ち込まない分楽でいいんだが」
俺は扉をくぐり、自分の席へと向かう。おおよそ25mプール4つ分の広さの研究室だ。
この広さをたった2人で使えるのだから、非常にありがたい。
「才華、コーヒー要るか?」
俺は白衣を着ようとしていた才華に声をかけた。
「ああ、あとでもらうよ。ちょっと先に済ませたい用事があってね」
「了解だ」
そういうと、才華は自身のサンプルのある冷凍庫の方に向かっていった。
使用できる残りサンプルを確認してから必要試薬量の計算と発注をしたかったってところだろうか。
「俺も頑張りますか」
コーヒーを2人分用意して、俺も作業に入る。
研究室内での会話はほとんどない。
業務上必要な会話が主でそのほかはさっきのような軽い休憩でのやり取りだけだ。
お互いの集中を邪魔しない。
それが俺たちの間のルールだ。
普通の社会人のように出勤時間、退勤時間が設定されていない俺たちにとって気を抜けばどんな仕事もだらだら出来てしまう。
そんなことではもちろん成果などあげることはできないので、集中力を保ち続けるのは大切なことだ。
初めて会ったときは仲良くしようと何回か話しかけていたが、数回目で人を殺しそうな目で「邪魔」と言われてから、それもなくなった。
落ち着く形になったというわけだ。
ピッ、ガチャ、シャー
そんなとき、扉が開く音がした。
「おお、柊君。来ていたか、ちょうどよかった」
そう言って入ってきたのは大きな体躯を持った初老の男性。白髪のオールバックに白い顎鬚をもつその男は、スーツの上に白衣を着ており、右手にいくつかの書類を持っていた。
「どうかしましたか、所長」
「いやはや、君と糸花君に渡したいものがあってね」
「私にもですか?」
ちょうどサンプルのところから帰ってきた才華も話に合流した。
「これだよ、これ」
所長は右手に持っていた書類、計3つを俺たちに差し出してきた。
「一つは来期の予算案、一つは新しく配属される研究員の名簿、そしてもう一つは…」
「…結婚式場のリスト?」
なぜこんなものが?
「いや、リズベットが君たち2人にはそろそろ必要だろうからと渡すように頼まれてね」
「…ああ、リズさんの仕業ですか…」
ふう、と俺はため息をこぼす。なんかやってくることが親戚のおばちゃんみたいなんだよな。おせっかいが過ぎるというか、なんというか。
「ねえ、あなた。私はここがよいと思うのだけどどうかしら?」
「っておい、乗り気かよ、才華」
「冗談だ。まだ体だけの関係じゃないか。結婚はまだ先だ」
「職場でそういう話を持ち出すな、冷や汗が出る」
「はっはっはっ、お盛んなことで何よりだ、うちは産休、育休は完備してるから、安心してことに励むといい」
「所長まで…」
なんというか、俺の周りには性にオープンな人が多い。
まあ、良いか。
「それで、要件はこれだけですか?」
才華が所長に聞く。
「ああ、あと今夜、街の方でクリスマスツリーの点灯式が行われるらしい。リズベットがそっちのほうに顔を出すみたいなんだが、よかったら君らも行くといい」
「分かりました。時間が合えば、行きますね」
「ではでは」
そう言い残して所長は部屋を出て行った。
「じゃあ、点灯式に3人で行けるようにさっさと仕事終わらせましょうか」
「おい、お腹をさすりながら、3人とか言うなよ。冗談に聞こえない」
「冗談じゃないと言ったら?」
「俺の人生をかけて、2人を守ると誓う」
「そういうところは好きよ、まあ、、今回は冗談だけど」
今日はよく冗談を言う日だ。
「さ、研究に戻りましょ」
彼女はそういうと自分の席へと向かっていった。
その顔は鋭い研究者の顔に戻っていた。
そういったギャップは彼女の魅力の一つだと思っている。
そんな朝の一幕だ。