第1話:いつもの朝
始まりはいつも突然だった。
でも、突然も繰り返されれば日常となる。日々の中で続く生と死の輪廻。自分がその流れに対して何ができるだろうか。
多くの者がその潮流に飲み込まれていく中で、俺は何を残すことが出来るだろうか。
-----------
これは1人の薬学研究者の物語である。
いずれ彼はその名を世界に轟かすかもしれない。轟かさないかもしれない。いつだって研究はそうだ。運と実力、その両方が求められる世界だ。
分からないから、挑む。分からないから、やりがいがある。分からないから、研究だ。
一寸先は闇。ゆっくり少しずつ自分の足元を照らしていく作業の繰り返し。いつ答えにたどり着けるかなんて誰にも分からない。もしかしたら、進んできた道のほんのすぐ右隣りに答えが落ちていたかもしれない。
後悔と苦しみと喜びの世界。他の世界とはかけ離れた世界。
今、彼はその世界の真ん中にいる。
-----------
朝の陽ざしが眩しい。カーテンを突き抜けるそれは俺の眠りをゆっくりと覚ましてくれる。
「もう、朝か…」
昨日は必要な論文を探してるところまでは覚えてる。どうやらそのまま寝落ちしてしまったみたいだな…
「シャワー浴びないと…」
今日も研究室で実験の予定だ。同僚に臭いなどとは思われてはいけない。眠い目をこすりながら、俺は服を脱ぎながら風呂場に向かう。
「…ふん、ふん、ふーん…」
風呂場に近づくと、ザーッとシャワーの流れる音とともに聞き覚えのある声で鼻歌が聞こえてくる。
「先客がいたか…」
彼女が俺の部屋でシャワーを浴びるのにはもう慣れた。うっかり扉を開けて、怒られることも経験済みだ。一旦、シャワーは諦めてコーヒーでも飲もうか。
そう思い、風呂場から離れようとした時だ。
「時政《ときまさ》か?」
少しくぐもった声がシャワー室から聞こえてくる。
「ああ、俺以外がここにいたら異常事態だろ」
「確かにそうだな、もしお前以外だったら私は数分後にはあられもない姿になっていることだろうな」
「俺だとそうはならないという証拠でもあるのか?」
「もしお前がそんな度胸のあるやつなら私は今頃、二児の母だ」
「ごもっとも」
「ところで時政、タオルを取ってくれないか。持ってくるのを忘れてしまった」
「了解だ」
俺はタンスからタオルを取りだし、彼女の元へと運んで行った。
「ほらよ」
ドア越しにタオルを手渡す。擦りガラスでよく見えないが、美しい人間がそこにいることだけは伝わってくる。
「ありがとう」
簡素な返事で彼女との会話は途切れてしまう。用事は済んだので、その場から出ようとしたところ、また声をかけられた。
「時政、今日の朝ごはんはなんだ」
「フレンチトーストだ。はちみつをたっぷりかけたやつだ」
「それはまたおいしそうだな」
「ラボには何時頃に行く?」
「10時前には着く予定にしたい」
「分かった。そのつもりで動く」
彼女との信頼関係は重要だ。こういった日々の会話から少しずつ積み上げていく。
「では、服を着るから出て行ってくれ」
「了解だ」
横暴のように思える会話も特にもう気にしてない。彼女は単に気を遣うつもりがないだけなのだとここ数年一緒にいて分かった。日常生活に気を遣うくらいなら、その労力は研究に向ける。それが彼女のスタイルだ。
また一日が始まる。
昨日とほとんど変わらない日が始まる。
ほんの少し、昨日よりも進んだ今日を望んで。