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お邪魔さんは死席へどうぞ

小説

「お褒めの中身」  長根兆半


「わぁ、綺麗な着物、私も欲しい」

「早くいい人見つけなさい」

今日は思い出のハンガリーのマチャーシュ教会で、山田悠子と八条健治の結婚式に招かれた友達同士が、そんな事を、花嫁の悠子の前で言って、はしゃいでいる。

年頃の女性ならば、自分に似合うかどうかより、まず一度は着てみたいと思うのも、女心なら、たとえ元朝参りと成人式だけであっても、着せてみたいといのが、これは親心だろう。

悠子は、親に真っ白なウエディング・ドレスでと言い張ったが、場所を指定した以上、親の言う着物にしなさい、の一言で金襴緞子の花嫁衣裳になったのだった。

「振袖も着納めよ」とか悠子は言いながら、はにかんだが、幾分顔を引きつらせ、横に立っている健治の顔を、目の端で伺う。

というのも、友達が言う着物が綺麗は、決して自分を褒めた事にはなっていないからだった。

うがった聞き方をすれば、着物が綺麗、つまり、体によく似合っている、という事は、短足胴長・・・・・・ということにもなりかねない。

悠子は目の前の友達が、洋服で、いかにも足は長く、胸を誇張するような服装が、嫌味にさえなって来る気がした。

それでも、ま、駆けつけてくれただけでも、良しとしよう、などと胸の内では思っている。

健治は、着せ替え人形のように、仙台平の羽織袴、相変わらず何を考えているのか分らない笑顔で、

「本当にそうしてくださいよ」と小さな声で、作り笑いを浮かべて言った。

何しろ、健治にとって、悠子は手ごわい相手だった。

男を弄ぶと言うのか、ズラしているのか、こっちがその気になっているのに、その素振りさえうかがう事が出来ない事が、度々あったのだ。

突っ込み悠子、と言えば多少の物知り屋が、知ったかぶりに言っても、たちまち相手は根を上げ、仕舞いには、キレ果て、悠子への悪口雑言に変わるのが常だった。

が、悠子はそうした相手を軽蔑の目で見ていた。

今も、悠子は、着物を褒められたのか、自分が褒められたのか、内心突っ込みを入れていたのである。

着物を褒められたにしても、これは自分が選んだものではなく、母が良かれと選んだ物だ。

そう思っているせいか、そっと母に視線を移すと、かなり悦に入っている感じに見える。

仮に自分を褒めたにしても、着物を褒める事で、どうして自分を褒めた事になるのか、そう言えば、何時だったか、目の前にいる節子の靴を褒めた時、えらく喜んでいたが、褒めたこっちが恥ずかしくさえなった事があった。と悠子は思い出す。

最も、節子が選んだのなら、きっと何も感じなかっただろうが、彼が選んで買ってくれたの。という事を聞いて、ああ、やっぱりと思ったものだった。

こっちは、節子や彼ではなく、靴を褒めだけだったが、何となく引っ込みが付かなくなった。

仕方なく、いいセンスしてるジャン、と言ったのだったが、節子にとっては、靴もさることながら、彼を褒められた気になったらしく、いかにも嬉しそうだった。

最も買ってもらったとは言っていたが、、選んだのは彼でも、買ったのは自分だったらしい。

どっちにしても、そんな単純さを、悠子は羨ましくもあった。

式は、もったいぶって始まった割には、あっけないほど簡単に終わってしまい、隣にあるフェルトン・ホテルの披露宴会場に移った。

健治と悠子は、お色直しをし、二尾の特大伊勢海老が向き合ってデコレーションされているテーブルについた。

内輪だけの披露宴とあって、新郎新婦の両親と仲人、それに双方からは、各十五人と決めての披露宴に、いかにも紳士然とした男が入って来た。

最初に気付いたのは、新郎の健治だった。

呼んだ覚えがない営業の蔵元だ。どうして・・・。

そう思って、横の悠子を見ると、悠子が小さく手を振っている。

何だ、こいつら・・・。健治は、むっとした。

営業といっても、既に彼は会社を辞め、ハンガリーで独立し、会社の下請けのようなことをやっていると、健治は聞いている。

健治がそう思って眉間に針のような縦皺を寄せた。それを節子が見て、蔵元と悠子は、まさか今だに、と思うと顔色を変えた。

そもそも、この二人は、いや、三人は、元三角関係だった。

当然この話は健治の耳にも入っていた。

節子と蔵元が付き合っているところに、悠子が割って入ったという形なのだが、しばらく、節子は悠子の存在に気が付かなかった。

女の意地なのか、案外金にセコイ蔵元に、愛想を尽かした節子だったが、悠子がちらつきだすと、蔵元を引き付けたくなっていった。そこへ来て、悠子も意地になってしまった。

そうした関係が日本で起き、蔵元がハンガリーへ転勤と決ると、悠子も節子も、手の平から何かこぼれ落としたような気持ちになり、上げた拳を何処へ持っていけばいいか迷いもした。

蔵元はとにかく、飲む食う仕事が出来る、人当たりがいい、女性に対し、セクシャル・ハラスメントぎりぎりの褒め方をする。何かにつけて話題の多い男だ。


「お、なかなかキレイだね、さわやかなヘヤースタイル」

「クラさん、それってセクシャル・ハラスメントじゃないかなぁ?」

「どうして、キレイな事をキレイと言って何が悪いんだ。良い物はいい、嫌な物は嫌だ、はっきりして、一番人間的じゃないのか」

「だって以前はそうじゃないって、聞こえるじゃないですか」

「何言ってるんだい、ヒガミだよ、お・ん・な、のヒガミ。彼女の意思を尊重しているから言うんじゃないか」

「どんな風に尊重した事になるんですか」

「いいかケン、彼女は、なぜヘヤースタイルを変えたんだ、考えても見ろよ、気分を変えたいからじゃないのか? 俺はそう思うから、それを認めただけじゃないか」

「しかし、最近はうるさいですよ」

「確かに話には聞くがな。セクシャル・ハラスメントかどうかなんて、女性の主観で決めてるだけじゃないか、課長のネクタイ素敵ですね、と女性が言っても、何処の課長が気にする、有難う、といえば済む事じゃないか」

「場合によっては、逆セクシャル・ハラスメントとも取れるんですよ」

「あのさ、ケンね、例え女社長から言われたにしても、せいぜいニヤツクぐらいで、いちいち目くじら立てるか? 本当にそう思って言ってるのかどう知らないが、同性が褒めたらどうなんだい、ホモ・セクシャル・ハラスメントだとかレズ・セクシャル・ハラスメントとでも言って騒ぐのか。そんな事言ってたら、世の中ギクシャクするだけじゃないか、そうは思わないかな」

こんな会話を健治に蔵元が、声高に言ったもんだから、聞いていた周りの女性達は、内心やっぱり見られることは嬉しく、気分も晴れる。と思っている。ただ、それを口に出せない。

「大きい声じゃ言えないけど、クラさん。お局さま、小さなピアスしてるんだけど、いつも違うんですよ。それで、いい趣味ですね、って言ったら、何がって聞かれ、ピアス、って言ったら、余計なお世話よ。だって」

「ああいう女に限って、ベタゴン化粧で男買いに行くんだよ。歯の浮くような事言われ、まるで自分が褒められたようになって、家に帰れば溜息ついてるんだ。詰まらん馬鹿さ」

「結局、誰も相手にしてないですものね」

蔵元は、スカッとズケズケものを言う、スカズケ蔵元だった。

そこへ行くと健治は、優柔不断なところがあり、よく言えば慎重派、下手をすると、何を考えているのか理解しにくい、というタイプにしか見えない。

当然蔵元に比べると、健治は女性にはモテない。

たまに会議に臨んでも、自分から何かを言うこともなければ、聞かれても、唸って難しいですね。と言うだけだった。

それでいて、営業の連中が持ってきた話は、キレイにまとめてしまうという特技が有って、何とか会社に居続けている。

何といっても彼は、普通英語だ中国語だフランス語だといってる最中に、ハンガリー語を取得していた事で、蔵元が独立した後釜のような形で、ハンガリーに赴任する事になった。

三か月後に出発すと言う頃、健治は、思いつめた風に悠子に、話が有ると言って、

「たぶん最低三年だと思うけど、年に二度は帰国するようにするから、待っててくれないか」と震えながら悠子に告白したのだった。

悠子は、蔵元が居なくなり、節子との確執に疲れてはいたが、妙に母性本能がくすぐられ、分ったと言ってしまっていた。

その時から悠子と健治は急速に仲が深まり、悠子にとって、健治の傍に居ると、呼吸が楽な事が分り、その感覚に酔った。

健治にとって悠子は、カカア天下で舵取りが上手い、いい女房という事になった。

五月にハンガリーへ行った健治は、その年の暮れ、帰国すると、悠子にプロポーズをした。

健治二十七歳、悠子二十五歳だった。

話は何の障りもなくトントン拍子に進み、待ってて欲しいと言ってから一年後、ハンガリーでジューン・ブライドとなっての今日だった。

「悠子、昔をキレイにしているんでしょうね」と母が心配するのだったが、それは蔵元との事、と分って、当然何もない。と言い切った。

一時はナイフを突き付け合っていた節子とも、喧嘩や嫉妬の理由がなくなると、元の友達に戻せていた。

十五人の内、ほとんどが親戚なのだが、節子と、可愛がった後輩の美津江を招待したのだった。節子にとって、美津江は付け人のような存在だった。

健治の方も似たような内容だったが、四分六で親戚が多いながらも、矢張り悠子よりは会社関係が多い。

その中に出雲妙子が入っていた。

「もう逢えないかもしれない」と健治が妙子に言ったのは、四月の桜の花が満開の頃のホテルの一室でだった。

「どうして?」と妙子は言って、帰国するの、と聞いた。

「いや、結婚するから」と健治は正直に言った。

「おめでとう、何処で、どんな?」

「ハンガリーで、日本式の事をしたいんです。というか、しなければいけなくなってるんですよ」

「なんだかよく分らないわね」

「彼女の両親が、どうしても日本式でって事なんですよ」

「どこで?」

「マチャーシュ教会でなんですけど、式は着物でも神父さんに頼めばいいですけど、披露宴の事が気になっているんです。だって、ここじゃ、魚とかの日本料理って難しいじゃないですか」

「ああ、そういうことね、いい人知ってるから、相談してみれば」

と言う妙子の紹介で、健治は牡鹿翔太と会った。

「それでしたら、まずホテルに行って、事情を話し、ホテルから私に連絡をするようにしてください」と翔太はその手順を教えた。

なるほど、そうすれば一応、出雲妙子、自分、牡鹿翔太というセンは消え、単にホテルが牡鹿翔太を雇ったという形になる。

と、健治は思い、なんかの拍子に悠子から、牡鹿翔太の事を聞かれても、出雲妙子を省き、板前と客として知ってるだけだと言ういい訳で通せる。

そんな経緯を思い出しながら、健治は蔵元を眼で追っている。

蔵元は、卒のない身のこなしで、会場の誰彼に挨拶して回っている。

その時、板前の牡鹿翔太が、会場を覗きにやってきて、ハンガリーで揃えるのが難しかった鯛のお頭付きの人気を確かめ、伊勢海老に驚いている新郎新婦の両親を見ると、自分が指揮した会場に満足し、すぐ消えた。

彼は、三か月間のロンドン出張を終え、今はフリーになり、今日はホテルからの要請で、助っ人で来ていた。

入れ替わるように、妙子が大きな花束をかかえ、真っ直ぐ、新郎新婦の前に進み出た。

一瞬健治は、引きつったような顔をしたが、妙子は、いかにもただの知り合いという態度だったので、健治は安心したが、心持、妙子が薄笑いをした気がした。

「綺麗な人ね、どんな知り合いなの?」と悠子が小声で健治に聞いた。

それもそうだった。なにしろ、名前のリストアップで説明はしてあったが、悠子にとって彼女を見るのが初めてなのだから。

薄いピンク色のキャミソールに支えられている大きな胸、レースが施された薄手の白いブラウス、鶯色のツーピースのスカートは膝上五センチ、そこからのぞくカモシカのような足。

粋に着こなしている均整の取れたスタイル。矢張りプロには叶わない。

日本人離れした胸が物を言っているものだから、会場で、花嫁さえ霞むほどのどよめきが上がったとしても、おかしくなかった。

「ん、初めての頃、皆で道案内を頼んだのが、この人だよ」と健治は言った。

「道案内だけ?」

「そっちこそ、なんだい、あの蔵元、俺、呼んでないんだぜ」

「そうなの? 私だって知らないわよ」と悠子も言って、健治が呼んだとすれば、嫌味だと思っていたが、何でしゃしゃり出てきたのかしら、と不安が走った。

二人がそんな事を言っている間に、蔵元の姿が会場から消えていた。

悠子がそう思っている目の前で、彼女の母親が、父に何かささやくと、会場から出て行くのが見えた。

悠子は、たぶんトイレにでも行ったのだろうと思うと、何となく自分も行きたくなって、健治に耳打ちすると、そこから離れた。

悠子が女子トイレに入ろうとした時、ひょいと右のレセプションの端にある、大きなゴムの木の植木の陰に人影が見えた。

トイレに入る振りをして、そこを盗み見ると、母親と蔵元が何か話をしているのだった。

様子が少しおかしい。

どうも母が蔵元に頭を下げている様子から見て、母の分が悪そうな雰囲気なので、悠子は気になった。

蔵元が勝ち誇ったようにその場を去ったので、悠子は、母に近づき、どうしたのかと聞いた。

「悠子、あの人とは別れたんじゃなかったの?」

「綺麗に別れたわよ、何、今更」

「ならいいけど、お嬢さん幸せになるといいですねって、なんか厭味っぽくいうのよ。で、昔は昔、もう関係ないんじゃないですかって言うと、一応そう言う事にはなっていますが、頂き物へのお返しがまだなもんですから。って言うのよ。何あげたの悠子」

「厭な奴。あれだけキチンと納得して別れたのに、お返しなんて、知らないけど、いらないわよ、いいわ、もう一度、はっきり言うわ、私」とは言った悠子だったが、思い当たる事はあった。

「お金かなんか、貸してあるの?」

「お金は勿論、返してもらうほどの事なんか、何もないわよ」

「兎に角これからなんだから、過去はキッチリと綺麗にして置かないと駄目よ」

「当たり前じゃないそんな事。安心して、ゴメンねお母さん。心配掛けちゃって」

ならいいけど、と言って母親は会場に戻った。

が、悠子はどうにも納得がいかない。一体何を言いたいのか、あの男。

悠子は、母の後姿を見送って、多少疲れたかなと、近くのソファーに掛けると、そこに、出雲妙子が通りかかった。

「あら、どうしたの悠子さん。こんなところで一人、花嫁が何か湿っぽい感じね」

「あ、ゴメンナサイ、健治が昔お世話になったとか、聞いています」

「ええ、一寸ね・・・・・・」

悠子は、同性ならばと、心がほぐれてしまったのか、かいつまんで話した。

蔵元と付き合っていた頃、何かで喧嘩をし、その腹いせに浮気をしたとき、淋病を貰ってしまい、それを蔵元にプレゼントした事があった。

妙子は、話を聞き、分ったわ、というなり、その場を去ってしまった。


会場は、かなり盛り上がっている。蔵元も、カクテルを手に、会場の隅に立っていた。

「日本式を、ハンガリーでなんて、なかなかないわね」と妙子が蔵元に話しかけた。

「はぁ」と驚いて蔵元が妙子を見つめた。

妙子が、何かなまめかしく蔵元を見つめると、彼は相好を崩した。

「この後、ご予定は?」と妙子が迫るように言う。

「はあ? いや、特には・・・・・・」と蔵元は妙子を上から下までなめるように見る。

「熱気に当ってしまったかしら、外の空気が欲しいわ」と妙子が誘う。

「私も、そう思っていたところです」と蔵元が乗ってきた。

妙子と蔵元が会場から出ようとすると、廊下で牡鹿翔太とすれ違った。

妙子が翔太に視線を向け、軽いウインクをしたのだが、蔵元は気が付かない。

翔太がレストラン摩周湖にいた頃、蔵元は会社の連中とたまに来ていたが、いつも座敷に入り、カウンターの翔太とは面識がなかった。

妙子と翔太は以前からの知り合いなのだが、知らぬ他人の顔ですれ違った。

すれ違いざまに、妙子が、漁夫の砦。と言ったのを、翔太はしっかりと耳にした。

妙子がこうした形をとる時の目的を、翔太は知っている。

ホテルは教会と並んであり、その後ろに漁夫の砦がある。

白衣の翔太は厨房に入ると白衣を脱ぎ、Yシャツにネクタイ姿で、妙子を追った。

途中、結婚披露宴の会場を横目に、何か用事でもあるような格好で、通り過ぎていった。

「牡鹿さん。牡鹿翔太さんじゃないですか」と後ろから声を掛けられ、翔太が振り向くと、そこに八条健治が立っていた。

「え、あ、八条さん、今日はおめでとうございます」と翔太は彼に挨拶をする。

「いやぁ、ここで伊勢海老や鯛の尾頭付き、感激です。有難うございました」

「皆さんに喜んでいただけるのが、私の喜びですよ」

「良かったら、来てください。皆に紹介したいですから」

「いやいや、板前がお客様の前にしゃしゃり出るなんて、とんでもないです」

「そんな事ないです。是非」と健治は誘うが、翔太は、じゃ後で、と言って辞退した。

翔太がホテルを出て、建物の角までいくと、漁夫の砦のバルコニーに立って、ペストの町を眺めているのだろう、妙子と蔵元の後姿が見えた。

二人は、漁夫の砦のバルコニーを、左の円錐塔に向かって、ゆっくりと移動している。

ハンガリーの首都、ブダペストと言う街は、ブダとペストの二つの街からなり、ドナウ川を挟み、向こうがペストで、教会のあるこちら側がブダとなっている。

マチャーシュ教会の裏手にある漁夫の砦は、ネオ・ロマネスクとネオ・ゴシック様式が混合したデザインで六番目の一番高い円錐塔が中央に立っている。

その昔、魚市場と漁業組合あり、彼らがここを守っていた事から付いた名前だった。

ブダ側のこの砦に立って、ペストの街を眺めると、足元からいきなり低い雑木林の急な奈落の崖が、ドナウの河に屏風を突き立てたように落ちている。

なるほど砦と言うくらいで、とてもじゃないが、這い登る事は出来そうもない崖だった。

砦の上で、妙子は何か蔵元に話しをしている様子だった。

蔵元は、頷きながら、時折ペストの街を、腕を上げて指差していた。

左端の円錐塔に入ると、何人か居た金髪の観光客が、日本人との違和感を感じたのか、出て行った。ここでも、妙子が街の説明でもしているのだろう。

二人は、およそヘソ辺りまで高い石灰石の、窓のない窓枠から身を乗り出すようにしてペストの街を眺めている。

妙子は、どこかあらぬ方向を指差すと、その先を蔵元の顔が追う。

妙子は、何かの拍子に後ろを見、翔太がこっちへ向かっている事を確認した。

翔太が二人の後ろに差し掛かる頃、妙子が、

「鎖橋の、こっちの袂、すぐここの下に、キリストの像があるのよ、見えるかしら・・・・・・」

と、妙子は蔵元が窓枠に乗り出すように誘い、自分も乗り出した。

その瞬間、後ろに来ていた翔太が、蔵元の足首を後ろに払った。

蔵元はつんのめるように、窓枠から奈落の崖に落ちていった。

蔵元が落ちると、その後に牡鹿翔太が立った。

蔵元と翔太が入れ替わったのは、一瞬の事だった。

例え誰かが見ていたとしても、歩いていた翔太が消えたような錯覚に陥ったとしか言いようが無い手品のように、起こったのだった。


後に、この転落事故の目撃者を、ハンガリー警察が探しても、観光客ばかりで、牡鹿翔太と出雲妙子以外、誰も名乗り出てきた人はいなかった。

さすがに国際観光地、発見された時は、皆帰国した後だったのである。

Yシャツの翔太と鶯色のツーピースを着た妙子は、世間話でもしているような距離で歩き、そのままホテルに、前後して入っていった。

翔太はホテルのマネージャーから今日の助っ人分を受け取ると、ホテルから消えた。

妙子は、何食わぬ顔で、披露宴会場に顔を出し、悠子に、しっかりと幸せになるんだよ、と励まし、健治に軽く手を振って、会場の出口に向った。

妙子にとっても、金襴緞子は自分の夢見たことだっただけに、二人のその先を脅かすようなことを許せなかった。どうしても守ってやりたかった。

悠子の母親は、どこか落ち着きを失い、会場に目を配っている。

出口のあたりで、それに気が付いた妙子が、少し戻り母親に近づいていった。

「過去は消えましたから、ご心配には及びませんよ、安心していいです」と妙子が言ったが、当の母親は、何の事か分らなかった。分らなくていいのである。

悠子と健治は、皆に送られて、ハネムーンに出発していった。


健治の両親と、悠子の両親がハンガリー観光を終え帰国する頃、悠子と健治も五日間のヨーロッパ旅行から帰ってきた。

フェリヘッジ空港で、二人がそれぞれの両親を送る時、健治が買った新聞で驚いた。

「ね、これ見てくれよ」

「どうしたの、貴方」と悠子が、新妻らしく言うなり新聞を見ると、そこに、漁夫の砦で転落事故があった事が載っていた。

記事を読んだ健治は、死亡推定時刻が百時間以上とあるからには、少なくとも五六日以上、つまり、自分達の結婚式の時だと気が付くと、青くなった。

しかも誰も招待しなかった蔵元であるだけ、悠子の母親も震えた。

「悠子、知ってたの、あの時ね、出雲さんが、過去は消えたからって言ったのよ」と悠子の母がそっと悠子に言った。

健治の両親と、悠子の父親にとっては、他人事でしかなかった。

「俺も見たけど、ああいう所じゃ、こんな事故が起きても不思議じゃないよ。もう少し安全対策を考えなくちゃいけない。いくら観光地だからと言っても」などと、悠子の父親が言う。

まったくだ、と健治の両親も同調している。

悠子と健治は空港から帰ると、なにを聞かれても、何も知らないで通すことにした。

健治のハンガリー滞在は残すところ、あと一年だった。

ハンガリー警察から、それなりに聞かれたが、二人は、さぁ、で済ました。

知人とはいえ、招待もしていない人物だっただけに、知らないと言われれば、警察も、それ以上の突っ込みは出来かね、単なる事故で終わってしまった。

ところが、現場に居たという牡鹿翔太と出雲妙子には、意外としつこく警察は質問をするのだった。

「貴方はその時、誰と居ましたか?」

「牡鹿翔太さんと居ました」

「彼とはどんな関係ですか?」

「知り合いです」

「どんな?」

「三年前に、一緒に仕事をした事が有るのです」

「どこで?」

「摩周湖、日本レストランの摩周湖でです」

「ああ、あすこで」

「あそこから、誰かが落ちたことには、気が付きませんでしたか?」

「さぁ」

「どうして、あの時、彼とあすこに居たのですか?」

「彼、三か月ばかりロンドンに行ってまして、友達の結婚会場で偶然会ったのです」

「友達って、どっちのですか?」

「健治君の方です」

「どういう?」

「彼がハンガリーに赴任して最初の頃、一年前かしら、その時道案内をと、彼の同僚達に、二三回お手伝いさせていただきました」

「普段、どんな口紅をお使いですか?」

妙子は普段、ブランド物しか使わないのだが、これです、と出したのは、この事のために買って置いた無名の安物だった。当然面前に置かれた水には、手も付けない。

指紋や唇紋を採られたくなかったからだった。

これ以上、何を聞き出せば、何が出るのか、警察は困り、というより、その手応えのなさに諦めが先に立ったようだった。

牡鹿翔太に至っては、はぁ、で・・・その先がまったく無くなっていた。

出雲妙子との関係はまったく同じで、どうして健治君を知ったかに至っては、はい、摩周湖のお客様でした。

「ホテルの方で聞けば分ることですが、あの日助っ人で仕事をし、漁夫の砦に立っている出雲妙子を見かけ、知ってるものですから知らん顔も出来なく声を掛けたのです」

それで、終わってしまった。


七月の夏真っ盛りが来て、街は若い女性の薄着が目立ち、華やいでいる。

今日は繁華街のオクトゴンから英雄広場まで、歩行者天国の日曜日、パイプ椅子があちこちに置かれ、好き勝手に座って人々は和んでいる。

厳しい冬からの開放と太陽を全身に受け、様々なイベントもやっている。

「やっぱり聞かれたわ、口紅の事」と妙子は翔太に言った。

「大使館経由なんだけど、奴のYシャツに口紅が付いていたらしいよ」

「ああ、あの時ね、きっと」と妙子には、思い当たるフシがあり、用心した事を安心した。

「でもさ、よく発見されたよな」

「誰か言ってたわよ、週に一度、崖を点検してるんですって」

「ところでさ、今日呼んだのは、他でもない、その事なんだが」と翔太が言うと、

「その事って、口紅?」と妙子は不安な顔で聞いた。

「いや、そんな事どうでもいいけど、あの、悠子って人から百万円よこされたんだよ」

「なにそれ、どうしてよ」

「妙さん・・・あんた何言った?」

「なにって・・・?」

「俺達がやったことを、どうして彼らが分ったか、ということさ」

「分ったからって、どうして・・・」

「俺たちにユスられるとでも思ったんじゃないのかな」

「馬鹿じゃないの、蔵元と一緒にしないでよ。人の親切、ナンだと思ってんのよ」

「ん、言ってやったさ、そんな事しなくていいから、二人の未来をしっかり築きなってさ」

「随分と又、カッコウ付けたじゃないの、それで、返したの?」

「いや、貰っといたよ」

二人はゲラゲラ笑ってしまった。

「何で又、あいつをやりたくなったんだい?」

「悠子さんから聞いたことも有ったけど、ずっと前、あの男、値切ったのよ、それだけじゃない、払いが悪いし、仕舞いには踏み倒そうとする、もう根負けしちゃって、とうとう只にしろ、なんていいだして、いつか痛い目にあわせようと思っていたのよ。それとね、あの健治って子、なかなかいい子よ。終わって、有難う、って言ってくれるし、言った以上に払ってくれたり、ああ言うのって、ああ、お・と・こ、って感じしちゃうわよ。牡鹿さんはどんな感じかしら」

「おいおい、俺に話し振るなよ。そうか、ナンて野郎だ」

「でも、男って可愛いわよね」

「なんだい、いきなり」

「知ってる? どうして女は化粧するか」

「最近じゃ、男だってしてるじゃないか」

「それと少し違うのよ、女って」

「どんな風にだ?」

「男が化粧するって言っても、営業とかの人でしょ。単に、印象を良くしたいってだけじゃない。ちがう?」

「どうなんだろな、俺には分らんね」

「まぁ、いいけど、女性の場合は違うの、何て言ったらいいかしら、そうね、セックスの下手な分化粧するって言えば分りやすいかな」

「上手い下手なんて、あるのかねぇ」

「ないけど、有るのよ、んん、演技力かな」

「なんだい、その、演技力って?」

「大体ね、男って、自分が感じるほど女も感じてると思っているところが可愛いわけね。男が射精するほど感じていても、女は、本と言うと、何も感じてないわけ、臍の下あたりが突き上げられるってだけよ。それに合わせて、ハ、ハ、とか言うだけ。無視すれば出来るのよ」

「じゃ、何かい、男はその演技が欲しくて買うのかい?」

「どうだか知らないけど、こっちは都合がいいわけ、言い値だったりする事もあるしね」

翔太は、どうも女性は分らないと呆れてしまった。そんな翔太をからかいでもするように、妙子は饒舌になっていく。

「第一、女性はなぜ化粧をするか、それはね、女を出したいからよ。他の動物見てよ、メスなんか、見かけはかなりダサイじゃない。どうして人間のメスはキンキラキンになりたいわけ、ここハンガリーなんか、何処へ行っても女性用の服と下着が満載じゃない。気が付いてた?」

翔太は、やれやれ、又動物の話が始まったと、いつかの進化論を思い出していた。

あの時などは、まるで生物学者や考古学者に挑戦でもする勢いがあって、どうにも太刀打ちできなかった。

ああ、今日もか、と翔太は妙子の声は、耳を通過させるだけ、にした。

「そもそもね、犬や猫のオスとメス、つまり動物、畜生ね。どっちが先に発情するかといえば、メスなのよ。メスが発情してオスが応える、これが基本パターンなわけ、発情しないメスに挑めば咬み付かれるの、したくないって。ところが人間はまるでオスがまず、発情しているように見えるじゃない。あれ錯覚だと思うわ。どこか近くに発情した女というメスがいて、それに反応していると思うのよ。男というオスは、その女に気が付かないだけでね。最も分ったからといって挑めるわけじゃないけどさ。夫婦とか同意カップルなら別だけど。だから一人の男の身の周りに、生理日の違う二十八人の女性が居れば、その男は毎日発情するわけよ」

「何で二十八人なわけ?」

「二十八日に一回女は発情フェロモンを出すからよ」

「一回って、どの位長いの?」

「三日から十日くらいじゃないの。この間にナマでやると、かなり妊娠しやすいの」

「じゃ二十八人も要らないじゃないか、十人も居たら沢山だよ。で、それと化粧と、どんな関係が有るんだい?」

「ふふ、発情している時は黙っていても男が寄って来るからいいけど、発情していない時も男を繋いでいたいわけよ女は、それで・・・・・・」

「それで化粧して繋ぎ止めると言う訳かい?」

「まあ、そんなところよ。だってね、発情すると、筋肉マンのゴリゴリした逞しそうな男に目が行くけど、そうじゃない時は、こう、何と言うか、優しそうな男が欲しくなるんだもの」

「随分と勝手だな。男の方がよっぽど演技力がないとやっていけないよ」

「そうよ、逞しくゴリゴリでも、優しい顔で、アイ・ラヴ・ユーなんていってくれる人が最高よ」

「かぁー、やってらんないよ。とは言ってもさ、あの、ぽってりとした少し厚みのある赤い唇、あれにはつい俺もうっとりしてしまう。あれ、下と連想してやってるのかな」

「当たり前じゃない」

あっさりと言われた翔太、顔がのっぺりしてしまい、徐々に笑いがこみ上げ来た。

オクトゴンの歩行者天国も、かなりの人で盛り上がりだした。

二人は、そろそろパブにでも行こうかといって、パイプ椅子から立ちあがった。


その後、蔵元の転落事故はついに、事故で終わってしまっていた。

悠子が、その事で日本の母に電話した。

「ね、お母さん、やっぱり事故だったみたいよ」

(そう、じゃ何もお礼なんかすることなかったんじゃないの?)

「そうは言っても、お母さんは日本に居るからいいけど、同じ街に住んでるこっちの身にもなってよ。いつどんな事言われるか分かったもんじゃないわよ、だから、いいのよ」

(健治さんは、何か言ってる?)

「別にないけど、その後顔も見かけないそうだから」

(どこかで仕事をしている人だったの?)

「以前は摩周湖って店でやってて、その後は、まったくの風来坊なんだって」

(どうやって渡したの?)

「健治が知ってたから、電話番号、それで」

(とにかく関わらない方がいいわよ)

「向こうが嫌がってるようだから、大丈夫よ」

悠子が電話を切ると、居間でウイスキーを飲んでいた健治の傍へ行き、牡鹿翔太の話題になった。

「彼、そんなセコイ板前じゃないよ」

「そうなんだ、でも、これで清々したわ。ね、貴方、節子と美津江いつ帰るのかしら?」

「ん、なんでも二人でホテルとって、遊びまくってるようだよ、たまに会社に顔を出したりすると、結構皆で飲みにも行ってるらしい」

「いいわね、女が二十歳過ぎると、たった二三歳の差が大きいから変よね」

「いくつなんだい、彼女ら」

「節子は一つ下で、美津江は、確かまだ二十歳前のはずよ、入社したばかりだから」


その二人が今夜はハンガリーのアイリッシュ・パブに、二人の男性社員を誘っていた。

二十歳代前半の日本人は、ハンガリーで、ハイ・ティーンである。

「ね、男同士女同士、別々に入ろうよ」と言ったのは節子だった。

「どうして?」

「日本の男に、日本の女性を再認識させるのよ」

「どうやって?」

「後で分るから、とにかく貴方達先に入って、よく見てるのよ。いい?」

男同士が先に入って行った。

店内には、生バンドが入って、軽快な民俗音楽をやっている。

「なぁ、おい、あいつ浮いた話の一つや二つはあるけど、案外モテないからこんな事やるんじゃないのか?」

「そんな事言って、気が有るのか?」

「馬鹿言え、事故った蔵元の女なんか、ゴメンだね」

「え、あいつ蔵元の女だったのか?」

「知らなかったのか、悠子と争っているうちに、蔵元がさっとこっちへ来て、ひょいと健治が悠子と、ああなった」

後輩らしい男が、フーン、と感心する。先輩らしい男が、英国のパブと違って、立ち飲みが居なく、案外紳士的なパブだと言った。節子と美津江が店に入って来ると、男二人には目もくれないであっちの方に有った四人掛けのテーブルに、向かい合って座った。もっともらしくメニューを見ていたが、まずは飲み物を注文する。飲み物が来て、二人は乾杯の仕草をし、楽しそうに何か話し出した。周りの若い外人男どもが、節子と美津江をチラチラ見ながら囁き始めた。その中の一人が、日本語で、コンバンワと声を掛けてくる。日本女性は、はァ、という顔で男を見、互いの視線を戻しあい、クスクスと、意味ありげな演技たっぷりに見詰め合って肩をすくめる。

「同席させていただいてよろしいですか」とハンガリー語で言ってきたが分らない、が分る。

「日本女性は優しく、キレイです」と男は言って、二人にはハンガリー語が分らないと判断すると、今度は英語で話し、あっさりと美津江の隣に掛けてしまった。

「どうして分るの?」と節子が英語で応じた。

「身につけているものを見れば、その人の趣味が見えます。センスの良い物を身に付けている人の心は、矢張りセンスが良い人です。それが私には大きな魅力になるのです」

「ねね、この褒め方って、いきなりビリビリッてこない?」と節子が美津江に言う。

「来る・・・・・来るわよ、何かとてつもない奥から・・・・・・」

と言ってる間に、もう一人のハンガリー男が節子の傍に座っている。

「日本女性には、カイロウイッケツという貞操があり、とても素晴らしい」

節子は、これで証明出来た、とでも思ったか、二人は向こうの日本男児にチラリ視線を送り、外人を無視するように話し出した。

「前ね、靴褒められた事があったけど、なんかイマ一、嬉しいのかなんか分らなくて、勝手にはしゃいじゃった事が有ったけど、これって、諸手で嬉しくなっちゃいそう。あ、もう、だめ」

これを見ていた向こうの日本男児、

「お、おい、何か節子おかしくなったんじゃないか? 目がヒンヒンしてる感じだよ」

「なんですか、そのヒンヒンって、馬じゃないんですから」

「その馬だ、馬が嬉しい時に見せる目だ、あれは・・・・・・」

パブからの帰りがけ、節子が、ね、カイロウ一穴って何、と聞いたが、誰も解らなかった。

一対の海老は浮気をしない、海老一穴なのだが・・・・・・。  


 ―――おわり―――


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