旅立ち前夜のこと
「手は尽くしたのじゃが…。」
そういうと、颯はガルスに外に出るよう目で促した。
ここは、ジーマの治療部屋の中だ。簡単なベッドまで、ライが彼女を慎重に抱えて横たえ、全身の血をぬぐい、傷には止血を施していた時に颯は到着したのだった。ライの処置も最善を尽くしたものだったが、全身が重たく血に塗れていた。サラナーのほうは首筋に軽い切り傷があっただけで見た目ほどの負傷ではない。その彼女は今、ジーマの横に寝かされている。
ガルスは颯のあとについて、部屋を出た。
「ジーマは…・」
部屋からは少し離れて、最初ライたちが通された応接室に行く。そこで颯は言った。
「…否。幸い、ジーマ殿も見た目ほどひどい状態ではない。あれほどの出血で、というのが妙なのじゃ。」
「だれか、他にいたのかしら。」
颯はしばらくためらった後で、
「にしても。床一面に出血が散るほど深手を受けたものがそう遠くに行けるはずもあるまい?」
颯の視線の先には、血濡れの床がある。
「妙な話ね。でもジーマは大丈夫なのね。」
ガルスはほっとして、そして颯の視線を追った。血痕の上には、ライ、ガルス、颯の足跡が入り乱れてそこここに散らばっている。
「…ほんとに妙ね。これ、だってあたしたちの足跡しかないじゃない?」
この血痕はなんなのか。そして彼女たちに何があったのか。
「目が覚めた?」
ガルスと颯が部屋を出て、その内容は気になったが二人をそのままにしていいのか迷ったライは二人の枕元に残った。程なくサラナーは目を開けた。すぐに声をかけたが、
「…。」
彼女は返事をしない。ただ、不思議そうに周りを見ている。
「ワイノス、デヴィルズヒルじゃない?」
彼女はポツリと、思わず、といった感じで口にする。
「失敗…か、それともまた、やりなおせるのかな?」
その様子、口調が余りにも普段とかけ離れていたので、ライはただ見つめるのみしかできなかった。極めつけに。
「きみ、たしか、…ライ・ゼンドーくんだったよね。」
とサラナーはライの方を向いて語りかけた。目に少しの曇りもない。だが表情は全く違った。少なくとも、ライの見知った不安げではかなそうな、そんな少女のものではない。
「な…何言ってんの?サラナー?」
ようやく口にできた質問は、我ながら間の抜けたものだった。
「サラナー。か。う~ん。話してもきっと、納得してもらえないと思うんだけどちゃんと言っとく。あのこは消えちゃった。」
ライは無言。それを見て、すまなそうにまた彼女は言う。
「ライの知ってる、サラナーは、ワイノスのデヴィルズヒルってところで回収される予定だったの。そこで、私と入れ替わるのね。といっても私は無なの。すぐに消される役目のナナシ。」
「…なに言ってるの?いつもの、あの記憶が乱れるっていっていた、あれ?」
「ううん。そんなのじゃなくて。…あの子は行ってしまったの。ごめんね。私にもこうなってしまってはどうしようもないの。」
「悪い…い、いや、ちょっと待ってて、い、いや、体は大丈夫なら、居間に行こう?」
ライは遮るように言うと、サラナーの腕を取って立ち上がらせた。その手を不思議そうに眺めて、物言いたげな目を向けたのは感じたのだが、ライは無言で少し力を込めて起立を促した。
「それ以上の説明はできないの。だって、分からなくて。」
サラナーは言う。サラナーだったものは言う。とても困っているように見える。
何を言ってるの?ちょっと、どういうこと?とガルスは詰問するがサラナーには答えようがない。なにもわからないと繰り返す。颯はその様子をじっと見ていた。
「まだきついかもしれぬが、ジーマどのにも聞いてみればよい。その子は嘘は言ってはおらぬ。」
ライもその様子をただ眺めていた。
人は無意識にその人独特の仕草をしているものだ、と剣の師は言っていた。視線の合わせ方、手の動かし方、喋り方、呼吸までも。今の彼女にはサラナーらしさがない。
「…おれ、ちょっと外に出てるよ。」
ライが言うのを、皆止めなかった。サラナーの横を無言で通り過ぎていく。
3人はライを見送ると、ジーマの枕元に向かった。
ジーマはしっかりと目覚めていた。
「治療中に、サラナーちゃん…あの、ライとガルスが連れてきた子は居なくなってしまったの。多重人格と言われる中でも、そんなに急に消滅するなんてこと初めてで、びっくりしちゃって…そうしたら、突然、サラナーちゃん、『わたしたちの役目はまだ終わっていない、余計なマネを!』って天を指さしたの。そしたらあたりが真っ暗になって、居間から誰かの悲鳴が聞こえて、見に行こうとしたら突然突風にでも煽られたみたいに椅子に叩きつけられて気を失って…気が付いたら、こうなっていたの。」
「それは私たちの中でも、統治者、と呼ばれている一番怖い人が出たのです。」
とサラナーは言う。
「私たちは普段、小部屋に居て。隣にはちょっと怖いお姉さんなサラナー、優しいサラナーが居ました。統治者は部屋を開けられます。私たちはちょっとした情報交換しかできなくて。二人のサラナーは入れ替わってよく出ていきましたけど、私は部屋の中でした。開けた時は、死ぬときなんだよ、って統治者は扉の外からいいます。いつもいつも。」
ジーマは、サラナーを見て言う。
「あなたの名前は…ないの?」
「死ぬからいらない、と。」
ジーマは彼女の手を取って、優しく撫でながら言う。
「でも、あなたは今、ここにいるわ。二人のサラナーの真ん中、…ラナでいいかしら、あなたの名前。」
「名前。もらっていいんですか?」
ガルスはそのやりとりを見て、たまらずに外に出た。ライはきっともっと、…苦しむだろう。たった二日を過ごした少女が消えて、良く似た、全くの別人が傍にいることでもこれほど苦しい。
「…なんだってンだ。みんな砂漠に持ってかれる。」
と、夜の帳のおりたジーマの庭園を、ライを見つけにさまよい出た。
「はじめまして。」
そういってぺこり、と頭を下げる金髪碧眼の少女は、ガルスの見立てで淡いクリーム色のワンピースに黄緑色の外套を着ていた。彼女の背後には高い位置に明り取りの窓があり、昼下がりとはいえまだ強い日差しが眩しい。
「ラナ、です。」
そういう彼女に、
「はじめまして、ラナ。わたしはフィーザ・ダイナス、こっちがセルゲイ・アーカムだ。」とフィーザが軽く握手を交わす。
ここはガルスのお勧めの料亭兼宿『踊る仔馬亭』の一室だった。宿の中でもかなり広い部屋を開けてもらい、颯、ガルス、ライ、そしてラナと船長、副船長がそれぞれ思い思いの位置に立ち、あるいはソファに腰かけている。
夜遅くに返ってきた颯に、事件のあらましは聞いていたが、ラナと自己紹介したサラナーは確かに、それほど面識のなかったフィーザとセルゲイも違和感を感じるくらいの変貌を遂げていた。人間は中身だ、とはよく言ったものだと思い知らされる。見知った少女の中身から、それまでの経験に裏打ちされた所作、言葉使い、表情、全てが変わってしまったのだからそれが際立つ。
(以前の彼女と比較されて過ごしていく訳か。)
そう思うと、フィーザの過去の、あの姉の存在が胸の奥に蘇る。何もかもを比較され、生きていくのはかなりつらいものだ。そんなことを考えていたからか、じっとラナを見つめていたようで、気が付くと彼女と目がばっちり合っていた。
(?)
違和感を感じる。何となくだが、一瞬サラナーの印象がそこに宿った気がしたのだ。
「ね、質問いい?前から気になっていたんだけど。」
そういって挙手してみせたのはガルスだ。
「いろんなものを流通させているのが、海運よね。ライ、とラナ、は『アシュアスで本なんか見たこと無い』って言いていたわ。そんなに希少?」
セルゲイが答えて言う。
「どうしてそんなことを?まあ確かに、このワイノスまで寄航する船はそう多くない。乱暴に言ってしまえばうち位だ。そして、本を運ぶのは縁起が悪い。」
「縁起?」
フィーザは答えて言う。
「縁起というのはちょっと生易しいな。統計的にも、ほかの品を運ぶ船に比して異常に事故が起きる。平たく言うと沈みやすい。幸い、我々の船は高名な術師の颯がいるからか、今まで無事故だ。私たちがこれだけの急成長ができたのは、本のおかげと言っていいな。」
「フィーザったらご謙遜~。でも、本って、なんなのかしらね?」
突然ガルスが言い出したことに、皆不思議そうに彼を見やった。
「アタシは砂漠を旅してたから、発掘に来る人たちとも仲良かったんだけど。ちょっと入れ替わりが激しいのよ。仕事を変えた、って説明されたけど。で、またその説明してくれた顔見知りも居なくなって、訊いてみたら稼いだから職を変えたって。で、街にきたら探すんだけど、見かけないし会わないの。」
「…我々に書物を納品しているのは、いつも同じ人物だが。」
船長が口を開いた。
「銀髪に銀眼の。もう五年の付き合いにはなるか…。うちの船がここまで大きくなったのも彼のおかげだ。」
びくっと顔を上げ、声を上げたのはライだ。
「銀髪…銀眼?」
なぜか颯も顔が強ばっている。
「心当たりがあるのか?珍しい風貌だからな。」
「あの、以前言いましたよね?王城襲撃の時に手伝ってくれた時読みの耶須理宇って。」
「ああ、そういっていたな。」
「その人も銀髪、銀眼で、」
「一致するな。」
とセルゲイが言った。
「休業期間が終われば、またその人物―我々にはメタファルクと名乗っているがーと会うことになっている。…ラナには、世話になったしな。我々も休業期間は尽力しよう。」
と船長も言う。
「じゃ、決まりね!食事にしましょうよ。ここはかなり良いもの出してくれるわよ。」
親睦をかねて、とガルスは階下の料亭に皆を誘った。
その夜更け。
ラナとライ、ガルス、颯はそれぞれ別に部屋を取って、踊る仔馬亭に休んでいた。
ここは町はずれの北側に位置しており、一行が向かおうとしているのは南の門外に広がる広大な砂漠地帯だった。砂漠にはオアシスが点在しており、またガルスが最新の地図を持っていることから道行に関しての心配は少なかったが。それでも、ライは夜更け
にふと目を覚ました。階下の料亭は仕舞っているが、宿の入口には汲み置きの水瓶があり、宿泊客はそこを使っていいとのことだった。
実際、いろいろなことがありすぎてまだ気持ちの整理がついていない。
サラナーの事を考えると、何とも言えない苦い後悔が伴う。書庫でガルスが言った言葉が耳に蘇る『失って初めてその価値が分かる』と。
インの元から立ち去る際に彼女が言ってくれたこと。
それから、彼女と過ごしたジェプトでの日々…そう、日々と言える期間は一緒にいたのに、今思うとやるせなかった。あの時見せてくれた気遣いに、もっと素直に感謝すべきだった、もっと、なにか、彼女の力になれなかっただろうか。
「…頭、もっと冷やしてくるか…」
気づくと水差しも持たぬままで水甕の前に来ていた。部屋に戻って外套を着て、庭でも散歩しようと思った。階段を戻りながらふと思いつく。
「そうだ、颯さんも、知ってるのかな、同じ呪術師だし。」
どうも寝付けないようだ、とライは記憶のあった颯の部屋、の前まで来て、扉をたたいた。なかなか返事がない。
(寝てるか…。)
そう思い、引き返そうとしたところ、キ、とドアが開いた。
「あ。」
ライは思わず固まってしまった。ラナが立っていた。
「眠れないの?…中、入る?」
ラナはすっと下がって、ドアの中に誘う。
「あ、あの、ごめん。颯さんのところに行くつもりが間違えちゃって。」
正直言って、一番会いたくない相手だった。どういう態度で接していいか分からない。
「…そう、だね。ごめんね。…おやすみなさい。」
ラナはまた一歩下がって、俯く。全くその表情は見えなくなった。だが肩が少し震えている。思わずライは一歩踏み出してしまった。彼女が下がった分を詰めるように、無意識に。
「やっぱり少し、話していい?」
「…う、ん。」
ラナの声が震えていたので、それでかえってライは彼女に近寄り腕を取ってしまった。
「話、しよう。だってほら、あったばかりだし。」
もっと気の利いたことが言えれば良いのだけれど、とライは思う。でも繕ったり、遠慮したら、…また気づいたら手遅れになるのかも知れない。
「おれはさ、うまく言えないけど…後悔はもうしたくないんだ。」
手を引き寄せながら、独り言のように語りかける。
「せっかく会ったんだし。明日からは砂漠へ行く旅が始まる。ちゃんとお互いのこと信頼できたほうが、きっといいよ。」
ふっと、彼女の手に力がこもる。抵抗された。
「どうして」
かすかな、ききとれないくらいの声でそう呟く。
「どうしてそんな…みんな優しいの?」
その声はもはやはっきりと泣き声だった。
「だってあたしはサラナーじゃなくて。サラナーはいい子だったでしょう?だってあたしは何かのために死ぬことになっていて、そのためだけのやつで、名前もなくてほんとうは。」
気が付くと、ライは彼女を抱きとめていた。突然の抱擁に、少し声を荒げていた彼女が押し黙る。
「そんなこと、考えなくっていいよ。」
ライは優しく、いたわるように言った。
「今、心配しているのは、ラナのことだよ。ここにいる、ラナのことだよ。」
できるだけ優しく言った。
彼女は身を預けて、静かに涙を流していたが、しばらくして小さな声でありがとうと言って、とん、と手をついて離れた。
「明日、準備の買い出しだったよね、今日はもう遅いから寝よう?」
少し距離を置いても、彼女の頬は薄く赤みがさしていて、とても綺麗に見えて。サラナーの面影が重なり、ライは今夜は眠れないだろうな、と思った。
「なにあくびしてるのよ、この色男!」
とガルスに格別に重い干し肉などの加工食品の束を持たされ、ライは派手によろめいた。
「ちょっと、こんなに持てる訳ないだろ!」
と思わず言うと。
「昨日は何をしてたのかな~?さっきからぼんやりしちゃって、二人とも。」
ラナは少し離れて歩いていたので聞かれてはいない。
「何もしてないって。水くみに行ったら迷って戻れなくなっただけだよ。」
それは情けないことに、半分は真実だった。
昨夜は自分の部屋に戻る前に、うっかり空き部屋に三回、見知らぬ客のドアをたたくこと一回、をした挙句に当初の目的だった颯の部屋についてしまったのだった。早起きすぎる颯はちなみにもう起きていた。
「銀髪、銀眼のものなら心当たりはある。」
と颯は教えてくれた。遊多という名前で、結社では癒し手、攻撃手どちらにも友軍扱いで付く。神出鬼没で結社においても名前もあまり囁かれていない。実際は最高責任者クラスの術者であり、表向きは政治不干渉な結社においてもあまりに横暴な一件には秘密裡に対応しており、それが、遊多なのだと。
「にしても…おかしくない?」
とライは疑問を口にする。
「アシュアスからこのワイノスって、一番へだたりがあるのに、ここで本を流通させる大元を仕切るなんて無理じゃない?」
ライも結社の力は知っている。だが颯の所属しているのはアシュアス内の結社の本部だ。移動に関しては船が一番早いはずで、しかも最速であろう船は現状『ニケ』のみだとは聞いている。昨夜セルゲイ自身が言っていた。
「他言はせぬ、と誓えるか?」
と、颯はためらいがちに口を開く。
「おれ、結社の知り合いなんて今回知り合った颯と、紗羅さんと、故郷で世話になったヤスさんくらいだ。それに指名手配中。」
それを聞いてもなお少しのためらいを見せて、颯は言う。
「遊多は、時を止められる。そして望みの場所にすぐに行くことができる。」
と言った。
「これを知っているのは、結社の中でも私の知る限りは自分を含め三人。紗羅どのも知らぬ。」
とも。
「私は…この一連の出来事がライの件からずっと、仕組まれていたのではないかと思う。」
更に、颯はにわかには信じられないことを語った。
颯にも、結社には表向き把握されていない力―蘇生能力があること。ただし、誰かの命と引き換えを願わなければならないこと。ほかの二人もそれぞれ『記憶を操れる』こと、『無から物を作り出せること』を教えてくれた。だから、遊多は元から『指名手配および事件自体を無かったことにできる』力を持っていること。そこから考えると、やはりライの事件は仕組まれたものだはないかと。
「じゅあ…母は死ななくてもよかった?」
ライにとってはそのことが一番の裏切りだった。あの時、ともに泣いてくれたヤスさんが。手立てを持っていながら母を見殺しにしたのか。
「分からぬ…すべて推論でしかない。」
ライにはどうしても実感がわかなかった。ヤスさん、と呼んでいた。近所にふらりと引っ越ししてきた時から、家族ぐるみで親しくしていた。剣の師、夷庵とも旧知の間柄のようだったし、旧交を温めにきた、という言葉に何の疑いも持たなかった。
しかし、そう長くはなかった。その時間は一年くらいだったと思う。最期はばたばたと分かれてしまった。
「でも、なんでそんなこと?」
それほどの力を持ちながら、ライやヨリュウの惨状を救えなかった、いや、あえて救わなかった?それとも首謀者だった?いずれにしてもそれは「なぜ」なのか。思い当たることは何もなかった。
「私も、今回の件だけでなく遊多には確かめなければならぬことがある。」
と、颯も固い表情で言った。
「なに、ぼんやりしてんの、やらしい。」
はっとして目の前の声の主に注意を向ける。我ながら、どうもぼんやりしている。思考は昨夜の会話に常に引き戻されてしまう。だが、今は考えても仕方ない。お互い現状で交換できるすべての情報は披露したのだから、これ以上考えても結果は同じだろう。
「ん、なんの話してたっけ?」
ガルスが呆れて言う。
「だから!荷物はアタシたちが持ち帰って昨日の宿で荷造りって言ったでしょう?足も止まってるわよ。」
言われてやっと、皆が随分先を歩いているのに気付いた。
「アンタは方向音痴なんでしょうが。ラナから聞いたわよ。」
え、とライが反応したのでガルスの方が逆に驚いてしまった。
「ラナが?ほんとうに?」
ライは、ラナの前ではそんな状態を見せていないはずだ。
記憶の共有はほとんどない、とラナ自身は言っていたはず。
どういうことなのだろう。
「砂漠、行かなくてもいいんじゃないかな。」
傍らのラナは驚いてライを見た。
「だって、こんなに色々起こってるんだよ?なにか分かるも知れない。」
そういうラナの意見ももっともなのだが。
「でも、知って、なにか変るようなことかな。」
ほんとうに訊きたいことは他の事だったが、ラナは嘘をついているのかと言わんばかりの内容である、傷つけることは明白だ。もどかしい。会話の相手はほんとうはサラナーのままなのではないか、との疑問は。
「砂漠に行かなければ、って言っていたサラナーは居ない。ラナが居る。砂漠で死ななければいけない、って思っていたけど、砂漠に着く前に思い込みは解けて、今の状態になった。ならこのままでも誰も困らないじゃない?」
「それはそうだけど…でも、みんな不思議に思っているんだし。行ってみても良いんじゃない?」
ライは少し考えて加えた。
「危険かもって思うんだ。すべての事が砂漠に向かうよう仕向けられているんなら、向かってしまえばもう後戻りできないんじゃないかって。」
「そうかもしれないけれど。でも皆、準備してくれてるし。やめたら後悔するかも。」
そういうラナの意見も尤もだ。
「ん。まあそうか。ところでラナって、強く感じたことしか記憶にないって言ってたけど。どれくらいのこと覚えてる?」
突然話題を変えたことに不信感を抱かれたのか。彼女は口を閉ざした。やがて少し口ごもりながら言ったことは。
「あんまり、覚えてないんだけど。記憶にあるのはインさんって人に会っったこと。あとモデルのこと?なんかすごくどきどきしてた。」
「そうだね、あれ、引き受けてよかったよ。」
彼女の瞳は少し揺れた。
「そう…いいなあ、わたしもそんな経験できるかなあ。」
少しの動揺は見られたが、…やっぱり良くはわからなかった。これ以上知らない記憶の話をするのは気の毒か、とライは話を逸らす。
「そうだ、ラナってこんなのつける?」
ライが取り出したのは、小さな銀の髪飾りだった。真ん中に5弁の大きな花、左右には小さな花があしらわれている。銀細工でどちらかと言えば素朴な構図だったが、所々に緑に輝く石をと、紫、赤い石が散りばめられて可愛らしい。
「え。」
そういって、ラナは手を出そうとはしない。ライはさらに手を差し出しながら、
「おまけで貰ったんだけど。ほら、今回すっごく買い物したから、店の人がおまけにくれたんだ。」
それには少しだけ真実が混ざっていた。実際は、ライが選んで買い物ついでに値切ったのだった。ジェプトでのサラナーは、叔父の元でかなりの贅沢品に囲まれていた時期もあったそうで、装飾品に関しては船長にも一目置かれるほど目が肥えていた。ライが軽く選べる程度の品では受け取ってもらえないのではないか…と思っていた。だが彼女はどうだろうか。ふっと見つけた、素朴でかわいらしい色合いの品を見つけて、思ったのだった。紫水晶、ペリドット、ザクロ石が入っているからちょっとしたお守りにもなるよ、と年配の店主は言っていた。そんなことを考えながら差し出していると。
また、瞳がさっと陰ったように感じられた。ほんのわずかの間、悲しそうにしたのだ。
でもそれは見間違いかと思うくらい一瞬で。彼女はうれしそうに、その髪飾りを眺めていた。
「おまけ?…って、こんなに綺麗なの?」
明らかに触って確かめたそうにしているのに、まだ手をだしては来ない。
「だって、本当に一杯買い物したんだぜ?みただろあの大荷物」
そういって、大げさに腕を広げて見せる。ついでにすっと彼女の髪にさしてしまった。
「うん、似合うよ。あれだよ。誕生日プレゼントみたいなものだよ。」
そういって、自分でも照れ臭くなってしまい。
「さって、じゃあまた荷造りしてくるよ!じゃあまた明日。」
とその場を去った。気恥かしくて彼女の反応は水にさっさと引き揚げてしまった。その場に残ったラナは、しばらくうれしそうにしていたのだが。
ふっと、無表情になってつぶやいた。
「…いいな、ラナ…」
それはほんの一瞬で、彼女はまた、うれしそうに髪を触る。