書庫に射す夕日は不吉なほどに紅い
がさがさ、がさがさ。
もう一時間は、この音を聞いているような気がする。たまりかねて先頭をすいすいと進むガルスに声をかけてみた。
「有名な、先生って紹介されたけど。本当にこんな町はずれにいるの?」
「モチロン!アタシの茶飲み友達なんだから。偶然にも。なんか不思議ねえ。」
優雅ともいえる動作で振り返るガルスは、今日は昨夜のような奇抜な服装はしていない。黒い長そでの、膝までくらいの上着を羽織り、淡いブルーの仕立ての良いシャツを着ている。ズボンは深い藍色だった。本人いわく、
「先生は良い人だから敬意をはらうの」だそうで、なら昨夜のあの極楽鳥のような服はなんだったんだと問うと。
「だってえ。海賊の酒盛りだったんでしょう。」
ときた。
「海賊。そんな風に見えるんだ。」
「当前じゃない。あんなに羽振りは良い九割がた目つきが悪いわじゃあ。正直、サラナーと船長、そしてあんたは浮きまくってたわよ」
「みなさん良い方たちですよ?」
少し遅れていたサラナーも追いついてきた。息が上がっている。
先ほどから掻き分けている叢の、立ち枯れた黄色の葉に川蝉色のコートがはっきりとしたコントラストを描く。ガルスがじっと見つめて、口を開く。
「それにしても、サラナーちゃんってほんと、綺麗ねえ。なんではるばる砂漠まで旅しようなんて思ったの?親御さんには危険だって止められなかった?」
サラナーは、ちょっと小首を傾げて、
「でも、ずっとついて来てくれてる人がいますよ?」
とほほ笑む。その一言には迷いは無くて、ライは何かとても邪悪な胸騒ぎがした。
「ライがついてるから、ってこと?聞くんじゃなかったわ、ごちそう様」
ガルスがいいっと舌を出す。それでサラナーも、
「違います、そんなんじゃないです!だって、ライは…最近?」
サラナーが言葉に詰まる。
「ところでさ!まだかかるの?」
くたくただよ!とライが声を上げる。
「こらこら、若いものが何を言うか!もうすぐよ」
ほら、とガルスが少し先の看板を指さして言う。
「あと、たった、あ・れ・だ・け。」
言いながら、看板から左手に、今度は木立の中をかすかに昇って行く道を指さして言った。
それからさらに30分以上は歩いただろうか。
獣道を少しましにした程度の小道の先にその「ドリームヒーラー」の家があった。家、というか。その異形な景色にライは息をのんだ。
「すごいでしょう?この建物が気に入って、こんな辺境に住んでるんだから中身も相当よ?」
と言ってさっさと入ってしまう。
「サラナー、…大丈夫?」
ガルスが行ってしまったのを見送り、傍らのサラナーを見やると、建物にぼんやりと見入っている。
「サラナー?」
「…ここ、なんだか、来たことあるような気がして。」
緩やかな上り坂を延々進んだ果ての目的地は、石積みの巨大な建物だった。随分昔のもののようで、蔦が一面に絡まっている。崩れているがよく見ると門柱の跡まである。その間を抜けると、所々しか残っていないが石畳が敷かれ、立派な池もある。今は枯れているが噴水もある。
「ちょっと~、二人ともどうしたの?入口はこっちよ。」
能天気なガルスの声に、二人は慌てて足を速めた。ライは向かいながら問う。
「来たことって?旅に出るの初めてって言ってなかった?」
そう言ってサラナーを見ると、
「え?そうです、初めてですよ。こんな建物を見たのは。」
と無邪気に関心している。ライは言葉に詰まった。
「…砂漠にはそういえばこんな建物があったな。なんかここのと違って灰色だったけど。」
と、ライは話題を逸らす。かつて見た砂漠の光景を思い描きながら。
「灰色で…なんかざらざらしてて、綺麗って感じはなかったな。」
「へえ、変わったもの見てきたのね?でもその年で砂漠横断なんて、穏やかじゃないわねえ。」
いつのまにか、ガルスが傍らに立っていた。
「入口はここ以外にもたくさんあるのよね。で、見た目廃墟でしょう?迷う人も多いわけよ。だから紹介された人か、ライみたいに招待状持ってなければ知りようもないわね。ほんと偏屈なんだから。」
そういうガルスの前には赤い表札がかかった扉がある。確かに、他の朽ちるに任せた扉となんら大差はなかった。見落としてしまいそうだ。
「こんにちは、差し入れにぴちぴちの生ものもってきたわよ。あけてちょうだいな。」
「嘘付け。」
以外と若い声がかえってきた。しかも女性の声だ。
「そんな気の利いたこと、ガルスがしたら雪が降るわ」
扉が内側から開かれ、中から黒髪に青い瞳の、活発そうな若い女性が顔をだした。
「あ、本当に生ものが…。いらっしゃい。って、何よあんたはこんなお客さん連れていきなり。なんていうか常識ないんだから。」
「なによ、紹介状持っていたしすごく急ぎみたいだったからアポなしでお連れしたの。ほら、手土産は完備」
「あの、これ、ガルスさんからお好きだってうかがったので。」
と言って、籠にいれたフルーツや珍しい食材にワインを差し出すサラナーに笑顔を向けつつ、ガルスにはしっかり肘をめり込ませて。
「あら、礼儀正しいのね、そんなお気遣いなくって構わないのに。ワタシはジーマ。本名は長いからジーマって呼んで頂戴。」
「はじめまして。サラナー・ラクラスです。」
「で、こちらは?」
「はじめまして。ライ・ゼンドーと言います」
「はじめまして。ライ。あら、あなたちょっと疲れているみたいね?気を張りすぎると疲れるわ。良いお茶があるの、どうぞ。」
どうぞ。とジーマが一行を室内に招きいれた。室内は四部屋に分かれており、それぞれがとても広い。
「この建物は随分昔のものみたいなのよね。古地図にもしっかり記録されているし。あ、ワタシ、この建物が気に入って買ったんだけど、インには『いい買い物だ』って言われたのよ。地脈とかがいいんですって。」
でも普段はここには紹介状持っていても招かないのよ、とジーマ。
「だって、すっごく遠いでしょう、街から。だからワタシが出向いているのよね、普段は。それがこのガルスときたら。勝手にここに上り込むわ、招待してない人まで招くわで本当にロクデモないのよ。二人ともこんな大人には絶対なっちゃダメよ。」
「まま、そんなほめないでよ。成りたくてもなかなか成れるものじゃないなんて。」
ガルスはとんでもなく的外れに茶化す。
「…とにかくお茶入れてくるわね。そうね、本棚の本でも見てて。」
ジーマはガルスを完全無視して、すたすたとなりのキッチンに消えた。
「ほんとうに茶飲み友達?」
ライが疑わしげに言うと、
「残念だけど、アタシは一人のものにはならない主義なのよねえ。」
ときた。
「本棚。…すごい!フィラードの民話、アシュアスの神話、ワイノスの歴史まで。わあ、こんなにたくさんの本初めて見ました。」
サラナーが驚くのも無理はなかった。本は、結社の内部にはかなりの蔵書があるらしいが、まだ富裕層のもののみが手にできる貴重なものだからだ。
「ほんとだ。すごいね。手にとってもいいのかな。」
年代物ということは一目で分かった。それに、アシュアスを旅していたころには村、街の重鎮の手元に数冊の年代記、地理誌が保管されている程度だったので、説話の類は初めて目にする。
「どうしたの?本が珍しいの?」
二人が本棚の前で逡巡しているのを、ガルスはひょいと屈んで頭上から無造作に本の束を鷲掴みにした。
「ええ!なんてことを。」
「なに?なにか盛り上がってるけど。」
本棚の前で騒いでいたことが不思議だったようで、ジーマはティーカップを乗せたトレイを持って立ちつくしている。
「この子たち、本が珍しいって。」
「あら、そうなの?…えっと、ここの、ワイノスの子じゃないの?」
「私もライも、アシュアス出身です。北と南に分かれてますが。」
サラナーがそういうと、
「本はね、砂漠に沢山あるのよ。このワイノスは砂漠が多くて、人口もほかの二大陸に比して少ないわ。だけど、本はたくさんあるの。それを輸出してるんだけど。ふーん。そんなに出回っていないのね。」
はいこれ、とガルスには大き目の素焼きのマグカップ。どうぞ、とライとサラナーには綺麗な水色のカップとソーザーが手渡された。
「わあ。綺麗なカップですね。」
サラナーがうっとりと眺めている間に。
「あ、このお茶、いい香りよね。」
とガルスが一口飲み下す。
「でも不思議と眠くなるのよね。隣の部屋のいつものソファ借りるわね。」」
言いながら、ふらふらとガルスは三人の脇をすり抜けて奥へ冷えた。その背中を見送って、完全に気配が消えてから、
「よし!片付いたわ、ガルスもまあ、面白いんだけど、いつも相手していられないからね。良く効くわ相変わらず。」
と恐ろしい一言をさらっと口にして。
「それじゃ改めまして。ドリームヒーラー、ジャリハール・マヴァルが私の名前、で、インからの紹介状ってのを見せてくれる?」
と、強い光をたたえた瞳がライ、サラナーに据えられた。
「うーん。確かに本物。」
ジーマは一先ず封を切らずに一通り確認して口を開いた。
「疑っていたわけじゃないんだけど。最近は本当に西からのお客さんが少なくて。特にアシュアスからって言うのは。」
「そんなに?」
「そう。なんだか物騒な噂は耳にするわ、旅行客はないわで。…でもインからの紹介なら間違いはなさそうね。」
言いながら開封して中身に目を通す。
「アシュアスって、そんなに悪評立っていますか?」
「最新の噂では…結社と縁の深い友人から仕入れたんだけど、奇病が流行ってるって。以前あらちらほら、そんな噂はあったんだけど最近急増したって。」
「その結社がらみの情報、治療方法の情報はないんですか?」
ライの様子が変わったので、
「ん、残念だけどないわね、噂だし。…でも本ってアシュアスでは流通していないんでしょう?ひょっとしたらここにヒントがあるかも?」
「にしても、今はやっているなら間に合わないじゃないですか。」
ライが言い募るのを見て、
「あくまで推論だけど、結社だって一枚岩じゃないし、解決策はあるけど封じられているってことも考えられないかしら?」
「内部分裂ってことでしょうか?」
「あくまで、推論よ。」
(伝達の彼は信じすぎるな)
ふと、父の残した伝言が脳裏に浮かんだ。
(まさか…。)
確かに、ここ数か月連絡がない。そして噂だが、アシュアスから一番遠いここにまで奇病は伝わっている。
「まあ、残念だけどアシュアスではそんなに情報操作がなされているのなら治療方法も限られたでしょうね。そしてさらに残念だけれど、ワタシもこの件には力になれない、専門外なのよ。」
せめてなにか役立つ情報があればいいけど。と彼女は一つ鍵をライに手渡した。
「書庫の鍵。ここを出て、中庭の噴水あとから左、バラの植え込みの傍に扉があるから。」
「あ!あの、私も書庫が見たいのでついて行っても?」
サラナーが口を開く。
「ん?あなた、インに相談した件があるでしょう?私の治療を始めるから、彼には先に一人で行ってもらったほうが良いわ。」
「でも彼多分…。」
サラナーが言いよどんでいる間に、
「えっと、ここを出てすぐ右でしたね?」
とライがこともなげに復唱したので、
「ちょっと待ってて、ガルスをつけるから!」
とジーマが苦笑しながら奥に消えた。
「書庫ね。懐かしいな。」
と大あくびしながらガルスが適当に手を伸ばす。入ってすぐに小さな本棚があった。
「あら、こんな本棚は前無かったわ。ほんとにジーマってばマニアよね。」
と手にしたのは、褪せてはいるが大きく色とりどりの図形が乗っているものだ。
「ふ~ん、『料理本』ですって。なんか不思議な材料がのってる。それに道具も変わってる。たこいとってなに?さすが古代の本よねえ?」
「…ガルスってよくここに来るんでしょう?なのに懐かしい?」
ああ、とガルスは口の端を持ち上げる。無意識の微笑みのようだったがその一瞬の表情はとても寂しげだった。
「昔はジーマの患者だったのよ。アタシ。」
と、ポツリと呟いた。
「ま。そんなことは、どうでもいいわよね?さ、ライの探し物でも手伝っちゃうわよ、眠気を覚ますにはちょうどいいわよね。」
で、お探しのものってなんだっけ?とガルスが訊くので
「病気と治療法についての本、みたいなのがあったら目を通したいんで、持ってきてもらえますか?」
と言い、二人はそれぞれ書庫の思い思いの場所に移動していった。書庫は、入ったすぐは空間が作られていてその先は薄暗く、かなり奥行があるようだった。
「ライ、ちょっと待ってな。」
そういうと、奥の方でカーテンを引く音と、室内にうっすら光が差し込んできた。
「あんまり光をあてるのは良くないからね。古いものもかなりあるし。」
で、たしかこの辺、とガルスはちょっと屈んだかと思うと、数冊の本を手に戻ってきた。
「実は、この書庫アタシが片づけたの。奥の方はジーマの専門外で、つまり今回のお探しのジャンルも含まれるの。しっかし見事にアタシが片づけた時のまま。専門外は手つかずってね。」
いるわよねえ、集めて安心しちゃうタイプのマニアって、とガルスは言う。
「ジーマさんってお医者なんでしょう?」
「医者って言うか…ま、正規の治療法じゃなくてかなり特化してるわね。ドリームヒーラーって聞いたことなかったでしょう?」
うん、とライが同意すると。
「彼女だけなんじゃないかなあ。砂漠で一度死にかけて、で、あの能力を持ったって言ってたし。でね、結社にスカウトもされてたけど、ああいう堅苦しいのは嫌いって言って突っぱねたの。だからおおっぴらに治療行為も出来ないのよね。」
どんな治療なんだろう、とライは思ったが今は本を見てみることにする。治療のことはあとでサラナーに訊こう。ガルスが渡してきた本はどれも堅牢なつくりで、ちょっとやそっとの日焼けは物ともしないように見えた。
「え、う~ん。」
ライは書物はまれにしか見ないので、びっしりと書き込まれた序文で一日を使ってしまいそうだ。ちょっと絶望しかかった瞬間、ガルスがこともなげに選別してきたことに思い至った。
「ガルスって、こんなの読むの得意?」
ぱ、と顔を上げると、もう向かいでガルスは居眠りをしている。
仕方なく、目次をひとつひとつ解読していく。どうやら歴史を記したものである。ライのリクエストとは違うように思ったが、この書庫を一通りみた人間の意見なのだから少し確認しようと思った。
「疫病…えっと、な、に、う、い、るす。」
初めて目にする言葉だった。ウイルス、という単語のようだと前後の文脈から推測し、その項を開いて目を通し始めた。
―二十世紀に入り根絶されたものがパンデミックをおこした2060年、止むを得ず罹患患者の完全隔離政策を世界規模で断行、…病理サンプルの命がけの解析で治療方法の確立に至り、隔離先に選ばれた大陸に上陸するも、そこの住人はもはや疫病により衰弱した女性ただ一人を発見できたのみだった。連れ帰り、のち快癒する。それから彼女はいわゆる念動力のようなものを使うようになった。原因は不明。のちに、身ごもっていた彼女は男児を無事に出産。二人は言葉を交わさずとも、意志の疎通ができるようだった。テレパシーだろうか。そして男児が歩けるようになった頃、二人は帰ると言い出した。
もはや無人かと思われ、放置地区となっていた大陸に再び戻ると、そこには住人の姿があった。前回の上陸時に置いてきた治療薬により、かなりの人数が助かったと彼らは言った。だが。女性と男児の受け入れは断られた。彼らにはもはや彼らの社会があるのだと主張する。隔離されて捨てられた我々は戻れないという。
「…なんだろう、これ。」
ライはそこまで読むと思わずつぶやいた。
「変な話でしょう?」
びくっと顔を上げたライと、無表情なガルスの目が合った。
「だって、いつのことかさっぱりわからない話なのになんか妙に現実味があるっていうか。」
そういって、ガルスはまた無表情に本を一冊手繰り寄せて開く。
「あたしが昨日歌った歌、あれも本に書かれていたのよ。で、師匠がそれを歌にしたのよ。不思議な本を見つけてね、師匠はいくつもその本から歌を作った。で、いなくなった。」
その声があまりに悲しそうだったので、ライはかかえる言葉が見つからずにただ視線を投げかけた。
「楽しかったな。ただただ、生活の為に巡業して、旅ばっかりで、危ないこともあったけど、それがずっと続くって思ってた。突然断ち切られちゃったら、もう何していいかわからなくって。終わりなんて全く考えてなかった。」
ガルスはそこで言葉を切った。
「陳腐な言葉で、アタシがライくらいのときには鼻で笑ってたけれど、『失って初めてその価値がわかる』っての痛感しちゃった。それでまあ、ジーマが書庫整理の臨時雇いに声をかけてくれたのね。」
笑っちゃうわよ、こんな有名な先生だなんて知らなくて。
「いい若いものがなに腐ってるのよ!悩む暇は労働で、お金に変えてしまいなさい!」って引きずってこられたからてっきり商人かと思ったわ、とガルスは懐かしそうに言う。
「ねえ、訊いてもいい?」
ライが静かに尋ねる。
「その師匠の人って、…殺された?」
「そうね。」
ジーマに聞いてもらって、やっと受け入れることができた。
「正直、きつすぎて記憶もあいまいになっていたんだけど。でもやっと、体動かして、それをしながら話聞いてもらって。思い出した。」
忘れたままでも良かったかも、と思ったこともあるけど…とさらに言葉をつなぐ。
「師匠はね、っていっても年もあまり違わなかったかも。年齢はとうとう教えてもらえなかった。やっぱり砂漠を旅してたのよ、最期の時も。くだらない盗賊団に目を付けられて。師匠は争いごとは嫌っていたけれど、本当は剣の達人だったのよ?アタシは筋がいいって言われたけど、全然歯も立たなかった。あいつら、師匠のこと辱めようとしたのよ。アタシ殴り掛かっちゃって…師匠には止められたけど。そんなの男として、死んでも見過ごせないでしょう。二対三十くらいでまあ勝ち目なかったけど。…気が付いたら一面血の海で、師匠が倒れてて。介抱したけどダメだった。」
忘れたままでも良かった。でも彼女の最期の言葉は思い出せてよかった。だからジーマには感謝してるの、とガルスは言った。
「彼女の持っていた楽器も、本も、その時お墓を作って埋めちゃった。アタシたちには歌がある。心無いものには伝えられない歌がね。」
とガルスが言った。双眸は強く、深く輝いている。
「でも、なにか形見とか欲しかったりしない?」
ライの言葉にガルスはふんわりと笑みを浮かべて言った。
「そりゃ、欲しかったけど。でも思い出すたびに魂は引き戻されちゃうそうよ。ジーマにも言われたの。大切な人は早く魂だけに戻してあげなさいって。涙や悔恨は、色々と付随するものを澱ませるからよくないって。」
だからアタシは歌だけもらった。彼女の名前も心の中でしか呼ばない、とガルスは言った。
「歌の中に、アタシも彼女も存在する。それでいいわ。」
しん、とした空気に耐えられなくなったのか。
「…惚れるなよ少年」
と言って、ライの本を指差して聞いた。
「その話、どこまで読んだの?」
「ん、まだなんかういるす、ってのが流行って隔離して直して、…で、女の人と男の子は帰れなかったってとこ。」
「おおお…遅い!そのペースならあなた何日かかるか。あとは説明してあげる。」
そういって、彼が語ったところによると。
隔離大陸から戻った女性と、男の子の能力はまた進化した。念動力、テレパシー、果ては瞬間移動まで。どうやら病気と投薬の関係で発現したのではと推測された。そんな折、彼女たちは25歳と7歳という若さであったのに、急死してしまう。神経細胞のひとつまで分析にかけられて、暴きつくされて、そして存在を封印された。彼女たちの存在を知っていた研究者たちは怪死を遂げる。ただ一人、彼女たちの後見人として事実上は内縁の夫となっていた研究者一人を除いて。その男は人であることに絶望し、体を捨て都市を去った
「と、まあこんな話だったわよ。ニューロンだとかシナプスだとかなんか妙な単語もたくさんあったけど。だいたいこんな中身だった。なんか後味の悪い話よね。」
ライは言葉もなかった。何と言うべきか、信じられないような内容だなと思った。
「そんな内容、書き留めて一体どうしたかったんだろう?」
「あら、そういえば一体、秘密にするって言いながら書くなんてどういう意図かしら?」
「っていうか。病気と治療の話では確かにあるけど、もっと具体的なのないかな?」
ライがそういったのも聞かず。
「う~ん、ライの言ったこと、引っかかるなあ。本当に何のための記述なのかしら。」
とガルスは考え込んでいる。とんでもなくマイペースなガルスのことだ、こうなると長そうだ、と諦めて、ライは書庫をあさり出した。
気が付くと、あたりはすっかり真っ赤にそまっている。夕方になったらしい。
サラナーもジーマもここには来ない。
(どうしたんだろうか?)
ライは書物をめくる手を止めて、ガルスに声をかけた。
「ずいぶん、治療ってかかるんだね。」
ガルスはまた、例の料理本とやらを手にしている。よっぽど不思議な内容らしい。少し繰ってはまた戻っている。
「ん~、そうね、長い時も短い時もあるけど、今回はかなり長いわねえ。」
本から目も上げずに、ガルスは返事をした。治療が長引くなら、持参した食材でなにか作ってふるまったらどうだろう、とガルスに提案すると、すぐに同意が帰ってきた。どうやらさっそく料理をしてみたいようで本は手にしたままだ。
書庫から出ると、沈む夕日が赤茶けた建物を真っ赤に染め上げていて目に染みるくらいだった。あまりの赤さになぜか胸騒ぎまでする。
「…ちょっと、いやな感じね。」
ガルスが輝く双眸を、さっと周囲に走らせてつぶやいた。
「なにがどうって訳じゃないけど、急ぎましょうか。」
言うなり、ガルスは駆けだした。ライは慌ててそのあとを追う。
「ジーマ?治療終わった?ちょっと入るわよ、キッチンかしてね。」
そういって、返事も待たずにドアを開ける。途端、真っ赤なものが目に飛び込んできた。夕焼けの中で、さらに黒味まで帯びててらてらと不気味に輝いている。
それは床の血だった。
「ジーマ!返事して!」
言いながら、ガルスは腰に佩いていた短剣を手に取る。
「サラナー!」
ライもとっさに剣に手をかけ、周囲の気配を探る。だが、部屋は不気味に静まり返ったままだ。そして、先ほど皆が座っていた応接間には人影はなかった。
「ジーマは、ここでは治療はしないわ。治療室行くわよ!」
そういって、ガルスはその部屋の書棚の脇のドアを勢いよく開け放った。
そこには、サラナーが血まみれで椅子に沈んでいた。
「サラナー!」
ライは彼女を呼んだ。
明らかに意識はないが、…彼女の手は真っ赤に染まっており、向かいには、無残な姿のジーマが椅子に座っていた。
ガルスは一瞬動きを止めた後、ジーマに近寄り、手首に触れた。
「まだ息がある。ライ、二人を見ててくれ!」
言うや否や、ガルスは風のように部屋から駆け去ってしまった。