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判子

作者: 癸史 梨香

北日本文学賞 予選通過作品です。


単純な感想、厳しい目線での評価等頂けると嬉しいです。

「あっれえ……!」

斉藤結香子(さいとうゆかこ)が六歳の息子蒼太(そうた)とスーパーで買い物をしていた時だ。七十歳程の男はそう言って、結香子の顔をまじまじと覗き込んだ。

「ダレ? ダレ? ダレ? 親戚の人? 近所の人? どこかで会ったことがある?」

 結香子は戸惑いながら、頭をフル回転させた。人違いで声をかけられたのではなかろうか。短い白髪の中に灰色になりかけた黒が少しばかり残っている。深いシワ。海の男のような匂い。ほんの一瞬ではあったが、結香子はその一つ一つを丁寧に確認した。そのどれにも見覚えはなかったが、懸命に頭の中の知り合いリストを捲った。そんな結香子の焦りを余所に、男の口からはこんな言葉が出た。

「お母さんさ、ソックリだなあ!」

 男は、結香子の顔と蒼太のそれとを見比べた。南部弁訛りが、いかにもこの辺の人間らしい。蒼太の顔と結香子のそれとを行ったり来たりしているその目も、都会人には真似のできない憎めないもので、浜育ちだと分かる男の空気が、結香子の焦りと不信感をさらった。数秒間その動作は繰り返され、男は満足の笑みを浮かべながら自分の買い物へと戻った。それと同時に、結香子は深い息をつき安堵した。どうやら知り合いではないらしい。

 このような経験は初めてではない。

 蒼太は、本当に結香子ソックリなのだ。よく「判子を押したような」なんて比喩するけれど、まさにその通りだ。結香子の顔にインクでも塗って、ポンッ! と蒼太の顔に判をついたのではないかと思うほど、ソックリなのだ。

 こんなこともあった。

蒼太と二人、東京へ向かうはやぶさの車中、中年のビジネスマンが隣に座った。残暑厳しい初秋に、スーツに身を包んだこざっぱりとした男だ。その日の空は青く、小さな雲がポツポツと浮かんでいた。運が良いのか悪いのか、当たったのは二列シートの通路側。蒼太はまだ二歳であった。結香子の膝上乗車ということにして蒼太の席は確保していなかったものだから、見知らぬ中年男と、子供を連れた女とが、まるで夫婦のように並んでいるのである。誰が見ても、夫婦であり家族であったことだろう。そんな世間の目とは対照的に、蒼太が迷惑をかけるのではないかという心配と、中年男と今にも密着しそうな距離への不快感とで、結香子にとって非常に居心地の悪い道中だった。勿論、言葉を交わすこともない。交わすとしても、窓側のその中年男の携帯が鳴り「ちょっと失礼します」と言って結香子の体とスレスレの所を通り、結香子が「いいえ、大丈夫ですよ」という意味を込めた軽い会釈をする程度だ。居心地の悪さが最高潮に達すると、悪いことが重なるかのように蒼太が飽き始める。その時の為に持参したいくつかのミニカーを蒼太に与えると、隣の中年男は初めて言葉を発した。

「車好きなの? カッコイイね、これ。何の車かな?」

 子供慣れしたその口調は、結香子を驚かせた。「子供が隣に居ては迷惑だ」と言いたげに見えるこの男の口から、そのような言葉が出てくることは全く想像できなかったのだから。男は柔らかな笑みを浮かべながら、自らの家族について話し始めた。二人の息子達もミニカーが好きでよく遊んでいたということや、今は仙台に住んでいるが十年前までは東京に住んでいた、ということをだ。

そうして、この二席に漂っている微妙な空気をふんわりとしたものに変えるかのように、男は蒼太の車遊びに加わった。酸素マスクを装着されたような心地と言ってもいい。蒼太と男がだいぶ打ち解けた頃、その男の口から聞き慣れた言葉が発せられた。いつものアレだ。

「お母さんにソックリですねえ!」

 そう言って男は微笑んだ。このタイミングならその言葉を発しても問題ないだろう、という男の少々の計算と、場を和ませる意図もあったかも知れない。

 いつだってどこだって、「ソックリ」という言葉にはもう耳慣れていた。何度言われたことだろう。初対面の人間が見てもそう思うほど、どうやら自分と息子は瓜二つらしい。

 

 蒼太が自分に似ている、という事実は、シングルマザーの結香子にとって大変な幸運であった。息子が生まれる何か月か前から、シングルマザーだ。自分に似ているからこそ、余計に愛おしい。生物学的にも自分の一部だ、という実感をより強くする。

 もし、生物学的父親の方に似ていたら、と思うと身の毛がよだつ。あちらに似ていたとしたら、今こんなに可愛がり愛することができるのだろうか、という疑問と不安が結香子の頭をよぎった。もし自分に似ていなかったとしたら、蒼太はどんな顔をしているのかと想像したこともあった。どちらに似ていても、自分の息子であることに変わりはないし、おそらく今と同じくらいの愛情で育てていることは間違いないが、その想像は結香子にとっては恐怖そのものである。

 結香子は、息子の生物学的父親を「蒼太の父親」だと思ったことは一度もない。ただの一度もないのだ。寧ろ、「父親」であって欲しくないとさえ思っている。彼の存在がなければ、蒼太がこの世に存在していないことになるし、そんな世の中を想像すると胸が締め付けられる。蒼太をこの世に生んでくれたことには感謝している。だけれども結香子にとって、蒼太の生物学的父親である男の存在は認めたくない。どうしても、許せない人間なのだ。槙田一朗(まきたいちろう)という男は。

 彼は今どこで何をしているのだろうか、という疑問が結香子の頭をかすめないわけではない。結香子は、一朗と生計を共にしていた東京で、なんとかごく普通の結婚と家族という体裁を作ろうとしたし、勿論、それを望んでいた。一朗の鬱病を支え、一つ年上でも精神年齢は五歳程の「男の子」を抱えていると思うことにして、子じみた生活っぷりにも耐えてきた。

欲しいビデオゲームソフトがあれば、買う。欲しい漫画本があれば、買う。深夜はアニメのDVDを見て過ごす。そんな男だった。当然、結香子の我慢も限界に達し始める。どうして、それを許していたのか。今では分からない。

お金の話をすれば、

「考えたって仕方ない。これを買わなければ楽しみがなくなって、ボクは働かなくなるんだから」

と彼にとっては正当であろう不当な言葉達が、結香子の胃を痛めた。携帯だって三台持ちだ。一朗は携帯ショップで非正規雇用者として働いていた。内、一台は仕事上必要な会社名義によるものであったが、残りの二台は一朗名義だ。給料はと言えば、主婦がパートで得る報酬と大して変わらない。結香子こそ、正規雇用者としてアパレル業界で働いていたものの、蒼太の妊娠が分かり、極度のつわりと体調バランスの崩れから、妊娠五ヵ月目にして休職することを余儀なくされた。一日中立ったままの仕事であることも、胎児と母体に負担をかけた。結香子は一度、流産している。まだ見えないけれど、確かに自分のお腹の中に感じる生命を、今度は守りたいという強い母心からの決心だったのだ。  

そんな事情があって、一朗の取り分が頼りの生活。九万円の家賃と光熱費を払ってしまえば、食費を捻出するのがやっとだ。それでも一朗の物欲は抑えられることなく、収入とは反比例していったのだった。

 鬱病とは、本当に向き合うのが難しい。周囲の人間は、実に翻弄され易い。翻弄されない為には、知識が必要だ。それは現代病の最たるものとも言えるが、一朗の場合は、ただの甘え、としか結香子には映らなかった。自己正当化したいが為の「盾」、なのだろうと。勿論、心療内科の受診時には共に出向き話を聞いたし、自宅での様子や感情の波等、結香子が日々感じとったことを伝える役目も果たした。自宅マンションから歩いて十分もかからぬ病院。担当医も、彼の「甘え」の部分は当然見抜いていたし、大して調子が悪くない日の「演技」の部分も見抜いていた。精神科医の観察眼の凄さを知ったのはこの時だ。医者は誤魔化せない。

結香子は病への理解を深める努力をしていたが、それでも「甘ったれた男」としか思えなかった。子供の頃から、人一倍努力家だった結香子の性格とは合わなかったのかも知れない。気分が乗らないのを理由に仕事を休んだり、一日中ゲームをしていたり。家事は手伝わない。殻というよりも、城に籠った王子様ではないか。現実逃避の傾向もあったが、「動きたくない」「欲しいものは経済状況考えず買う」といったこれらの行為は、どうしても許せない。それくらい我儘な男であったから、結香子は自らこの男に見切りをつけた。必ずしも、両親揃っていることが子供の幸せではない。学んだのだ。揃っていない方が幸せな場合もある、ということを。やがてそれは確信へと変わった。それが、結香子を強くしたのだ。女として、母として。

 二十四歳の頃だった。

 

 蒼太はこの春に小学校に入学した。出産前に地元に戻り、北東北の漁師町で子育てをしている。未就園児教室から数えて四年間の幼稚園生活の後、蒼太は随分と身も心も成長しているように思う。「ママと離れたくない」と泣いた入園初日。靴を下足箱に揃え、スモックに着替え、教室に入る。それらを泣かずに一人で出来るようになるまで、一か月。年長組の女の子がとてもよく面倒をみてくれたな、とほんの数年前のことを、結香子は遠い昔の記憶のように微笑ましく思い出していた。

 成長という節目が訪れる度、親は心を悩ませる。子供のことも、自らのことも。「学校」という未体験の荒波への危惧。幼稚園というコミュニティは、比較的父兄の付き合いが狭い。それに比べ、小学校のそれはどうだろう。他園から来た父兄や他学年の父兄ともうまく付き合っていかなければならない。それが結香子に最大のプレッシャーを与え、自らも小学生の母親となることに不安と緊張を覚えていた。

 海沿いの小さな田舎町だからだろうか。ここは、そんな結香子の危惧や不安やプレッシャーとは無縁の場所だ。PTAの付き合いも、アットホームでワイワイとしたものである。

 結香子は幼稚園では父母会の会長をしていた。母親同士のそういった付き合いや行事の決め事、まとめ役は嫌いではない。寧ろ、好きだ。だけれども、それは狭い範囲での話である。小学校という大海の中では目立ちたくなかった。どんな陰口や恨みを買うかも分からないコミュニティに、わざわざ身をさらす必要があるのだろうか。そう思っていた。各学年には、学年委員という行事のまとめ役となる委員会があり、そこに入るべきか少々迷ったが、そっと「ベルマーク委員会」に丸印をつけてアンケートを提出したのは、ほんの四ヵ月前のことである。

 結香子は、活動的で教育熱心な方だ。教育ママとまではいかないが、我が息子ながら、なかなか優秀な蒼太を誇りに思っている。結香子自身も、小学生時代から成績が良い子供だった。顔だけではなく、脳までもが自分に似ている。そうしてそれが、結香子に母親としての自信を与えるのだ。子供の成績の良し悪しというのは、親の教育への関心度を示していると言っても過言ではないのだから。

蒼太がひらがなテスト、計算テストとも満点を取ってきた時には、

「すっごーい! さすがママの蒼太ね!」

と褒め称えまくった。とにかく褒める。人の二倍褒める。それがシングルマザーである結香子の教育方針だ。担任お手製の小さな賞状も、木枠の立派な額縁に入れられ誇らしげにリビングに掲げられている。そうして、蒼太の顔ににんまりとした表情が浮かべられると、蜂蜜よりも甘い気分と満足感を結香子に与える。


母子家庭だからと言って、夏休みの計画が白紙な家庭ではなかった。両親揃っている家庭と同じように旅行もするし、少々遠出だってする。決して蒼太には不自由な思いはさせまい、そう誓っていたのだ。

結香子は、今は、地元のそう大きくはない会社で英文事務の仕事をしている。海外に地産のにんにくや野菜などを輸出している会社で、その文書作成や翻訳、時には通訳をするのが結香子の役目だ。職業柄、給料は十分だった。母一人、子一人で生活していくには申し分ない。それに加え、英文科を卒業した自分が必要とされているという実感が強いのだ。これは自分にしかできない役目だ、と自らの存在に充実感を与えてくれる。シングルマザーだけれども、こんなに立派な仕事をしていますよ、という結香子のアイデンティティをも確立した。

結香子がこの会社を気に入っている最大の理由は、他にもあった。小さな企業特有の温かさだ。大企業に滅多に見られない、人と人とのつながり。社員には五十代以上の野菜生産に携わる労働者達が多く、結香子はアイドルそのものだ。

「結香子ちゃん、ちょっと休んでお茶でもして。これ、この前の温泉旅行のお土産。おまんじゅうなんて若い人は好きじゃないかも知れないけど、良かったら結香子ちゃんと蒼太くんにも食べて欲しくてね」

 同僚の久子(ひさこ)が白い包装紙に包まれた箱菓子を差し出した。彼女も生産者の一人で、娘が小学校五年生の頃に離婚をし、シングルマザーとして女手一つで育て上げたという経緯の持ち主だ。自分と似た境遇を持つ者を放ってはおけないのか、よく結香子のもとへやって来ては他愛のない話に花を咲かせていた。

久子の娘は今は社会人となり、彼女自身は子育てから疾うに解放されていて、もうすぐ五十歳を迎える。熟年の独身生活を大いに楽しんでいるようだ。結香子にとっても、久子は良き相談相手であり、時には自分の母親のような存在でもある。子育ての話から、シングルマザーの恋愛というテーマまで多岐に渡った。とても自分の母親と同世代とは思えないような、友人のような感覚。結香子もまた、それを心地よく感じていた。


蒼太の夏休みが始まって間もなくの頃だ。

「結香子ちゃん、コレ、あげちゃう!」

そう言って久子が楽しげにちらつかせていたのは、京都旅行のチケットだった。

「え? 何ですか? コレ?」

 大そうなものを差し出され、嬉しいとかラッキーとかそういう気持ちよりも、それが何であるかという疑問の方が先行した。

「実はね、この前ね、すぐそこのショッピングモールのくじ引きで当たったのよ! 五千円の購入につき一回できる、っていうやつ」

「ああ、それ、私もやったんですけど、見事ハズレちゃったんです。粗品という名のポケットティッシュをもらって帰りましたけど。当たるものなんですね、本当に!」

 この手のくじは、最初から当たりなんて入っていないに違いない、と結香子は思っていた。

「それでね、実は、京都は先月行ってきたばかりなの、私。だから、これは結香子ちゃんにあげちゃおうかしら、と思って」

「え、でも……そう簡単には受け取れませんよ、こんなステキなもの」

「遠慮しないで。蒼太くんを連れて、楽しんでらっしゃいよ」

 久子は、おせっかいなおばさんのような口調で、チケットを結香子の机に置いた。

「じゃあ、一回分の5千円払いますから、それで購入っていう形でいただくのはどうですか?」

「何言ってるのよ、結香子ちゃん。運良く当たったものなんだから、お金なんてもらえないわよ。運はタダでしょ?」

「まあ、確かにそうですけど……」

「行きたくない理由なんてない場所でしょう? 京都はみんな大好きな所よ」

久子はチケットを結香子の手に握らせた。結香子は、久子のその問いかけに頷くことが出来ずにいた。どうも気が進まない。


「ママ、暑い」

 二週間後、結香子と蒼太は京都に降り立っていた。

 蒼太の頭皮にはじっとりと汗がにじんでいる。京都は春か秋に来るべきだ。北国で育っている蒼太には、初めての関西。ペットボトルの消費もこれで何本目だろうか。京都の夏は風が吹かず、非常に暑いと聞いていたが、まさにその通りだった。盆地気候っていうやつだ。この季節だけは避けたかったが、久子からのせっかくのプレゼントだ。楽しむしかない。

「ママ、疲れた。喉渇いた」

「あとちょっとだけ我慢してね」

 一度ホテルへ立ち寄り、チェックインをして荷物を預けた。

 京都なら絶対に行ってみたいと思っていたスイーツ店があった。抹茶やほうじ茶などお茶をベースとしたスイーツが人気で、学生時代、東京に一人暮らしをしていた頃、都内の店舗に何度か足を運んだことがある。京都の本店でしか味わえないものもあると聞き、絶対に行こうと決めていたスイーツ店だ。

 行列に並ぶことを覚悟していたが、ピークを過ぎた時間帯なのか、待つことなく座敷の席へと案内された。

「蒼太、どれ食べたい?」

「うーん、コレ!」

 そう行って蒼太はチョコレートパフェの写真を指している。せっかくだから抹茶のものを食べさせたかったが、子供だから仕方ないかと思い、抹茶パフェとチョコレートパフェとを注文した。

「美味しい?」

「あー、いてて。つめたーい!」

 この暑さもあって、汗ばんだ体を冷却するかのように、蒼太はアイスを口に頬張った。

「そんなに一気に食べたら、頭キーンとしちゃうの当たり前だよ。もう少しゆっくり食べてごらん。パフェは逃げないから」

「うん」

 息子と京都に来るだなんて、不思議な気持ちがしていた。蒼太がまだ結香子のお腹の中にいる頃、この町に来たことがある。一朗とまだ決別する前だった。彼の地元でもあるこの地で、義母と顔を合わせるべくやって来たあの日を思い出した。一朗にバッタリ会ったりでもしてしまうのではないか、という恐怖もあったが、あれからもう七年も経っている。互いに外見だって変わっていて、街中ですれ違っただけでは分かるまい。結香子はそれくらいにしか考えていなかった。

 もう店を出ようか、という時だった。

「あら……? もしかして……結香子さん、よね……?」

 五十代程の女が結香子の全身をなぞるようにして見ている。そうして、その視線は、隣の六歳の少年へと移動した。結香子は無意識の内に、蒼太を自分の背の後ろへと隠していた。

「あ……お義母さん、ですよね。お久しぶりです」

 そんな形式的な言葉を、やっとの思いで喉の奥から発した。勿論、結香子は、彼女のことを「義母」だとは思っていない。この女をどう呼ぶべきかなんて、分からない。

「あら? お知り合い?」

 その女と同伴していたもう一人の熟年女は、ちょうど娘が迎えに来ているからと言って、先に帰って行った。

 絶対にこんなことはあるまい、と思っていた自分が甘かったのだろうか。結香子は、この人気店へ足を運んだことを後悔した。

七年ぶりとは言え、あまり変わりのない容子(ようこ)。一朗の母親だ。肩までの短い髪。濃い目のアイラインが、瞼の弛みに勝てずガタガタとしているのは当時のままだ。それでいて、ファッションは若い。百五十センチ程の小柄で、年の割に可愛らしい。パステルピンクのアンサンブルが、黒いセンタープレスパンツに優しく映えている。決して悪い女ではないし、性格だって温厚だ。離婚こそしていないが、夫とは一朗が高校生の頃から別々に暮らし、この女もまた事実上のシングルマザーである。一朗には、七つ下の(けん)という弟がいた。一朗と別離した当時、賢は高校生で、まだまだお金のかかる年頃だった。それぞれの女が、それぞれの理由で母子家庭という形態をとっていく。自らもシングルマザーの今、容子に同情心という和らいだ気持ちを持たないわけではない。

 容子の視線は、結香子の胴体を貫通していた。

「そちらの坊や、息子さんよね。私の孫にあたる……」

 容子の口から発せられる「孫」という言葉に、結香子は非常な違和感を感じた。

「はい。あれからこんなに大きくなりました」

「蒼太くん、と言ったかしら?」

 出産後、一年程は一朗と連絡を取り、出産の事実と名前だけは告げていた。いくつか、写真も送った。結香子があのマンションを出てから、すぐに一朗も京都へ戻っている。容子も、一朗経由で話を聞いたり、孫となる筈だった赤ん坊の姿を確認していたことだろう。

「クリッとした目と、太い眉が一朗にソックリだわ」

 容子は結香子の顔と見比べもせず、ただ蒼太の顔だけを見てそう言った。

「赤ん坊の頃の写真では、どちらに似ているか分からなかったけど、今は一朗似なのがハッキリと分かるわね」

 戦意も悪気も嫌味もない口調で、容子はそう続けた。「結香子さんソックリね」ではなく、そう言ったのだ。  

結香子には、容子が何を言っているのか、さっぱり理解できなかったし、自分の耳を疑った。

「いえ、『お母さんソックリですね』ってよく言われるんですよ」

 容子の態度とは裏腹に、結香子はムキになり返答していた。

「どこに行っても、知らない人にも、私とソックリだって言われるので、私似なんだな、って思ってましたけど」

 結香子は柔らかい物言いを努めたものの、戦意は伝わっていたかも知れない。

「そうね、結香子さんにも似ているけれど、一朗にもソックリよ」

容子の言葉は、決して腑に落ちるものではない。まるで、「蒼太は槙田家の子」と言わんばかりだ。彼女は悪気がある様子ではないから、余計に憤りを感じる。

 蒼太が一朗に似ている――それは最も想像したくない空想である。今すぐに鏡を取り出して、蒼太と自分とを比べたい。蒼太が自分と似ているから、自分の息子だという実感を強くしてきたのに。二十四の若さで遊ぶことも止め、母親という仕事に精を出してきたのに。自分の斜め後ろから顔を出している蒼太の顔を確認したいが、怖くて出来ない。そんな説明のつかない激しい感情に襲われた。

動揺を抑えようと、結香子は話題を変えた。

「一朗は、どうしていますか?」

 この七年間で、少しは疑問に思ったいたことを問うてみた。容子は、眉を歪め、一瞬、口元がピンと「一」の字のように左右に引っ張られたが、ゆっくりとそれを開いた。

「元気よ。一度は中退した大学にも再入学して、無事卒業して、金融関係で働いているわ」

 一度は落ちぶれた息子の、プラス方向への変容は喜ばしい筈なのに、容子の目は笑っていない。どうして、そんな嘘だと分かる態度で、堂々と嘘を言うのか。結香子と一朗の破綻も含め、容子だって様々な問題を乗り越えてきたのだろうと思うと、結香子はその嘘を真実として聞き入れるしかなかった。

「そうですか。それなら良かったです。連絡を取らなくなってから、どんどん廃れたり、また自殺未遂なんてしたりしているんじゃないか、と心配はしていたので」

 容子の眉がまた歪んだ。

「結香子さん、今、お一人なの? その、再婚……というか、新しい男性(ひと)はいないのかしら?」

「はい。ずっとシングルマザーです」

「そう。じゃあ、大変ね」

「一朗は、金融関係で働いているのなら、もう、それはモテモテで新しい(ひと)もすぐにできて、結婚してたりするんでしょうね」

 空気が重くなりそうなのを予感して、冗談めかして結香子はそう言った。

「結香子さん……」

 一朗の話題を続ける度、容子の目が沈んでいくのは明白だった。触れたら、今にも爆発しそうな、そんなものを抱えているような――。

「結香子さん、ちょっと今、お時間大丈夫かしら?」

 容子が、突然思い立ったように言った。

「はい。何か御用でしょうか?」

「一緒に来て欲しいところがあるの。特に、蒼太くんもね」

 輝きはないけれど真剣な容子の眼差し。その原因が見つかるような気がして、結香子の首は自然と深く縦に振られていた。


 タクシーでの道中、結香子はバッグにぶら下がっている小さな鏡を覗き込んだ。クリクリの目は、蒼太のそれと同じである。当の蒼太はと言えば、何が起こっているのか分からず、背筋をピンと伸ばしていて、緊張と不安とがひしと伝わってきた。

タクシーを降りると、結香子は更に困惑した。

「ここって、お義母さんのご実家の……」

 容子の生家は寺だった。大きくはないが、天台宗の宗派の寺だ。七年前にも、一度ここを訪れている。言葉は漏らさず、ただ小さく頷くだけの容子の後ろを、結香子は蒼太の手を引きながらついていった。

 敷地内の奥のそのまた奥まで来ていた。

「槇田家之墓」

そう書かれた墓石が一つ、寂しそうにポツ

リと佇んでいる。残暑の太陽を浴び、妙に黒

光りしていた。墓石のその寂しげな表情は、

あの日の一朗のそれを連想させる。結香子が

マンションを出て行った日。切ない予感が走

った。

「お義母さん……」

結香子のその言葉の続きを、容子は察していた。

「そう。一朗はここで眠っているの。安らかに。静かに。病からも苦悩からも解き放たれて。今、天国で幸せかどうかは分からないけれど」

 悲しみは疾うに癒ているかのような淡々とした容子の口調が、結香子の恐怖心を煽る。ことの重要さを伝えるかの如く、結香子を突き刺した。何故、一朗がここに眠っているのか。その理由だけは、聞かずともすぐに感じ取ることが出来た。皮肉なことに、今は彼のことが理解できるのだ。

「いつ、だったんですか?」

「結香子さんと連絡が取れなくなったと聞いてから、三ヵ月後よ」

 蒼太が一歳三ヵ月の頃だ。時折、蒼太の成長ぶりを見せてやるくらいならしてやってもいいか、と連絡を取っていた一年間。しかし、一年経ったあたりから、一朗の言葉に棘が出始め、結香子を酷く攻撃するものになっていた。自分の精神までもが崩壊してしまうのを恐れ、一朗のアドレスと電話番号を「受信拒否リスト」に入れたのだった。

「私のせい、ですね」

 七年前から抱えていた憎しみは、今は一ミリもない。ゼロミリだ。

「そんな風に思わないで頂戴、結香子さん。知っての通り、あの子は心の病だったの。結香子さんと連絡が取れなくなる前から、それは既に深いものになっていたのよ。そうして、自らこの世に別れを告げたのね、あの子。さっきは嘘ついて、ごめんなさいね」

 「蒼太が一朗に似ている」と拘った容子の気持ちがようやく見えた。彼女もまた、男の子の母親だ。結香子と同じく。異性の子供は、親にとっては恋人のような存在だ。容子は、子供と恋人を同時に失ったような気持ちで過ごしてきたに違いない。

「また一朗に出会えたような気がしたの。ありがとう。蒼太くん」

 容子のシワの目立ち始めた手が、優しく蒼太の頭をなぞった。


お読み頂きありがとうございました。


これからも作品作り、日々精進して参ります。

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[良い点] 読みやすいと思いました。 [一言] エッセイを書かれた方が作者さんの書き方にはあってると思います。 お互い執筆頑張りましょう。
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