追憶
痛みだけが残っていた。胸の奥にキリキリと刺さる痛み。
自分がしたことに対しての後悔・・・
自分の中の想いへの後悔・・・
判っていたことなのに・・・あの人は・・海じゃない・・・・
海じゃないのに・・・・
私はなんて言うことをしてしまったの・・・
・・「愛している」と・・・真剣に伝えてくれたあの人を裏切ってしまった・・・
瑠璃は無意識の内に龍の姿と、海の面影を重ね合わせていたのだ。
瑠璃は今朝見た夢で、自分の潜在意識を知ってしまった・・・
・・龍の姿に
「海」と呼びかけた・・・・・・
自分の愚かさ・・
私はあの人を傷つけてしまった・・・
私は海をも傷つけてしまった・・・・
溢れ来る自己嫌悪に呑み込まれ瑠璃の心は、冷たい氷の海に閉ざされていく。
あの日・・ 海を失ったあの日のように・・・・
朝の陽射しの中で、龍は久しぶりに幸せな朝を迎えていた。
愛する人と通じ合えた悦びを噛み締めていた。瑠璃の姿が見えないがトイレでもいったのかと思っていた。瑠璃のことを考えると知らず知らずに体が熱をもってくる。けれどいくら待っても彼女は龍の腕の中には戻って来なかった。
バッとベッドから飛び起き部屋中を探しても、愛しい人の姿は見えない。
・・どうして?・・・・・・・
ふとテーブルに目を向けると、瑠璃からの手紙があった。
・・・彼女は
あやまっている? 何故だ? 彼女も俺を求めていたと思っていたのは俺の勘違いなのか?
どうして? どうして? 俺を傷つける? 何故だ? ・・・・・
疑問符ばかりが頭の中に渦巻く。
龍にとって初めての恋なのに。
愛していると 心から沸き上がってきた。頭を抱えてソファに蹲った龍の顔色は 寝起きの穏やかな色から一変し、青白く沈んでいた。
その日の内に金城は沖縄に帰っていった。
瑠璃の心は あの頃のように冷たい氷に閉ざされ 体は悲鳴を上げていった。
我武者羅に仕事をし、夜には以前の様に薬で強制的に睡眠をとった。食事もほとんどコンビニのオニギリかサンドイッチ。
そんな生活が続く筈など無かったのだ。 彼女の顔色は、青白く沈んでいた。
「おい 瑠璃?今帰りか?」
金城のもとを逃げるように去ってから二週間余りがたった金曜日。
瑠璃の雑誌社が入っているビルのエントランスに浩之が立っていた。
いつものように爽やかな笑顔をたずさえ、品の良いスーツに身を包んでいる。
「あれ?浩之?どうしたの?」
「どうしたの?じゃないだろう? お前 最近美帆や芹歌からの携帯やメールにも出てないだろ?」
浩之は苦い薬をのんだ様に顔をしかめた。
瑠璃は浩之の真っ直ぐな射るような視線に目を合わすことが出来ない。
「・・・・・・・・・・」瑠璃には何も言い返せない。事実だから。
今は海や金城の関わりがある人とは誰とも話したく無かったのだ。
先日、浩之は芹歌から相談を受け佳樹や美帆とも話した結果、みんなで連れ出すより浩之一人が話した方が瑠璃も打ち解けるかも知れないと・・いう事になったのだ。
浩之の人当たりの良い性格は、こんな時害を及ぼさない。佳樹では真面目すぎ、美帆や芹歌は近過ぎる。
「夕飯 食べてないだろう?俺は未だなんだ。付き合ってくれよ?」
「私 まだ仕事あるから・・・」
目をそらした瑠璃の返事を聞きもせず、浩之は瑠璃の腕を掴んで留めていた自分の車に押し込めた。
「ちょ・ちょっと・・浩之?」
いつもの浩之ではない。彼は瑠璃の嫌がることをしたことが無かった。
タクシーに乗り込んだ二人は、瑠璃のマンションの近くの和食のチェーン店に入った。
「珍しいね?浩之がこんな店にくるなんて?・・」
浩之は、父親が大手アパレルメーカーの社長をしている裕福な家庭に育った為、小さい頃から一流レストランや和食の店に出入りしていた。 そのため舌は肥えていて、美味しい店を探すことが趣味みたいになっている。 この店は、確かにチェーン店の割には味はいいが所詮は和食のファミレスだ。
「ここの、中華粥が隠れた名品なんだよ。
お前、最近ちゃんと食べてないだろう?顔色無茶苦茶だぞ?
粥なら、弱った胃腸も大丈夫だろ?」
そう言って、瑠璃にお勧めの「中華粥」を、自分用には天ざる定食を注文した。
浩之が浩之らしいところだ。
人当たりが良く上品でそつがない。それが嫌味ではないため上司受けも抜群だ。
「お前さ どうしたんだよ?いったい?この間まで絶好調だったじゃないか? 仕事でミスったのか?」
注文の品が来るまでの間に浩之が尋ねた。きっと美帆や芹歌にせっつかれてきたんだろう。
「・・うん」
気のない返事をして、窓の外に流れるテールランプを見つめていた。
ポツリポツリと雨が窓ガラスに当たる。
あの日のように・・・・
忘れようとして忘れることなど出来ないあの日のように・・・
瑠璃の瞳から涙の雫がこぼれ落ちた。
「どうして・・・海は・・・置い・て・・行った・・・の?」
瑠璃がうめくように呟いた。
・・?海?・・・
・・有り得ない・・・・瑠璃は・・
「瑠璃? お前・・」
芹歌から聞いた話によると、 瑠璃は金城さんと仕事以外でも会っていた筈だ。
海に良く似た彼の存在が、瑠璃に海を思い出させたのか?
いや・・ けれど、これほど憔悴した瑠璃の姿は五年間 見たことが無い。瑠璃をこれほどまでに苦しめる出来事・・
・・・まさか?・・・・・
「お前、金城さんと何かあったのか?何かされたのか?」浩之の口調は次第に険しくなってゆく。
心の中に芽生えた邪悪な思念は水に落とした墨のように広がってゆく。
「・・まさか・・寝たのか?・・」苦悩が口からこぼれ落ちた。
こくりと青白い瑠璃が頷いた。
ポロポロと真珠のような大粒の雫が、瑠璃の瞳から溢れてくる。それ自身が意思を持ったように、次から次へと・・・・・
瑠璃が金城に心を寄せていることに、浩之や美帆たちは知っている。
瑠璃が恋をすることにはみんな賛成だった。海を失ってから、瑠璃が人に興味を持ったことなど無いから・・・。あの日以来、瑠璃は愛する気持ちを封印してしまっている。
そんな瑠璃を突き動かせる感情が、彼女の中に生まれたということはいい兆しだったのだ。
たとえ、相手が海に良く似た人であっても・・・・・・・
「私・・・・金城さんを海の・・・・身代わりにしてしまった・・・自分でも気付かない内に海の姿をあの人に求めていたのよ・・・・何て事を・・・・・・ぅ・・・
・・・あの人は、心をさらけだしてくれたのに・・・私は・・・・」
瑠璃の口から後悔の言葉が吐きだされる。
最悪だ!
まさか、こんなにも早くそんな関係になるなんて
どんなに強がって見せていても根が臆病な瑠璃のことだから、そんなに直ぐに関係が進展するなんて思っても見なかった。
泣きながら窓の外の暗闇を見つめている瑠璃の姿は、あの日の瑠璃と同じだった。自分の片割れを失ったあの日と同じ闇が、彼女を包んでいた。
出された温かい中華粥も殆んど口にせず、瑠璃は浩之の車に乗っていた。
コンビニの駐車場で車を止め、虚ろな表情の瑠璃を意識しながら浩之は知り合いの医者に電話を入れていた。
「あっ夜分済みません。今から往診頼めませんか?・・はい。僕じゃ無いんです。友人が体調を崩していて食事がとれないんです。・・・はい。ええ そうです。住所を言いますので近くになったら電話下さい。はい。お願いします。」コンビニで適当にドリンクやお惣菜を籠に入れながら医者の手配をし、芹歌の携帯に連絡を入れた。
「芹歌?今から瑠璃のマンションまで出れるか?ああ。 美帆もいるのか? そうか。じゃあ来てくれ。5年前と同じだ。壊れかけている。」
フロントガラス越しに車の中で小さくなっている瑠璃の影が見える。浩之は星の見えない空を見上げて呟いた。
「海 連れて行くなよ。お前だけの瑠璃じゃないんだぞ。」浩之の瞳には空と同じ厚い雲がかかっていた。
瑠璃のマンションの駐車場に車を停めた時、佳樹のアウディがパッシングした。
佳樹がビールを飲んでいたので、美帆が運転してきたらしい。
「瑠璃は大丈夫なの?」芹歌が泣きそうな顔で聞いてきた。
「ああ。車の中で寝てる。泣き疲れたんだろう。美帆?瑠璃の鞄から部屋の鍵 だしてくれないか?」
余り寝ていなかったんだろう。抱き上げても起きない。
ん? 変だ? 熱い!
瑠璃を部屋に運びこみ医者の到着を待っている間に、芹歌と美帆が瑠璃の服を着替えさせた。それでも意識が朦朧としているのか 「海・・か・・い・・」とうわ言を言っている。
浩之の呼んだ医者は香月誠也と言い、浩之の母親の担当医だ。病弱で繊細な母が頼っている腕の良い内科医だ。
「済みません。香月先生。お家にまで連絡を入れてしまって。」
「いや 良いんだよ。帰ってきたばかりだったからね。 取り合えず、ブドウ糖の点滴を持ってきたから・・後 熱が有るのか?」
香月はベッドの上でグッタリしている瑠璃の診察を始めた。
「多分 過労からくる発熱だろう。点滴に抗生剤も入れておいたから、明日にでも病院に薬を取りに来てくれるかい?その時に保険証もね。」
瑠璃の側には美帆が着いているからと、リビングに移動して芹歌がお茶を入れてくれた。
瑠璃の部屋は、独身女性が一人で住むには広すぎる広さがあった。20畳程のリビングダイニングと瑠璃の寝室、客間としての和室に、洋室が一部屋、後グランドピアノの置いてある部屋がある。
「しかし、どうしてこんなになるまで放って置いたんだ?親ごさんに連絡した方がいいんじゃないか?」香月の口調がきつくなる。
「彼女の両親は今 ヨーロッパにいるはずです。多分 兄さんはニューヨークだと・・・」
美村成一朗 ウィーンフィルの常任指揮者だ。母小夜子もピアニストとして世界中を飛び回っている。兄の蒼も昨年ニューヨークフィルで指揮者デビューをした。
瑠璃の家族は、音楽一家で瑠璃も小さい頃からピアノを習っていた。しかし、瑠璃の内気な性格は音楽の世界に身を置くには辛いものがある。
彼女の母親である小夜子が瑠璃の意思を尊重し、小夜子の夢であった母娘のピアノリサイタルを諦めたのだ。
「事情は判らんでもないが、今日採取した血液検査の結果とかもあるし、御両親に連絡取って貰った方が良いかな?」苦虫を潰した様な顔をして香月が話だした。話を聞いていた佳樹が難しい顔で考え込んでいる。
「先生?瑠璃は過労じゃないんですか?」香月の反応が普通じゃないような気がする。 「血液検査の結果を見てみなければ分からないが チョッと気になる事があってね。 まあ、出来るだけ早く両親に連絡を入れてみてくれ。」香月は浩之に真剣な目をして何かを伝えていた。
「瑠璃 悪い病気なのかしら?」不安な顔で芹歌が口にした言葉。 みなの心に芽生えている不安の種。
「大丈夫だよ。香月さん いつも大袈裟なんだから。 母さんをいつも怖がらせているしさ。 あの人の癖なんだよ。 心配症なんだから。 只の過労だよ。」
「だと 良いんだけど・・・」瑠璃の側から離れて美帆がラグの上に座った。
「ところで、浩之は瑠璃の話を聞けたの?」
「ああ 聞いた・・」押し殺した声が殺気を帯ている気がしたのは気のせいか?
「それで? 瑠璃はいったいどうして連絡してこないの? 私達からのメールにも出ないし! なんで? 何があったの?」芹歌の声が苛立ちから大きくなっていく。
「シー芹 待てよ。瑠璃が起きる。順序立てて話すから・・・」
浩之は瑠璃から聞いた金城とのことを順序立てて話した。勿論、瑠璃が金城と関係を持ったこともだ。それは浩之にとって地獄の洗礼のような事実だ。




