衝撃の事実
美村蒼が瑠璃のマンションに着いたのは、土曜の夕方だった。瑠璃には、美帆が付きっ切りで看病をしていた。
「ありがとう。また君達に迷惑かけたね。すまなかった。ところで瑠璃の容態は?」
玄関を入るなり蒼は、瑠璃の部屋へのドアを開けた。
「今朝 少し熱があったんですけど、今は落ち着いています。けど、食事が取れてないんです。食べたものも直ぐに吐いて・・もうすぐドクターが往診に来てくれる事になってるんです。」
瑠璃の額に蒼の掌が触れた時、フッとオーロラ姫が目覚めるように瑠璃が目を覚ました。
「あっ兄さん。 お帰りなさい。」
やはり瑠璃の身体が本調子ではないことが解る。瞳に生気が感じられない。顔色も良くない。
「どうしたんだよ?一体?最近は調子良かっただろ?この間電話したときも変わった様子は無かったのに・・・」
蒼がNYから瑠璃に電話を入れたのは、金城との一夜を迎える前日だった。
そうだ。たった二週間で別人のようになってしまった瑠璃。
うつらうつらと又、瑠璃が眠りに入っていく。どうしたというのだ。蒼は横にいる美帆の顔を見返していた。
美帆は静かに首を振るだけ。
リビングに戻りダイニングの椅子に座ると
「昨日からずっとあの調子なんです。うつらうつらしているんだけど熟睡出来ていないみたいで。時々うわごとを言っているんですけど、何を言っているのか判らなくって」
美帆が、蒼のために紅茶を入れてくれた。
「美帆ちゃん、一体瑠璃に何があったんだ?君達なら知っているんじゃないかい?」
蒼の端正な顔が苦悩に歪む。
「何から話して良いのか・・・
・・・蒼さんは海のこと覚えています?」
美帆の口から、意外な人の名前が飛び出した。
知っているも何も、五年前に瑠璃が愛していた唯一人の男性だ。そのとき彼を亡くした瑠璃は自暴自棄になり、発作的に自殺未遂を犯した。そのときも、美帆たちが側に居たから彼女は助かったのだ。そのときは美村夫妻も兄である蒼も、ヨーロッパに居たからすぐに駆けつけることが出来なかったのだ。まだ、二十歳そこそこの学生達が同い年の少女のために身を粉にして助けてくれた。彼女達が居たから、今の瑠璃があるといっても過言ではない。ただ、家族としては、一人娘の辛い時に側に居ることが叶わなかった事実だけが圧し掛かる。今でも、何かあればすぐに駆けつけようと父も母も思っているはずだ。
その亡くなった彼の名が今、どうして出てくるのだ?
「覚えているも何も、瑠璃のたった一人の愛した人の名だ。」
「最近、瑠璃は海に良く似た写真家に出会ってしまったんです。金城龍。最近、沖縄の海の写真で賞をとった人です。」
蒼もその写真家の名は知っていた。素顔を殆ど見せない気難しい人物だと雑誌に書いていた。確か、NYの個展にも顔を出していないはずだ。TVのニュ―スで見た気がする。
「ああ、知っているよ。僕もNYで個展を見たけど、引き込まれるような写真だった。強くて、そして優しさが溢れている・・そんな写真だったよ。彼が、そんなに海君に似ているのかい?」
「ええ。雰囲気とかは全然違うんです。海は人見知りは激しかったけれど、ナイーブで優しくてそして強かったんです。側にいても怖くなかった。空気のように気配を消せるって言うか、気が付くと、ああいたんだって思えるような、そんな人だったんです。でも金城さんは確かに気難しい人でしたけど、よく笑って穏やかに見えました。でも・・・私は怖かった・・・瑠璃の側にこないでって思ったんです。」
美帆たちは、個展の間に一度会場を訪れていた。勿論、瑠璃には言っていない。
瑠璃が仕事だと言って毎日逢っている海に良く似た人を、自分達の目で見定めたかったからだ。
そのとき、美帆たち四人の前に現れた金城は、確かに海によく似ていた。しかし、醸し出す空気が全く違っていたのだ。
そのときドアフォンがなった。玄関ロビーに誰か来たみたいだ。
「美帆?俺。今駐車場で香月先生とばったり会ったんだ。今からあがるよ。」
美帆は、オートロックを開け二人が来るのを待った。
「佳樹と昨日見ていただいた香月先生です。」
佳樹のことは蒼もよく知っている。
しばらくして、二人が部屋を訪れた。
「先生。はじめまして。瑠璃の兄の美村蒼です。往診までして頂いてありがとうございます。妹の病気は一体?」
蒼が握手を求めながら、香月に問い掛けた。美帆も佳樹も知りたいことだ。
「瑠璃さんは 妊娠しています。普通なら、まだ兆候は出てこないはずなんですが、血液数値が少し気になったので、ホルモンの検査もしました。それで判ったんです。
しかも、彼女は自らの意志で食事を受け付けていないように思います。
食べれないんじゃなく、食べようとしていないんです。
ストレスか?不幸な性交渉だったのか?彼女を助けるには、とりあえず明日入院してもらいます。
妊娠初期の母体は非常に危険が伴います。ましてや、瑠璃さんは昔、手術をしていますね。詳しいことは、カルテを見ないと判りませんが、出産に耐えられるかどうか、今は判断できません。よろしいですか?」
・・妊娠・・・・・・
瑠璃が妊娠している。
相手は金城以外には居ない。そんな・・・・そんなことって・・・・・・
動揺が三人の胸中に渦巻く。
「明日、病院に来る前に私に連絡して下さい。救急外来が開いていますから、そこで待っています。
今、どうこうと言う状態ではありませんので、明日で結構です。取り敢えず栄養剤の点滴をしておきます。」香月は一緒に連れてきた男性に何かを指図した。
彼は、研修医の青木緋呂。香月が指導医をしているらしい。
「私は此れから直ぐ病院に戻らなければなりません。青木を置いて行きますので、何かあれば彼に聞いて下さい。」
そう言って香月医師は瑠璃のマンションを後にした。家族に説明をするためだけに来てくれたみたいだ。
唖然とする蒼の顔は、真っ白になってしまった。
無理も無い。
恋愛に奥手な瑠璃が妊娠?相手は、先ほど美帆から聞いた金城という写真家だろうか。
「蒼さん?大丈夫ですか?
多分 相手は金城さんです。でも、香月先生がおっしゃったような不幸な関係だとは思えないんです。
昨日、浩之が瑠璃に聞いたんです。
瑠璃は金城さんを愛しています。勿論、金城さんも瑠璃のことを愛しているはずです。
でも、そのあと瑠璃は気が付いたみたいなんです。金城さんを海に重ねて見ていると。
海として見ていた自分に気付いた瑠璃は、自分を責めて責めて心が凍ってしまったんです。」
美帆は話す途中から、涙を流していた。美帆にとっても衝撃的な事実だったのだ。
ましてや、瑠璃が手術するような病気をしていただなんて。
大学時代はそんなこと、微塵も見せなかった。確かに、余りスポーツはやりたがらなかったが、普段から大人しい静かな性格の彼女だったから気にならなかったのかも知れない。
「蒼さん。瑠璃の病気って?」
暫く沈黙したあと、蒼が徐に口を開いた。
「瑠璃は 先天性の心臓弁膜症だった。手術をしなければ、二十歳まで生きれないといわれていた。母が瑠璃を産んで数年間、一線から身を引いていたのは瑠璃をひとりにして置けなかったからだ。瑠璃が五歳になった頃から、薬で体調を管理できるようになってきた。母方の祖父母が娘の才能のために、瑠璃の看護を引き受けてくれた。母の復帰を望む声は田舎の祖父母の下にも聞こえていたからだ。瑠璃は、田舎で祖父母の下で大切に育てられた。しかし 運動は禁止されていたんだ。
身体が大きくなった中学の時、漸く手術を受ける事が出来た。
そんな事情もあって、瑠璃はピアノを諦めたんだ。」
瑠璃の病気
美帆にとっては寝耳に水の話だ。
あんなに元気そうに見えたのに瑠璃の身体が そんなことになっていたなんて・・・