つまり、五月の修学旅行!8ページ
今、俺の目の前には、赤い首輪と綺麗な鈴を付けた黒猫さんが佇んでいる。
そのクリクリとした目は俺を見つめていて、そのピンとした耳はピョコピョコと可愛らしく動いていて、そのモコモコした尻尾はゆらゆらと揺れている。
「にゃあ」
猫が鳴いた。綺麗で、耳によく馴染む鳴き声だ。不思議な事に、聞いてるだけで気持ちが落ち着く。
「にゃあ」
もう一度、猫が鳴いた。何時の間にか、俺がさっきまで入っていた布団は無くなっている。
何だか訳が分からない。のぼせたから布団で横になろうとしたら、何故か黒猫が目の前に居る。何で? しかもここは旅館だぞ。どっから入ってきたんだ? あれ?それよりももっと大変な事がある。ここはどこだ。さっきまで俺が居た宿泊部屋じゃない。一面真っ白の空間に居る。黒猫と自分以外何も無い。何だこれ、夢?
あ、そうか夢か。夢だからいきなり猫が居たのか。ああ、びっくりした。
夢だと分かった途端何だか安心した。身体を起こして、ねこの頭を撫でてやる。猫は気持ち良さそうに目を細めた。
「しかしなぁ……」
猫の頭を撫でながら、一人呟く。夢と分かったところで、俺はどうすれば良いのだろうか。
起きる……いや、どうやって? いつも勝手に目が覚めてるから分からないや。
じゃあ、起こしてもらうか? いやいや、それこそどうやるんだよ。確かに俺は自由に性転換出来る不思議体質だが、テレパシーは使えない。もちろん、その他超能力の類いもだ。
「みゃあ」
そんな事を考えていたら、猫がいきなり立ち上がった。どうしたんだろうと思い猫を見やると、猫は尻尾をゆらゆらさせながら俺に背を向けて歩き出した。
……付いて行った方が良いのかな? それとも、ココに居続けた方が良いのかな? 分からない。
さてどうしようかと、一度立ち上がってから辺りを見回して見る。
周りを見て思った。何にも無いや。
まず物が無い。人は居ない。壁や地面が分からない。ただただ真っ白だった。気を抜くと、いや、意識しないと、自分が目を開いているのかどうかすら分からなくなってしまう。
言ってみるなら、そう、視界に青空しか映っていない感じ、だろうか。
建物も人も虫も草木も自分の髪も雲も無くて、ただ青空を眺めている状態。そんな感じだ。
「みゃあ」
また、猫が鳴いた。どうやら付いて行った方がいいみたいだ。猫が鳴いた方へ身体を戻すと、ここではとても目立つ黒い尻尾が、ゆらゆらと手招きするみたいに揺れていた。
一面真っ白の空間を歩くと言うのは、何だか不思議な感覚である。なんせ景色と言える物が無いのだから、自分が歩いているのかどうかがが分からないのだ。
ひょっとしたら自分は宙を歩いているのかもしれないし、その場で足踏みをしているだけなのかもしれない。足を前に出しても、地面を歩いている気はしない。
でも一応、足の裏から伝わる感触と、俺の数歩先を歩いている猫との距離から、ちゃんと歩いているのだろうと思う。
……夢の中でも、足の感触がするのは謎だが。
そんな調子で黙々と猫の後ろを歩いて暫く、真っ白い空間に、ふと、何かが見えて来た。
初めは小さな点にしか見えなかったそれは、歩を進める毎に大きくはっきり形付く。
それは、古ぼけた大きな時計だった。
焦げ茶色の木材を枠組みに造られた、ホールクロックの時計。ガラスケースの中に振り子がある。大きさは俺より少し大きい位だから、だいたい百六十㌢と言った所だろう。
そんな古時計を見上げて、ふと、気付いた。
「とまってる……」
その古時計のローマ数字が描かれた真っ白い文字盤には、今現在の時間を表す時針と分針がピタリと止まっていた。もちろん、振り子も動いちゃいない。
腕を伸ばして時計に触れる。冷たいともぬるいとも感じないのはやはり夢の中だからなのか。
この古時計、どうにかして動かす事は出来ないのだろうか。
「にゃあ」
そう思った瞬間、足下で猫が鳴いた。猫の鳴き声を聞いてハッとする。そうだ、俺は猫の後を追いかけていたんだった。
そう思って視線を古時計から足下に落とした。直ぐに猫を見つけた。目の前の古時計には興味が無いのか、猫は明後日の方向を向いている。
ただ、猫は動こうとしない。その場に座り込み、一方を見つめたまま番犬の様にじっとしている。
今さっき鳴いたのは何だったのだろう。
「…………ね、猫さーん」
名前が分からないのでそう呼んでみる。猫はチラリと横目で俺をみると、短く小さく鳴いた。そしてその後、首をゆっくりと戻してしまった。
……それだけか。いきなり鳴いたから、てっきりまた移動するのかと思った。夢はまだ終りそうに無いし、時計は壊れているし、何とかして欲しいんだけどな。
そんな期待を込めて猫をじーっと眺めていても、時々鬱陶しいと言う様な視線を向けられるだけだった。
どうすればいいんだよ。もう訳が分からん。そう思いながら溜息を吐いた瞬間、どっと全身に疲れを感じた。のろのろと動いて古時計にもたれかかり、足を投げ出す。
この変な夢は、いつ終わるのだろうか。