制裁
碧さんの声を無視して、私は更に彼に近寄ろうとした。けど、彼に腕を掴まれて進めない。くっそ。
拓也が堪らず駈け出してきた。
「綾っやめろっ」
「立って?」
私は彼に冷たく言う。彼は無表情で私を見つめ、俯いた。そして再び顔を上げた。
初めて、わずかに、彼の瞳が揺れるのを見た。
そしてゆっくりと立ち上がった。
「綾ちゃんもうやめろっ。おい吉川、先輩!」
碧さんの声を合図のように、二人がフェンスに飛び登ってくる。
私は後ろから碧さんに羽交い締めにされかかった。
片手でフェンスを力いっぱい握りしめながら体勢を整える。
相手を睨み据えた。
許さない。
やってやるっ!!
「いいかげんに、してっ!!」
思いっきり、足を延ばして、蹴飛ばした。
河島の、股間を。
初めてのそれは、自分でもビックリするほどみごとにクリーンヒットした。
男4人が、固まった。
「うわっ。」
「きゃあっ!」
声も無くうずくまった河島を、咄嗟に私と、フェンスの上から拓也が掴んだんだけど、
そのまま彼は前のめりになり、まさしくバランスを崩した。
なもんだから、彼を掴んだ私達もバランスを崩しそうになり、結果、私は碧さんに、拓也は藤田さんに、後ろから抱かれる様に引っ張られる形となった。
そして今、河島の体を支えているのは私と拓也の腕だけっ。
拓也はフェンスの上から自分の大腿部をひっかける様にして、ほぼ逆さ吊りの状態となって両手で河島の腰とダウンジャケットを掴んでいるし、
私は彼の腕を脇の下から、片手で掴んでいる。
(もう片方の手は、怖くてフェンスから離せないっ。)
藤田さんは後ろから拓也の腰と背中を鷲掴みにして支え、碧さんは私の腰を後ろから片手で抱き抱え、片手で同じくフェンスをがっちりと掴んでいる。
で、当の河島は、股間を抑えたままうずくまって、かろうじて足がビルの縁に引っかかってる状態なのよぉっ。
きゃぁぁぁ落ちないでっっ私、殺人者になりたくなぁぁぁいっっっ!!
なのにあの人、足を片方踏み外したのよっ。
その瞬間、私と拓也も思いっきりバランスを崩した。
「いやっ!」
「綾香っ!」
「うっ・・。」
碧さんの叫びと、拓也の呻き。
私は碧さんに抱き抱えられてなければ、確実に一緒にバランスを崩して落ちていた。
だって、手を離す隙すらなかったんだもの。
あのねえ、あんたっ!いつまでも股間押さえてないで、その手一つは外して、自分でどっか掴みなさいよっ。
って思ったら、いきなり私の腕を、ガシっと掴んできたのっ。
「きゃあっ!」
ちょっと、どっかって言ったけど、なんで私の腕なのよっよけいにバランス崩すじゃないっ。
前のめりになってるから、他に掴むものが無かったんでしょ、わかってるけどっ。
私、あんたと一緒にほぼ宙づり状態なのよっ、足は着いていても重心は空中なのっ。お願い碧さん、私を離さないでっ、ついでにフェンスも離さないでっ!
「・・・信っ・・・じ・・らん、ねっ・・・。」
拓也が息も絶え絶え呻いた。
河島が私の腕を掴んだ瞬間から一層、拓也が強く彼を引き寄せようとしているからだ。
顔が真っ赤で、渾身の力を込めているのが分かる。こめかみが浮き出てきてる。
私の後ろで、私と河島を支えている碧さんが叫んだ。
「吉川っ!手を離すなっ!」
「離さねーよっ!」
いつのまにか、拓也を支えながらフェンスを登った藤田さんが、拓也と同じ体勢になっている。
「いくぞっ!」
藤田さんは掛け声とともに、拓也から腕を離して河島の背中と胸を同時に掴み、思いっきり引っ張り上げた。
拓也も一瞬バランスを崩しかけながら、咄嗟にフェンスを掴み、彼と一緒にグイっと引っ張る。
その反動で私は更にバランスを崩し、ついには足がふわっと浮いたっ。
「やだーっ!」
碧さんが私をグッと掴み寄せる。河島の重心が後ろにずれる。それと同時にビルの縁に座り込む様な体勢になった。
「わっ。」
拓也が引きずられて、フェンスにほぼ逆さまに捕まる。藤田さんが河島を掴みながらフェンスを乗り越え、座り込んだ彼の肩を素早くそこに押し付ける。
碧さんがフェンスをきつく握りしめながら片膝をつき、私を床に押し込む様に強く座らせた。
河島の腕が、私から離れる事はなかった。
そのまま4人で河島をフェンスの中に引っ張り上げ、私達は足元に倒れ込んだ。
大の男を一人、3メートルもの高さまで持ち上げて戻すのも大変だったけど、先ほどの騒動が激しく、確実に、私達の気力体力を消耗させていたから。
肩で息をして中腰で膝を押さえて俯いている藤田さんも、結構レアだと思う。
碧さんは足を投げ出して座り込み空を仰いで息をしているし、
拓也は文字通り、床に倒れ込んでへばりきっている。
私はぺたっと座り込み、両手もついて俯き、あまりの緊張と疲労に顔も上げられなかった。
そう、あの土下座の体勢です。
「君、普通、これやる?!」
息も整わないうちに、碧さんが聞いてきた。というより、突っ込んできた。
私は頭をガバッと上げて、碧さんを見て叫んだ。
「だって頭来てたんだもんっ!」
「だからって、あそこでやる?!」
信じられない、あり得ない、って目で私を見ている。
私は頭に血が上った状態で続けた。
「だって拉致られて、ずっと怖くて、どうやって逃げようかずっと考えてて、その時からずっと・・・・。」
考えていたのよ、一人で。どうやって逃げればいいかって。あの技しか思いつかなかったのよ。
それですごく怖くって、そんな思いをさせられたのが悔しくって、簡単に死にたいって言われて頭に来て、ワガママ勝手な人にどうしても一発お見舞いしてやりたくなって、そうしたら、そうしたらね・・・。
拉致られて以来、初めて涙がにじみ出た。
そうしたら、じわじわと止まらなくなった。
だってものすごく怖かった!!
「・・・あぁ、もう、わかったわかった。」
そう言うと碧さんは足を投げ出して座った体制のまま、私の頭をグイっと自分の胸に引き寄せた。
私は自分の顔を、碧さんの胸に押し付けられた。
その状態で、優しく頭をポンポン、とされながら撫でられる。
私はせきを切ったように、次から次へと涙が溢れてきた。
ああ、もうこうなると止められないんです。
「この子、すげぇ。」
私の頭を抱いた状態で、碧さんは空を仰いで呟いた。
「俺、絶対怒らせらんねえ。」
すると床に寝転がった拓也が、視線だけチラリ、とこちらによこすと、少し拗ねたように言った。
「こいつ、普段はあんまり怒んないんだけど、たまに爆発すると手がつけらんなくなるの。4年にいっぺんくらい。」
「オリンピックかよ。」
ナイス突っ込み碧さん!
とか思いながら、心の中で考える。え?4年前、私、何でキレたっけ?
「健一。」
藤田さんが声をかけた。
「お前、これからどうするんだよ?」
河島は私達がフェンス内に引き上げた時から、呆けたように座っている。
藤田さんは体を起こして立ち、彼を見下ろした。
「ここじゃ死ねないぜ?今日は諦めろ。」
河島は藤田さんの方を見向きもしない。
「彼女の言う通りだ。誰かに殺されるまで、お前、生きるしかないだろ。彼女を追い続けたり、死に場所を考える力が残ってるなら、他にやる事があるんじゃないか?」
お兄さんの自殺を止める。多分、今までの藤田さんの頭の中には無かった事。
弟に自殺を止められる。多分、今まで河島が想定していなかった事。
「考えてみろよ。・・・俺も手伝うから。」
無駄な事かもしれない。河島の表情をみて、思う。
心が病んでいて生きる事を諦めた殺人者に寄り添うなんて、無駄かもしれない。彼は死ぬまで変わらないかも。
でも。自分のお兄さんと向き合おうとする事で、藤田さんは救われるといいな、と思った。
目を反らし続けるより、ずっといい。
仮にそれがただの自己満足で終わってしまうとしても、藤田さんの瞳に少しでも表情や色が出てくるなら、
きっと彼の人生はマシなものになるのだと思う。
辛いものを背負ってしまうとしても。
身内を、否定もせず憎みもせず、ただ諦め続けるよりは、ずっといい。
二人を見つめたまま、私達三人は動かずにいた。
私の頭を抱く碧さんの手に、少し力が入った気がした。