王子様
誰かが何かを言っている。何かが私の上に覆いかぶさってきた。
次の瞬間、ふわっと体が浮いて再びどこかに倒れ込んだ。
そしていつまでたっても何も起こらない。
私は顔を上げた。
碧さんだった。
え?碧さん?!
「大丈夫?」
彼が恐ろしく不安そうな表情で、私を覗きこんで見ている。まるで縋りつく様な瞳。怯えた子供みたい。私はビックリした。
でもやがて、その表情が徐々に安堵に変わり、ゆっくりと、最後には甘い笑顔が私の頭上で、
咲いた。
すべてがスローモーションに見える。
沿道の街灯が後ろから彼を照らし、髪が光に縁取られていた。
事態がさっぱり飲みこめない。
息も出来ずに彼を見上げた。
どうやって、あの部屋を出たんだろ。なんでここが分かったんだろ。
笑顔が、眩しいな。光のせいかな。でもやっと、私の眼をまともに見てくれたな。
そこで初めて、助かった、と思った。
その瞬間、一気に力が抜けたのに体はガタガタ震えだしてきた。
声も出ない。体も動かせない。涙すら、出ない。
信じられない。信じられない。今、私、本気で殺されかかった?
彼が、切なそうに瞳を細めた。彼の右手が私の後頭部にまわった。
そして、ゆっくりと、無言で、私の頭を自分の肩に押し付ける。
固く、固く抱きしめられた。
彼の香りに包まれる。
今度こそ、本当に脱力した。
私、助かったんだ。
いつもは息が止まる様に痺れる彼の腕の中が、今は何よりも安心できる空間になっている。
碧さんは、私の頭に顔をうずめて動かなくなった。
・・・碧さん、本当に、助けに来てくれた・・・・。
「・・・気が、狂うかと思った・・・。」
碧さんの、掠れる様な、低い小さな、囁き。
まるで独り言の様なそれは、なんだか聞いてはいけない彼の弱音の様な気もして、私は黙っていた。
でも確かに、私の心を甘やかに、温かくしてくれた。
じわじわと胸に広がっていく。
目を開けると、碧さんのスーツやコートのあちこちが、擦り切れてよれていた。
顔をあげると、彼の腕がゆるんだ。見ると、袖口から血が流れ出た跡がある。
「・・・えと・・・。」
「もう大丈夫。」
怪我の事を聞きたかったのに、碧さんはもう一度、私に微笑んだ。
彼の綺麗な瞳が更に甘くなって、その長い睫毛が前髪に触れている。見つめられている。目が離せない。
ヤバい、カッコいい。王子様復活だ。
気付けば、車道には拓也と藤田さんが出ていて、片道2車線の道路の車を、両手をあげて止めていた。
「綾っ!」
拓也が振り返って叫ぶ。
「大丈夫かっ!!」
私はやっと、言葉が喉に戻ってきた。
「・・・こ・・・腰が抜けた・・・。」
ダメだ、立てない。下半身の感覚がない。力が入んない。
あ、私、トイレが遠い女で良かった。これ、近い人なら漏らしているんじゃない?
あれ?鼻血は大丈夫かな?思わず鼻の下を触って確認する。
だって碧さんの顔が間近で、拓也が駆け寄ってきて、
これはドラマのクライマックス、瞬間最高視聴率20%越えだもの、鼻血は避けたい、尿意は無い、じゃなくて、そうではなくて、えっとえっと、つまり何?
今頃頭がパニクってきた。
周りをみると、歩道に人だかりができている。
ああ、なんだっけ、これ。そうだ、この間の夏、河島健のロケを見た時の人だかりだ。あんな感じだ。あの時は撮影があったんだ、ってことは。
「・・・・おま・・・何してんの?」
こちらに近づいてきた拓也が、恐る恐る私に聞いてきた。
私は碧さんの腕の中で、周囲や上空や、可能な限り見渡せるだけ、きょろきょろと辺りを伺った。
「いや、どこかに、隠しカメラとか何か、ないかなあ、と思って。」
「・・・・はあ?」
「だってこんなベタな展開、まるで2時間サスペンスドラマのラストの様。
これはもしかしてひょっとすると、ドッキリか何かで、どこかにカメラが隠してあるかも・・・。」
「・・・・綾ちゃん?」
「・・・冗談なの?馬鹿なの?」
碧さんと拓也が同時に問いかける。
だけど私は、更に周りをグルグルキョロキョロと、必死に見まわしながら言った。
「だって、相手はゲーノージンだよ?きっとどこかに、タネや仕掛けが必ずあるハズ・・・・。」
「タネや仕掛けは何処にもねえよっ!!」
あ、拓也が顔を覆って座り込んだ。ちっちゃくなっちゃった。
「ええ?だって、じゃあ・・・・
えっ!?あれって本気?!そしてアレ、本物?!」
思わず大声を出して、沿道の人だかりを指さしてしまった。
見物人が出ちゃうほど、私って本気で殺されかかったの?見られちゃうほど大変な事だったの?!
そんなにヤバい事態だったのっ?!
「・・・天然スイッチ、最強だ。ここで入るんだ。」
「存外、厄介だな。」
碧さんの引いた言葉と、ああ藤田さんまでヒドイです。
「よいしょっと。」
碧さんが私をお姫様だっこした。
「わわわわわちょちょちょちょっと、降ろして下さいっ重いですっ。」
「だって腰抜けたんでしょ。」
そういって皆の前をスタスタと大股で歩く。
沿道の皆さま、老若男女問わず皆がこちらをガン見、ではなくて注目しているんだけれど、それは多分、私がこの騒ぎの中心人物である事よりも、碧さんがあまりにもカッコよすぎるからだと思う。
多分、じゃなくて絶対。
綺麗なカーブを描いた顎があり得ない程至近距離にあって、私はもう一度、軽く目眩を起こしそうになった。
「ダメですっ。あの、余計に腰が抜けますっ。」
「何だ、それ。」
クスッと笑うその表情が、いつものあの甘さにちょっぴり艶っぽい危険な雰囲気までブレンドされていて、ああもうだめ完璧腰が抜けました、どうしてくれるんですか、これ。
無意識でも色気振りまくのやめて下さい。
だめだこれ、きっと抱かれているのが敗因だ。一刻も早く降ろしてもらわなきゃ、人目も引きすぎて色んな意味で身が持たないわ。
なもんで、思わず不機嫌な顔になってしまう。
碧さんが、私の頭上でふわっと微笑んだ。本当に愛おしそうな眼をしている。
「あ、いつも通りの君に戻った。」
そう言って、いたずらっぽく笑った。
・・・もう無理~・・・。
「この場合、早い者勝ちだな。」
藤田さんが、拓也に言った。
拓也が何故か、横目で悔しそうに、少し拗ねたように藤田さんを睨んでいる。
「碧のあの、階段連続飛びを抜かせなかった時点で、お前の負けだろ、諦めろ。」
・・・何の話ですか?
藤田さんは私にニッコリ笑った。
いつものあの、胡散臭い綺麗な笑顔も、こうなると懐かしくってホッとするものですね。
碧さんが、歩道わきの、レンガ造りの花壇の端に、私をそっと降ろした。
「・・・ごめん。」
「・・・え?」
私は彼を見上げた。まるで覗きこむ様な形になる。
彼は長い睫毛を伏せて地面を見つめていたけど、すぐに私に視線を戻し、少し唇を噛み締めてから言った。
「騙して、ごめん。巻き込んで、ごめん。思い出させて、ごめん。」
「・・・・・。」
「怖い思いをさせて、ごめん。」
最後のそれは、碧さんのせいではないな、と思う。
でも、事の発端はすべて、碧さんと出会ったことから始まったかと思うと、
私を騙していた事もともかく、奈緒まで危険な目にあっていたかもしれない、と思うと、
言葉に、詰まる。
彼の言葉を、否定できない。
「今更、何も言えない。でも・・・可能なら。」
そこで彼は、いきなり私に頭を下げた。
「日下部さん。後で、俺に話をする、チャンスを下さい。」
「・・・え・・・。」
ビックリしてしまう。長身の、大人の男の人に頭を下げられるなんて、なんだか自分の手に負えない様な気がして、ドギマギしてしまう。
どうしよう、あの、とりあえず顔を上げて下さい。
「やめろよ。」
口を開いたのは拓也だった。え?
「そんな風にこいつに頭、下げんなよ。こいつが何も言えなくなるの、わかってんだろ?あんたのせいで泣いたんだ。」
げっ。それ言うの?
あの時の拓也の台詞と慰めを思い出して、何より陰で泣いている女って図が耐えられなくて、顔が真っ赤になってしまった。恥ずかしいよっ。
「チャンスをくれ、だなんて、虫が良すぎやしない?」
拓也の眼が、座る。
「むしろ殴らせろや。」
相手に絡む様に、ドスを効かせた声だった。
こんな拓也も見た事ないから怖いんだけど、それ以上に居心地が悪い。この状況、どうにかなんないかしら?
た、拓也、殴るの?
碧さんが眉根を寄せて、唇をきつく結ぶ。
拓也が鋭い目つきで相手ににじり寄る。
私は思わず、声をかけた。
「わ、私、歌おうか?」
思いっきりためて、眉間にしわを寄せて、拓也が振り返った。
「・・・は?」
眼が言ってる。お前、またかよ、と。
でも、だって、打破したいんだもん。ぶち壊したいんだもん、このいかにもってシチュエーション。
「ほら、何だっけ?昔の歌。河合なんとかって人の。えっと・・・。」
3人が、私を凝視する。え?誰も止めてくれないの?
ああ、やだなぁ。でもしょうがないなぁ。歌っちゃうよ?
「け、喧嘩をやめてー・・・。二人を止めてー・・・。わ、わたしーのためーにー・・・。」
ひぇぇぇ、この歌、死ぬほど恥ずかしいっ!よく歌えるわね、アイドルって偉い!!
コレを鼻歌にしていたお母さんも、偉いっ。
「あらそーわないーでー・・・・・・続けます?」
ああ、もう恥ずかしすぎる。顔が真っ赤だわ、誰の目も見れないっ。
「「「・・・・・。」」」
しーん、となってる。やめてぇぇぇ。
やがて、俯いた私の頭上で、拓也の疲れ切った声が聞こえてきた。
「俺、お前じゃなかったら、絶対どっかで殴ってる。」
お前って私の事?碧さんじゃなくて、私?だよね。
「ども。」
私は俯いたまま、答えた。
場が和んだ、と言う事で。身を呈した甲斐があったってもんです。
そして、拓也のため息。
「この件は、後。」
また歌わなきゃ。
私が顔を上げると、拓也と藤田さんが、碧さんを見ていた。
碧さんは私を見て少し苦笑すると、フッと瞳が暗くなった。
「今は。」
彼の正面、私の頭上を見つめながら、碧さんは静かに言った。
「先輩。あんたの兄貴、俺の視界から消して?でないと俺、あいつ殺すよ。」
その台詞に、ギクッとなった。
声のトーンも喋り方も、普段の碧さんと変わらない。
その調子で淡々と言うものだから、碧さんの表情は、河島の部屋でとは違った殺気に満ちていた。