何ですか?!それは 3
トイレに籠もる事10分近く。
「あ、いけるかも・・あ・・・あ・・・・。・・・あとちょっと・・・。」
「・・・ねえ、綾香ちゃん。さっきここを出ていった人、変な目で私達を見ていたわよ。」
「え?ホントですか?何でだろう?」
「・・・何で、でしょうねぇ。」
うふふ、と純さんが笑う。
純さんのスカートの中ほどについたビールのシミを落とすべく、立っている純さんの真ん前を陣取り、ほぼ座り込み、
水と石鹸とハンカチとティッシュペーパーを駆使して奮闘している私には、
正直、あまり周りの目は気にならないのです、ここ女子トイレだし。
すみません、私、今、純さんのスカートの中に下から手を突っ込んでいます。
うーん、あとちょっとっ、えいっえいっ!
私の気が済むようになされるがままの純さんは、つまりかなりの大人の余裕と思いやりを持った人みたいで、
私の肩をポンポンと優しく叩いて言った。
「ありがとう。もうすっかり落ちたわ。本当に大丈夫よ。」
「いえ、あと少しです。させて下さい、もうちょっとだけ・・・。」
「綾香ちゃんって、本当に真面目なガンバリ屋さんねぇ。」
柔らかく笑うその姿は、本当に優しいお姉さんそのもの。私はすっかり心が温かくなった。
これは碧さんが好きになるはずだわ。こんな女性に勝てる女の子は中々いないもの。
やっぱり、美男の隣には最高の美女がいるものなのね。世の中のセオリーなんだ。
完璧な仕事まであとちょっと、と没頭していたら、純さんが口を開いた。
「綾香ちゃん達、帰省先で碧くんと出会ったんですって?」
唐突に例の件の話を振られて、私は少しドキッとしてしまった。
えっと、あの、どう言えばいいんだろう・・・?
一人で焦ってくる。
なんとなくやましい所があって、大した事じゃないんだけど手とか繋いじゃったし、ってあれは碧さんの気遣いだったのだろうけど、おでことかキスされちゃったし、ってあれは言い訳出来なさそうで、私も弱冠誘っていたような気がするし、ってあれはお酒のせいだからってそれは言えないあぅあぅあぅ・・・。
「あ、はい・・・まあ、なんというか・・・。」
「碧くんに街案内してあげたんでしょ?ナンパ、上手にやれてた?」
面白そうにクスクス笑ってる。
そこには本来「彼女」が持つであろう不安、とか嫉妬、とか疑念、とか、そう言ったモノが微塵も感じられなくて、私は少し驚いてしまった。
流石、長いお付き合いの余裕、ってヤツですか?
突如、ひらめいた。
そうだ、純さんなら答えてくれるかな?
碧さんに質問してもはぐらかされそうな事、長年のお付き合いがある純さんなら何か知っていて、ひょっとしたら答えてくれるかもしれない。
うわ。名案。
そうだ、そうしよう。
私は思い切って、出来るだけ何でも無いようなふりをして、さり気なく聞いてみた。
「あの・・・純さんは、み・・塚本さんが、帰省した理由を知っていますか?」
「知ってるわよ。昔慕っていたお兄さんが殺された件でしょ?」
あまりの呆気なさに、面喰ってしまった。
あっけらかんと答える純さんに、肩すかしを食った様な気分になる。
純さんは楽しそうに微笑みながら言った。
「高校の時から碧くんって、あの通り、明るくって親しみやすくって、皆の輪の中心人物だったのよね。それなのに中学の時はグレて喧嘩三昧だったって噂がたっちゃうんだから、面白いでしょ?」
グレて・・・いたですか!?あの人が!!??
えーっ・・・ってああ、噂ですね。噂・・・。
確かに。あの顔で反り込み入ったヤンキー座りって、笑えるかも。・・・眉毛なしで?
「あの人ね、小学校の時にお母さんを交通事故で亡くしているの。多分、隣のお兄さんの事件のすぐ後に。」
話の流れもトーンも変えずに純さんが続けるものだから、頭の中でヤンキー妄想をしていた私は、一瞬ついていけずにフリーズしてしまった。
え?お母さんが交通事故?
でもすぐに話に追いつく。そう言えば拓也が、碧さんは両親共に他界、って言ってたわ。
でもそんなに小さい時に。
「お隣さんは父子家庭だったらしくって、碧くんは母子家庭で、そんな事もお互い親近感をもっていたみたい。」
母子家庭?!
次々とショッキングな新情報がもたらされるものだから、私は間抜けな姿勢のまま動けない。
「私の勝手な推測だけどね、お兄さんの事件が頭から離れなかったのは、お母さんの思い出や死と、お兄さんのそれとを、ダブらせていた所があるんじゃないのかな?大事な人を二人続けて亡くしたでしょ。まだ小学生だったし、すごくショックだったでしょうね。」
明るく笑って話す純さんの笑顔に、少し悲しげな切ない色が浮かんで見えた。
それが、碧さんのそれと、重なる。
「でもあの通り、碧くんは昔っから明るくて、影なんて殆んど見当たらないけどね。」
そう言ってニッコリと笑う純さんは可愛くて、輝いていて、
やっぱりそれは碧さんを彷彿とさせて、
ああ、この二人はどこか似ているのかも。こうやって二人で時を乗り越えてきたのだろうなあ、と
ただただ、眺める事しか出来なかった。
私の知らない、二人の歴史が、私に迫る。
胸が、詰まった。
「・・・母子家庭、だったんですか。」
「そう。・・・こっから先は、碧くんに直接訊いてね。あの人、ああ見えてかなりの照れ屋さんだから、中々自分の事を口割らないと思うけど。頑張って。」
そう言って純さんは私を立たせると、目の前で可愛らしくクスっと笑った。
・・・頑張って、ってそんな、こんな状態で、碧さんと話をしろなんて、そんなの無理だし・・・。
私側の準備が整っていないって言うのももちろんあるけれど・・・。
私は少し俯いてしまった。碧さんとダブる純さんの笑顔が見れない。
・・・こんな気持ちで、碧さんと話なんて出来ないよ・・・・。
・・・私が入り込む隙、っていうか、入り込もうなんて思っていないけど、
・・・目の前に立つ事すら出来ないよ・・・あの瞳を見る事なんて・・・
辛すぎて、苦しくて、出来ないよ。
こんなに、胸が切なくなる、予定は無かった。
「あ・・・はい・・・でも、私、そんなに碧さんと、あ、塚本さんとお話しする予定は・・・。」
「あれ?そうかな?でも碧くんは、きっと綾香ちゃんと話したいと思うわよ。」
・・え?
「・・・でも・・・。」
「うふふ。私ね、今日呼ばれた時、『ああ、安全パイに使われたな』って思ったの。それで面白そうだから来てみたのよ。どんな子が碧くんを悩ませているのかなあって。」
・・・えっと、・・・あれ・・・?
「会う前から話で、なんとなくどっちか想像ついていたけど、今日見たらもう、絶対そうだって思っちゃった。綾香ちゃんって、たまんないっ。可愛いもんっ。」
「・・・え・・・・っと・・・?」
私が顔を上げると、純さんは悪戯っぽく片目をつぶって見せた。
(ここにもウィンクの似合う人がいた。全く、このカップルは。)
「私達、とっくの昔に別れているわよ。大学卒業後、一年も持たなかったもの。」
そのセリフと笑顔に、私はビックリ仰天、ポカン・・・と口を開ける。
彼女はそんな私にお構いなく、とても可愛く、キラキラと言った。
「それに私、今だーりんがいるし?ラブラブなのよねっ。」
いつまでも口を開けて突っ立っている私は、今、最高に間抜けな顔をしているに違いない。