↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

『クゥン』とないた日 〜捨て犬だったボクが、大好きなご主人と過ごした愛おしい日々の記憶〜

掲載日:2026/07/18

 ご主人はボクを毎日散歩に連れて行ってくれる。


 お仕事の前、朝の5時から起きて、ランニングがてら。


 ご主人と川沿いを一緒に走るのは気持ちいい、風の音、海の匂い。

 

 最初は歩いていた。桜がきれいな時期だった。


 サクラ、ご主人が好きなお花。


 ボクは横をトコトコとついていった。


 本当はもっと早く走りたいけど、ご主人の隣を歩くのが好きだった。


 ゆっくり、ゆっくりご主人と歩く。景色を見て、匂いをかぎながら。


 ボクは大きく尻尾を振りながら『クゥン』と鳴いた。


————

 

 ある日からご主人は走りだした。


 ミーン、ミーンとセミがうるさい時期だった。


 暑い日で走るのはちょっとつらかった。


 ハァハァと舌を出してついていった。


 休憩の時、川に飛び込んでみたらまだ冷たかった。


 ご主人は驚いて川に入り、ボクを抱き上げた。


 ボクは体を大きく揺らし、水をはじきながら『クゥン』と鳴いた。


————

 

 涼しい時期になった。キンモクセイの香りがいい匂いだった。


 キンモクセイ。


 ご主人の奥さんの陽子さんが好きなお花。好きだったお花。


 走るのが速くなったご主人についていく。


 横を一緒に走る。


 たまに追い抜いて「こら、クーン、危ないから抜いちゃダメだよ」叱られた。


 ボクは尻尾を垂らし『クゥン』と鳴いた。


「クーン」というのはボクの名前だ。『クゥン』とよく鳴くからクーン。


 格好は良くない不本意な名前。でも、陽子さんがつけた名前だから嫌いじゃない。


 ご主人に怒られるのも悪くない。


 ボクはそう思えるようになったんだ。

 

————

 

 ご主人と出会う前のこと


 あの日は寒い日だった。


 本当に凍えるような日だった。


 木が枯れて冷たい風が吹く。


 ボクは箱の中で震えていた。


 橋の下、しんしんと白い雪が降っていた。


 体が冷たくなっていた。


 お腹が空いたな。


 健太くんはどこに行ったのかな。


 健太くんのお母さんが、ボクをここにつれてきた。


「ごめんね」といって、箱の中に毛布と一緒にボクを置いた。


 いつになったら健太くんとお母さんは、戻って来るのかな。


 遅いなぁ。


 ボクは震えながら小さく『クゥン』と泣いた。


 心も冷たくなってきた。


 寒いな。


 寒いな……


 なんだか眠いな……


 眠い……


 眠い……


 ……


 暖かい……


 暖かい……?


 ボクは目を開けた。


 布に包まれて運ばれていた。


 健太くんかな? と顔を上げた。


 知らない男の人だった。


 ボクは震えた。誰なのか、わからない。


 どこに連れて行かれるかも、わからない。


 ボクはただ、震えて『クゥン』と泣いた。


————


 知らない部屋に連れてこられた。


 ボクは部屋の隅に走って逃げた。


 精一杯歯をむき出し、男の人をにらんで唸った。


 ボクを連れてきた男の人は眉を下げた。


 扉を開けて奥の方にいなくなった。


 ボクはおずおずと扉の前まで歩いた。


 しばらくすると足音が聞こえたので、急いで部屋の隅に逃げた。


 いや、逃げたんじゃない「せんりゃくてきてったい」というヤツだ。


 男の人は湯気の出る白い液体が入ったお皿を持ってきた。


 甘い匂いがした。


 「美味しいものの誘いになんか乗るもんか」とボクはカーテンに身をひそめた。


 顔だけを出して唸った。


 男の人は大きく息を吐いて、肩をすくめた。


 隣にきれいな女の人が立っていた。甘い優しい匂いのする女の人。


 女の人はお皿の前に座ると、小さく両手を広げた。


「怖くないよ、こっちへおいで」小さく微笑み、手を振っていた。


 手からも不思議な匂いがした。


 匂いにつられて歩き出す。


 気づいたらボクは女の人の前に座っていた。


 頭を撫でられた。


 お腹を撫でられた。


 くすぐったくて転がった。


 尻尾を振りながら小さく『クゥン』と鳴いた。


 女の人はお皿をボクの前に置いた。


 ボクは舌を出して飲んだ。

 

 熱かった。ビクッと体を震わせた。


 女の人はそれを見て、お皿を手に取りフーフー息を吹きかけた。


 お皿をもう一度ボクの前に置いた。


 ゆっくりと飲んだ。


 温かかった。


 夢中で飲んだ。


 ボクは顔を上げた。


 女の人が頬を緩ませていた。


 その隣で男の人も、同じような表情をしていた。


 暖かかった。


 ボクは消え入るような声で『クゥン』と泣いた。


————

 

 それから男の人との生活が始まった。


「この人がご主人様よ」と女の人がご主人の腕に触れながら教えてくれた。


 ご主人との生活は楽しかった。


 自然が多いところ、人が多いところ、おいしそうなものがあるところ。車に乗って、いろんなところに連れて行ってくれた。


 おいしいご飯を食べたり、お風呂に入れてもらったり。


 いや、お風呂はあんまり好きじゃなかったな。


 時々いい匂いのする女の人も一緒だった。


 女の人の名前は陽子さんというらしい。ご主人の恋人。


 あとから教えてもらったけど、キンモクセイのクリームが好きで、いつも手に塗っているらしい。


 前に陽子さんが手に塗っているときに、直接匂いを嗅いだら、鼻が取れちゃうかと思った。


「犬には刺激が強いからダメよ?」と陽子さんは小さく笑いながら、ボクの頭をこつんと人差し指で押した。


 ボクは鼻をこすりながら「何するんだ」と思った。


 思ったそのとき、陽子さんはボクを抱きかかえてくれた。


 ボクは鼻を陽子さんの胸にうずめて『クゥン』と鳴いた。


————


 その日は、ご主人と陽子さんと三人で真っ白なキレイな建物に来ていた。


 建物の中も真っ白だった。


 正面にはキラキラと色とりどりに光る大きな窓があった。


 花がたくさん飾られていた。その中にキンモクセイもあった。


 形は知らなかったけど、匂いで分かった。


 ご主人は普段着ないような、明るい灰色の服を着ていた。


 髪の毛も普段と違う。ご主人じゃないようだった。


 陽子さんは真っ白な服を着ていた。建物や、お花、きらきらする窓よりもきれいだった。

 

 ボクは二人に見とれていた。目が離せなかった。


 二人の口が重なって、なんだかボクは寂しくなって、嬉しくなって。


 小さな声で『クゥン』と鳴いた。


————


 それから二人とボクとで暮らすようになった。


 陽子さんとご主人とボク。


 とても楽しい毎日だった。


 陽子さんは小さく口に手を添えて、遠慮がちに笑う人だった。


 ボクは陽子さんが好きだった。

 

 ご主人もよく笑っていた。ボクといるよりも自然で元気な笑顔だった。


 ボクは陽子さんとご主人を見ているだけで自然と尻尾が揺れた。

 

 だって、ご主人があんなに嬉しそうにするんだもん。


 ボクを助けてくれたご主人、ボクの大好きなご主人。


 ご主人の大好きな陽子さん。


 ボクは二人の笑顔を見つめながら、目を細めて『クゥン』と鳴いた。


————


 その日は土砂降りの日だった。


 ご主人と陽子さんは、なかなか帰ってこなかった。


 いつもはとっくに帰ってくる時間。扉の前でボクは座っていた。


 お腹が空いたけど、そんなことよりも二人がいないことがイヤだった。


 健太君に置いて行かれたときのことを思い出した。


 胸が痛くなった。心が寒くなった。


 玄関の前に寝転んで、扉を恨めしそうに見つめていた。


 ボクは小さな声で、誰にも聞こえない声で『クゥン』と鳴いた。


————


 次の日、ご主人は戻ってきた。服がヨレヨレだった。髪がぼさぼさだった。


 顔が笑っていなかった。目の周りにあとがあった。


 陽子さんはいなかった。

 

「ごめんな、遅くなって」と、体を撫でてくれた。


 ご主人がご飯をくれた。たくさん入れてくれた。


「数日間戻れないけど、いい子にしてるんだぞ」と、頭を撫でてくれた。


 ボクは返事をする前に、ご主人は出て行ってしまった。


 真っ黒な服をきて。


 なんだかいやだなとボクは思った。


 ボクはご飯を食べた。


 陽子さんに会いたいな。


 そんな風に思うと、食べる気にならなくて食べる代わりに『クゥン』と鳴いた。


————


 それから数日間が過ぎた。ご主人のいいつけ通り待った。


 お外に行きたかったけど、一人じゃいけないからガマンした。


 家の中のおもちゃで遊んで、おなかがすいたらご飯を食べた。


 ご主人は小さな袋と、陽子さんの笑顔の写真、あとはよくわからないものを持って帰ってきた。


 ボクは写真を見つめた。キンモクセイの匂いはしなかった。


 ご主人の顔を見つめた。


 怖かった。


 あんなに嬉しそうに笑うご主人が、


 優しそうに笑うご主人が、


 無表情だった。


 じっと、陽子さんの写真を見つめて、時々顔をゆがませた。


 無言のまま涙を流していた。


 ボクは陽子さんの写真を見せちゃいけない気がした。


 そんな顔のご主人が、陽子さんと一緒にいちゃいけない気がした。


 ボクはご主人の膝の上に乗った。


 じぃっとご主人の顔を見つめた、小さな声で『クゥン』と鳴いた。


 ご主人は消え入るような声で「陽子さんは……し……」と何かを言おうとして、黙り込んだ…


 ボクがもう一度『クゥン』と泣いた。


 ご主人は「陽子さんはいなくなっちゃったんだよ。クーン」と泣いた。


「クーン、俺たちは二人だけになっちゃったんだよ」と大きな声で泣いた。


 ボクはご主人の頬をなめた。必死で涙をぬぐった。


 何度も何度も頬をなめ、ご主人がボクを呼ぶ度に、ボクは一緒に『クゥン』と哭いた。


————


 ご主人は次の日はまだ元気がなかった。


 陽子さんの写真を大きな箱に飾り、お花を添えていた。


 日が沈み、昇り、また沈み、また昇った。


 お花は毎日変えていた。


 ご主人は毎朝、写真の陽子さんに話しかけていた。


 昨日は何を食べたとか、ボクとどこに行ったとか、体重がやせたとか、そんなことばかりだった。


 ボクはご主人が陽子さんとお話をするとき、いつも隣で聞いていた。


 話し終えると、決まってボクはリードを咥えてご主人に渡す。


 ご主人は頭を撫でながら「今日はどこまで行こうかな」と口角をあげた。


 ボクはその笑顔を見て『クゥン』と鳴いた。


————

 

 ボクとご主人の生活は続いた。


 春になり、夏になり、秋になり、冬になり、また、春になる。


 何度も季節を巡ると、ボクはだんだん走るのがつらくなってきた。


 ある日を境にボクは動くのがつらくなって、陽子さんの写真の前で寝る日が続いた。


 ボクは毎日陽子さんの写真を眺めながら、今までのことをお話しした。


 いつも最後は陽子さんに聞こえているのかわからないけど、小さな声で『クゥン』と鳴いた。


————

 

 そして、その日は訪れた。


 その日は朝から眠かった。体が動かず、横になっていた。


 外の桜がきれいだった。ご主人の好きな花。


 顎とお腹を地面につけ、寝そべっていた。


 まぶたが重い……


 眠い……


 ご主人がボクを抱きかかえていた。


 ご主人の顔がゆがんでいた。


 陽子さんがいなくなった日と同じだった。


「クーン! クーン!」とご主人がボクを呼んでいる。


 ボクは消え入るような声で『クゥン……』と鳴いた。


 声が出たかはわからなかった。


 ご主人が目から大粒の涙を流していた。


 ボクはご主人の涙を見たくなかった。


 がんばって体を起こして頬をなめた。


 一度だけ。


 二度目は無理だった。


 ご主人は更に泣き出してしまった。


 ああ……ご主人の笑顔が見たいな。


 陽子さんと一緒にいるときのあの笑顔。


 ボクは陽子さんの写真を見た。


 目の前に写真はなかった。


 代わりに真っ白な道が広がっていた。


 その先に陽子さんが立っていた。


 「そうだ! 陽子さんがいればご主人はまた笑顔になる!」


 ボクは陽子さんの方に駆けた。


 陽子さんは遠ざかっていく。


 ボクは必死で追いかけた。


 「ボクが陽子さんを…陽子さんをご主人の所に連れていくんだ!」


 ボクは決意に満ちた大きな声で『クゥン』と鳴いた。

===============【作者より】

 ひょんなことからかわいい動物モノの話を書くつもりがどうしてもこういう話になってしまいます。

 かわいさは確かにあるのですが、コレジャナイ感がすごいです。

 やはり私はゆがんでいるのだろうかと心配になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
犬の一人称で描かれているのがすごく良かったです。 最後の「陽子さんをご主人の所に連れていくんだ!」にも胸を打たれました。続きもあるのですかね? 応援の気持ちで⭐️も入れさせていただきました!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。