回復役の祈りは、最後まで折れない
回復役は、戦いの真ん中に立たない。
でも、誰かが倒れた瞬間だけは、一番前に立つ。
そういう役目だ。
焚き火は小さくても、ちゃんと温かい。
夜の空気は冷たくて、指先がかじかむ。息が白い。
明日。
明日、私たちは魔王の城に入る。
その言葉を頭の中で繰り返すたび、胃の奥がきゅっと縮んだ。
怖い。逃げたい。
でも、逃げたら誰かが死ぬかもしれない。
私の名前はリーネ。
勇者パーティの回復役だ。
剣は振れない。
攻撃魔法も使えない。
できるのは、傷を治して、血を止めて、立ち上がれない人を立たせることだけ。
……それだけ、なのに。
焚き火の向こうで、勇者のカイルが剣を磨いていた。
刃が火の光を拾って、薄く光る。
横顔は真っ直ぐで、迷いが少ない。
羨ましい。
私も、あんなふうにまっすぐでいられたらいいのに。
「リーネ、寒いのか?」
カイルが顔を上げた。
私は慌てて首を振る。
「大丈夫。火があるし」
「鼻、赤いぞ」
「ちょっとだけ。大丈夫だよ」
手袋の中で指を握る。
寒さのせいだけじゃない。緊張で血が引いている。
焚き火の反対側には、剣士のガルドが座っていた。
大きな身体。鎧も荷物も重そうなのに、背中がぶれない。
隣で魔法使いのミラが地図を広げ、指でなぞっている。
彼女はいつも状況を整える人だ。
「明日、城に入ったら回復が鈍ると思う」
ミラが淡々と言った。
私は胸が少し痛くなる。
「鈍る……?」
「魔王の城は空気が重いの。体が回復を受けつけにくい。だから無理しないで」
無理しないで。
それは優しさなのに、私には難しい言葉だった。
仲間が倒れているのに、無理をしない回復役って何だろう。
見て見ぬふり?
それなら、最初から回復役じゃない。
ガルドが短く言った。
「震えてるぞ、リーネ」
私はびくっとする。
「……平気」
「謝るな。震えるのは生きてる証拠だ」
優しい言い方じゃない。
でも、変に刺さらない。
「止まったら終わる。止まるな」
止まるな。
命令じゃなくて、守り方に聞こえた。
私は焚き火を見つめた。
火は揺れている。揺れながら消えずに残っている。
……私も、そうでいたい。
⸻
夜が深くなると、皆は順番に眠りについた。
カイルは最後まで起きていると言ったのに、剣を抱えたまま呼吸が整っていく。
ガルドも、目を閉じただけなのか寝たのか分からない。
ミラは地図を畳み、杖を抱えて背を丸めた。
私はひとり、焚き火のそばに残った。
眠れない。
目を閉じると、明日のことが浮かぶ。
血。叫び。倒れる影。
私が間に合わなかった瞬間。
怖くて、目を開けた。
私は手を胸の前で組む。
祈りの形。神殿で教えられた通りの形。
でも、神様に頼むのは少し違う気がして、私は小さく息を吐いた。
「カイル……」
ただ、名前を呼ぶ。
「ガルド……」
ひとりずつ。
声にすることで、存在がここに落ちてくる。
「ミラ……」
そして、最後に自分の名前も。
「リーネ」
明日も息をしていて。
明日も立っていて。
明日も、誰も欠けないで。
私はそれだけを心の中で願った。
祈りは、奇跡の呪文じゃない。
続けるための合図だ。
焚き火がぱちん、と音を立てた。
火の粉がひとつ飛んで、夜に消える。
私はそっと目を閉じた。
明日は来る。
来ても、止まらない。
⸻
朝。
霧が薄く漂い、空気が冷たい。
準備を終えた私たちは、魔王の城へ向かった。
城は谷の奥に沈むように建っていて、遠くからでも黒い。
近づくほど、空気が重くなる。
肌に触れる空気が湿っている。
呼吸が浅くなる。
同じ森のはずなのに、胸の中だけが暗くなる。
「嫌な感じ」
ミラが小さく呟いた。
いつも冷静な彼女の声が、ほんの少し揺れている。
「気を抜くな」
ガルドが言い、カイルは頷いて剣を握り直した。
私も杖を握り直す。
回復の杖。
私の武器。
城門は半分崩れていた。
扉は開いている。招かれているみたいに。
入った瞬間、空気が変わった。
冷たい。
ただの冷たさじゃない。
骨の中まで、気持ちまで冷えるような冷たさ。
足音が響く。
壁が湿っている。
どこかで水滴が落ちる音がする。
「来たか」
低い声。
天井近くの影が動き、大きな魔物が降りてきた。
鎧みたいに硬い皮膚。長い爪。
魔王じゃない。眷属だ。
でも、十分に強い。
「行く!」
カイルが前へ。
ガルドも横に並ぶ。
ミラは後ろで魔法の準備をする。
私は一歩下がる。
回復役が前に出すぎたら、倒れる。
倒れたら、皆が終わる。
最初の衝突は一瞬だった。
爪が振り下ろされ、ガルドが受け止める。
金属が軋む音。
ガルドの足が床を滑った。
「くっ……!」
その隙にカイルが斬り込む。
刃が入る。だが浅い。
魔物は笑うように息を吐き、もう一撃を叩きつけた。
ガルドが吹き飛んだ。
「ガルド!」
考えるより先に体が動いた。
私は走る。
鎧が割れて、血が滲んでいる。
呼吸が荒い。
「動かないで。今、治す」
杖を当て、祈りの言葉を口にした。
淡い光が生まれる。
……弱い。
いつもの半分くらいしか出ない。
ミラの言葉が刺さる。回復が鈍る。ここはそういう場所だ。
でも、止めない。
「戻れ……!」
私は声を強くして祈った。
光が少し濃くなり、血が止まる。割れた部分が少し繋がる。
ガルドが息を吐いた。
「助かった」
それだけ。
それでいい、という顔だった。
「前を見ろ、リーネ」
ガルドは起き上がろうとする。
私は肩を押さえた。
「待って、まだ……!」
「いい。立てる。お前は次に備えろ」
悔しい。
もっと完璧に治したい。
でもここでは限界がある。
私は歯を食いしばって戻った。
その瞬間、視界の端が少し暗くなった。
体温が落ちる。指先が冷える。
……代償が来てる。
回復は無限じゃない。
私の体力を削る。魔力を削る。
それでも、やるしかない。
カイルが叫ぶ。
「今だ!」
剣が魔物の胸を貫き、魔物は崩れ落ちた。
床に倒れる音が重く響く。
私は息を吐く。
まだ入口だ。終わりじゃない。
⸻
城の奥へ進むほど、空気はさらに重くなる。
足が鉛みたいに重い。
耳鳴りがする。
ミラが私の肩を掴んだ。
「リーネ、無理しないで」
「……してない」
そう言ったのに、声が震えた。
している。分かってる。無理をしてる。
カイルが振り返る。
「リーネ、下がれ!顔色が――」
私は首を振った。
「下がったら、誰が戻すの」
自分でも驚くくらい、はっきり言えた。
カイルの目が揺れる。
強い人ほど、自分の限界に気づきにくい。
私はその限界を支える役だ。
⸻
魔王の間へ続く廊下。
そこで空気がさらに変わった。
冷たいのに、息が苦しい。
胸の奥が押される。
影が揺れた。
影の中から黒い刃みたいなものが伸びる。
「来る!」
ミラが叫ぶ。
次の瞬間、黒い影がガルドの足を掴んだ。
「くっ……!」
ガルドが引きずられる。
壁の方へ。影が飲み込むように引っ張る。
私は走った。
杖を振り上げ、祈る。
光が出ない。
「……え?」
もう一度。強く。
でも光は出ない。
背筋が凍る。
魔王の声が、頭の中に響いた。
『無意味だ』
耳で聞く音じゃない。
心を直接掴まれる圧だ。
『お前の祈りは、何も救えない』
息が詰まる。
手が震える。
足が止まる。
――私がいなければ。
――もっと強い誰かがいれば。
そんな考えが黒い泥みたいに広がっていく。
ガルドの身体が影に半分沈んだ。
鎧が軋む。骨が鳴る。
その音が、私の心を折りにくる。
「リーネ!」
カイルの声。
でも私は動けない。
祈りが折れる。
折れたら終わる。
そのとき、ガルドの手が伸びた。
影に沈みながら、私の腕を掴む。
「……お前がいなきゃ、ここまで来てない」
苦しい声なのに、真っ直ぐだった。
「立て。折れるな」
その言葉が胸を叩いた。
ミラも叫ぶ。
「リーネ!祈りは結果じゃない!立ち続けることだ!」
結果じゃない。
立ち続けること。
私は息を吸った。
震える手で杖を握り直す。
神様に届かなくてもいい。
魔王に届かなくてもいい。
届かせたいのは、目の前の仲間だ。
「まだ、終わらせない!」
祈りの言葉を口にする。
光が、今度は生まれた。
弱くて、揺れて、でも確かに光。
私はガルドの足元に光を流し込む。
影が焼けるように薄れ、ガルドの身体が床へ戻る。
「はぁっ……!」
ガルドが息を吐いて立ち上がった。
痛みで顔を歪めながらも剣を構える。
「よし。行くぞ」
カイルが私を見た。目が赤い。涙じゃない。悔しさだ。
「リーネ……ありがとう」
私は頷く。
喉が痛い。胸が熱い。
それでも立てている。
祈りは折れていない。
⸻
魔王の間の扉は重かった。
カイルが押し開けると、冷たい風が吹きつけた。
そこにいた。
魔王。
黒い鎧。赤い瞳。
姿より、空気が怖い。
存在が重い。呼吸を奪う。
「来たか」
魔王の声は静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
「勇者よ。剣士よ。魔法使いよ……そして回復役よ」
最後に私を呼んだ。
心がざわつく。
「お前の祈りが、一番邪魔だ」
魔王が笑う。
笑い声が部屋の隅まで伸びる。
戦いは一瞬で始まった。
カイルが突っ込む。
ガルドが支える。
ミラが道を作る。
魔王の一撃は重い。
剣を弾き、盾を砕き、魔法を押し返す。
私は祈り続けた。
傷ができるたび止める。
倒れかけるたび戻す。
光は薄い。
でも続ける。
続けるほど、体の中が空っぽになっていく。
足が震える。視界が欠ける。呼吸が浅い。
……限界が近い。
それでも止めない。
止めたら誰かが死ぬ。
魔王が腕を振り下ろした。
黒い刃が伸びる。
カイルが避けきれない。
「カイル!」
刃が胸を貫いた。
赤い血が飛び、カイルが膝をつく。
世界が止まったみたいに見えた。
ガルドが叫び、魔王へ斬りかかる。
ミラが魔法で押し返す。
でも、カイルの傷は深い。深すぎる。
私は走った。
足がもつれる。転びそうになる。
それでも走る。
カイルの胸から血が止まらない。
呼吸が薄くなる。目がぼんやりする。
「リーネ……?」
彼の目に浮かぶのは、死の恐怖じゃない。
仲間を置いていく恐怖だった。
「だめ。死なないで」
杖を胸に当て、祈る。
光が生まれる。……でも足りない。
間に合わない。
ここで必要なのは、いつもの回復じゃない。
大回復。
自分を削る回復。
「リーネ!やめて!」
ミラの声が飛ぶ。
「それを使ったら……!」
分かってる。
使えば私は壊れる。
声が出なくなるかもしれない。立てなくなるかもしれない。
それでも。
私はカイルの手を握った。
剣を握る手が、こんなに冷たいなんて。
「生きて」
震える声で言う。
「あなたの明日を、私が見たい」
カイルの目が揺れた。
何か言おうとしたけど、言葉にならない。
私は息を吸った。
喉が焼ける。胸が痛い。
「……戻れ」
光が弾けた。
眩しい。
温かい。
でも温かさの中に、冷たいものが混ざっている。
私の中の何かが削れていく感覚。
視界が白くなる。
耳が遠くなる。
それでも、カイルの傷が塞がっていく。
血が止まり、呼吸が戻る。目に焦点が戻る。
カイルが息を吸った。
「……っ!」
生きてる。
その瞬間、膝が崩れそうになった。
体が言うことを聞かない。
カイルが私を支えようとする。
でも私は首を振った。
今は、彼が前へ行く番だ。
「カイル……!」
声が出ない。
喉が震えて、音にならない。
私は自分の口元に手を当てた。
声が消えた。
代償。
これが、私の代償。
でも、いい。
カイルが立ち上がった。
剣を握る手が、さっきより強い。
「……俺を生かしたな」
彼は私を見て、目を細めた。
「ありがとう。今度は俺が終わらせる」
ガルドが魔王の前に立つ。
盾になるように。
「行け、勇者!」
ミラが魔法で道を開く。
光が走る。
カイルが踏み込む。
魔王の黒い刃が迫る。
カイルは避けない。真っ直ぐ突き進む。
剣が魔王の胸に刺さった。
短い音。
風が止まる音。
魔王が目を見開く。
「……祈り、か」
悔しそうな声。
そして黒い鎧が崩れ、煙のように消えていく。
床が軽くなる。
空気が軽くなる。
重かった世界が、やっと息をする。
私はその場に座り込み、肩で息をした。
声は出ない。
でも胸の奥に熱がある。
生きてる。
皆、生きてる。
それだけで泣きそうになった。
⸻
外に出ると、夜明けが近かった。
空は薄い青。
冷たい風が吹く。でもさっきまでの重さはない。
私たちは城の外に座り、しばらく動けなかった。
体は重い。けれど、生きている重さだ。
カイルが私の隣に座った。
私の手を握る。
温かい。
ちゃんと温かい。
「リーネ」
返事をしようとして、声が出ないことを思い出す。
私は頷いた。
カイルは苦しそうに笑った。
「……俺、怖かった」
勇者がそう言うのはずるい。
胸がまた熱くなる。
「お前がいなかったら、俺はここで終わってた」
私は首を振る。違うと言いたい。
でも言葉がない。
代わりに、もう一度頷いた。
私はここにいる。
それだけで、十分だ。
ガルドが近づいてきて、私の頭を軽く叩く。痛くない。
「よくやった」
短い言葉。
でも全部入っていた。
ミラが目をこすりながら言う。
「あなた、バカ……でも……」
言い切れず、ミラは口を押さえた。
涙が落ちる。
彼女が泣くのを初めて見た。
私は笑った。
声はなくても、笑える。
朝日が城の上に差し込み、冷たい石を少しずつ温める。
私は胸の前で手を組んだ。
声は出ない。
でも祈れる。
神様にじゃない。
仲間に。
心の中で、名前を呼ぶ。
カイル。
ガルド。
ミラ。
リーネ。
今日も、生きてる。
回復役の祈りは、最後まで折れなかった。
折れなかったから、朝が来た。
私は握られた手の温かさを確かめながら、静かに目を閉じた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
この短編で書きたかったのは、“強さ”の種類です。
剣で勝つ強さ、魔法で押し返す強さ、それももちろん格好いい。
でも、いちばん折れやすい場所に立ちながら、最後まで立ち続ける強さは、もっと静かで、もっと苦しい。
回復役は、派手に勝たない。
代わりに「終わらせない」を積み重ねます。
息を止めそうな夜に、ひとつずつ命を戻していく。
その積み重ねが、最後の一撃を“届く場所”まで運んでいく。
回復役の祈りは、読んでくれたあなたの中でも、少しだけ温かく残ると嬉しいです。




