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回復役の祈りは、最後まで折れない

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/22

 回復役は、戦いの真ん中に立たない。

 でも、誰かが倒れた瞬間だけは、一番前に立つ。


 そういう役目だ。


 焚き火は小さくても、ちゃんと温かい。

 夜の空気は冷たくて、指先がかじかむ。息が白い。


 明日。

 明日、私たちは魔王の城に入る。


 その言葉を頭の中で繰り返すたび、胃の奥がきゅっと縮んだ。

 怖い。逃げたい。

 でも、逃げたら誰かが死ぬかもしれない。


 私の名前はリーネ。

 勇者パーティの回復役だ。


 剣は振れない。

 攻撃魔法も使えない。

 できるのは、傷を治して、血を止めて、立ち上がれない人を立たせることだけ。


 ……それだけ、なのに。


 焚き火の向こうで、勇者のカイルが剣を磨いていた。

 刃が火の光を拾って、薄く光る。

 横顔は真っ直ぐで、迷いが少ない。


 羨ましい。

 私も、あんなふうにまっすぐでいられたらいいのに。


「リーネ、寒いのか?」


 カイルが顔を上げた。

 私は慌てて首を振る。


「大丈夫。火があるし」


「鼻、赤いぞ」


「ちょっとだけ。大丈夫だよ」


 手袋の中で指を握る。

 寒さのせいだけじゃない。緊張で血が引いている。


 焚き火の反対側には、剣士のガルドが座っていた。

 大きな身体。鎧も荷物も重そうなのに、背中がぶれない。


 隣で魔法使いのミラが地図を広げ、指でなぞっている。

 彼女はいつも状況を整える人だ。


「明日、城に入ったら回復が鈍ると思う」


 ミラが淡々と言った。

 私は胸が少し痛くなる。


「鈍る……?」


「魔王の城は空気が重いの。体が回復を受けつけにくい。だから無理しないで」


 無理しないで。

 それは優しさなのに、私には難しい言葉だった。


 仲間が倒れているのに、無理をしない回復役って何だろう。

 見て見ぬふり?

 それなら、最初から回復役じゃない。


 ガルドが短く言った。


「震えてるぞ、リーネ」


 私はびくっとする。


「……平気」


「謝るな。震えるのは生きてる証拠だ」


 優しい言い方じゃない。

 でも、変に刺さらない。


「止まったら終わる。止まるな」


 止まるな。

 命令じゃなくて、守り方に聞こえた。


 私は焚き火を見つめた。

 火は揺れている。揺れながら消えずに残っている。


 ……私も、そうでいたい。



 夜が深くなると、皆は順番に眠りについた。

 カイルは最後まで起きていると言ったのに、剣を抱えたまま呼吸が整っていく。


 ガルドも、目を閉じただけなのか寝たのか分からない。

 ミラは地図を畳み、杖を抱えて背を丸めた。


 私はひとり、焚き火のそばに残った。

 眠れない。

 目を閉じると、明日のことが浮かぶ。


 血。叫び。倒れる影。

 私が間に合わなかった瞬間。


 怖くて、目を開けた。


 私は手を胸の前で組む。

 祈りの形。神殿で教えられた通りの形。


 でも、神様に頼むのは少し違う気がして、私は小さく息を吐いた。


「カイル……」


 ただ、名前を呼ぶ。


「ガルド……」


 ひとりずつ。

 声にすることで、存在がここに落ちてくる。


「ミラ……」


 そして、最後に自分の名前も。


「リーネ」


 明日も息をしていて。

 明日も立っていて。

 明日も、誰も欠けないで。


 私はそれだけを心の中で願った。

 祈りは、奇跡の呪文じゃない。

 続けるための合図だ。


 焚き火がぱちん、と音を立てた。

 火の粉がひとつ飛んで、夜に消える。


 私はそっと目を閉じた。

 明日は来る。

 来ても、止まらない。



 朝。

 霧が薄く漂い、空気が冷たい。


 準備を終えた私たちは、魔王の城へ向かった。

 城は谷の奥に沈むように建っていて、遠くからでも黒い。

 近づくほど、空気が重くなる。


 肌に触れる空気が湿っている。

 呼吸が浅くなる。

 同じ森のはずなのに、胸の中だけが暗くなる。


「嫌な感じ」


 ミラが小さく呟いた。

 いつも冷静な彼女の声が、ほんの少し揺れている。


「気を抜くな」


 ガルドが言い、カイルは頷いて剣を握り直した。


 私も杖を握り直す。

 回復の杖。

 私の武器。


 城門は半分崩れていた。

 扉は開いている。招かれているみたいに。


 入った瞬間、空気が変わった。


 冷たい。

 ただの冷たさじゃない。

 骨の中まで、気持ちまで冷えるような冷たさ。


 足音が響く。

 壁が湿っている。

 どこかで水滴が落ちる音がする。


「来たか」


 低い声。


 天井近くの影が動き、大きな魔物が降りてきた。

 鎧みたいに硬い皮膚。長い爪。


 魔王じゃない。眷属だ。

 でも、十分に強い。


「行く!」


 カイルが前へ。

 ガルドも横に並ぶ。

 ミラは後ろで魔法の準備をする。


 私は一歩下がる。

 回復役が前に出すぎたら、倒れる。


 倒れたら、皆が終わる。


 最初の衝突は一瞬だった。


 爪が振り下ろされ、ガルドが受け止める。

 金属が軋む音。

 ガルドの足が床を滑った。


「くっ……!」


 その隙にカイルが斬り込む。

 刃が入る。だが浅い。


 魔物は笑うように息を吐き、もう一撃を叩きつけた。


 ガルドが吹き飛んだ。


「ガルド!」


 考えるより先に体が動いた。

 私は走る。


 鎧が割れて、血が滲んでいる。

 呼吸が荒い。


「動かないで。今、治す」


 杖を当て、祈りの言葉を口にした。

 淡い光が生まれる。


 ……弱い。


 いつもの半分くらいしか出ない。

 ミラの言葉が刺さる。回復が鈍る。ここはそういう場所だ。


 でも、止めない。


「戻れ……!」


 私は声を強くして祈った。

 光が少し濃くなり、血が止まる。割れた部分が少し繋がる。


 ガルドが息を吐いた。


「助かった」


 それだけ。

 それでいい、という顔だった。


「前を見ろ、リーネ」


 ガルドは起き上がろうとする。

 私は肩を押さえた。


「待って、まだ……!」


「いい。立てる。お前は次に備えろ」


 悔しい。

 もっと完璧に治したい。

 でもここでは限界がある。


 私は歯を食いしばって戻った。


 その瞬間、視界の端が少し暗くなった。

 体温が落ちる。指先が冷える。


 ……代償が来てる。


 回復は無限じゃない。

 私の体力を削る。魔力を削る。

 それでも、やるしかない。


 カイルが叫ぶ。


「今だ!」


 剣が魔物の胸を貫き、魔物は崩れ落ちた。

 床に倒れる音が重く響く。


 私は息を吐く。

 まだ入口だ。終わりじゃない。



 城の奥へ進むほど、空気はさらに重くなる。

 足が鉛みたいに重い。

 耳鳴りがする。


 ミラが私の肩を掴んだ。


「リーネ、無理しないで」


「……してない」


 そう言ったのに、声が震えた。

 している。分かってる。無理をしてる。


 カイルが振り返る。


「リーネ、下がれ!顔色が――」


 私は首を振った。


「下がったら、誰が戻すの」


 自分でも驚くくらい、はっきり言えた。

 カイルの目が揺れる。


 強い人ほど、自分の限界に気づきにくい。

 私はその限界を支える役だ。



 魔王の間へ続く廊下。

 そこで空気がさらに変わった。


 冷たいのに、息が苦しい。

 胸の奥が押される。


 影が揺れた。

 影の中から黒い刃みたいなものが伸びる。


「来る!」


 ミラが叫ぶ。


 次の瞬間、黒い影がガルドの足を掴んだ。


「くっ……!」


 ガルドが引きずられる。

 壁の方へ。影が飲み込むように引っ張る。


 私は走った。

 杖を振り上げ、祈る。


 光が出ない。


「……え?」


 もう一度。強く。

 でも光は出ない。


 背筋が凍る。


 魔王の声が、頭の中に響いた。


『無意味だ』


 耳で聞く音じゃない。

 心を直接掴まれる圧だ。


『お前の祈りは、何も救えない』


 息が詰まる。

 手が震える。

 足が止まる。


 ――私がいなければ。

 ――もっと強い誰かがいれば。


 そんな考えが黒い泥みたいに広がっていく。


 ガルドの身体が影に半分沈んだ。

 鎧が軋む。骨が鳴る。

 その音が、私の心を折りにくる。


「リーネ!」


 カイルの声。

 でも私は動けない。


 祈りが折れる。

 折れたら終わる。


 そのとき、ガルドの手が伸びた。

 影に沈みながら、私の腕を掴む。


「……お前がいなきゃ、ここまで来てない」


 苦しい声なのに、真っ直ぐだった。


「立て。折れるな」


 その言葉が胸を叩いた。


 ミラも叫ぶ。


「リーネ!祈りは結果じゃない!立ち続けることだ!」


 結果じゃない。

 立ち続けること。


 私は息を吸った。

 震える手で杖を握り直す。


 神様に届かなくてもいい。

 魔王に届かなくてもいい。


 届かせたいのは、目の前の仲間だ。


「まだ、終わらせない!」


 祈りの言葉を口にする。

 光が、今度は生まれた。


 弱くて、揺れて、でも確かに光。


 私はガルドの足元に光を流し込む。

 影が焼けるように薄れ、ガルドの身体が床へ戻る。


「はぁっ……!」


 ガルドが息を吐いて立ち上がった。

 痛みで顔を歪めながらも剣を構える。


「よし。行くぞ」


 カイルが私を見た。目が赤い。涙じゃない。悔しさだ。


「リーネ……ありがとう」


 私は頷く。

 喉が痛い。胸が熱い。

 それでも立てている。


 祈りは折れていない。



 魔王の間の扉は重かった。

 カイルが押し開けると、冷たい風が吹きつけた。


 そこにいた。


 魔王。


 黒い鎧。赤い瞳。

 姿より、空気が怖い。

 存在が重い。呼吸を奪う。


「来たか」


 魔王の声は静かだった。

 静かすぎて、逆に怖い。


「勇者よ。剣士よ。魔法使いよ……そして回復役よ」


 最後に私を呼んだ。

 心がざわつく。


「お前の祈りが、一番邪魔だ」


 魔王が笑う。

 笑い声が部屋の隅まで伸びる。


 戦いは一瞬で始まった。


 カイルが突っ込む。

 ガルドが支える。

 ミラが道を作る。


 魔王の一撃は重い。

 剣を弾き、盾を砕き、魔法を押し返す。


 私は祈り続けた。

 傷ができるたび止める。

 倒れかけるたび戻す。


 光は薄い。

 でも続ける。


 続けるほど、体の中が空っぽになっていく。

 足が震える。視界が欠ける。呼吸が浅い。


 ……限界が近い。


 それでも止めない。

 止めたら誰かが死ぬ。


 魔王が腕を振り下ろした。

 黒い刃が伸びる。


 カイルが避けきれない。


「カイル!」


 刃が胸を貫いた。

 赤い血が飛び、カイルが膝をつく。


 世界が止まったみたいに見えた。


 ガルドが叫び、魔王へ斬りかかる。

 ミラが魔法で押し返す。

 でも、カイルの傷は深い。深すぎる。


 私は走った。

 足がもつれる。転びそうになる。

 それでも走る。


 カイルの胸から血が止まらない。

 呼吸が薄くなる。目がぼんやりする。


「リーネ……?」


 彼の目に浮かぶのは、死の恐怖じゃない。

 仲間を置いていく恐怖だった。


「だめ。死なないで」


 杖を胸に当て、祈る。

 光が生まれる。……でも足りない。


 間に合わない。


 ここで必要なのは、いつもの回復じゃない。

 大回復。

 自分を削る回復。


「リーネ!やめて!」


 ミラの声が飛ぶ。


「それを使ったら……!」


 分かってる。

 使えば私は壊れる。

 声が出なくなるかもしれない。立てなくなるかもしれない。


 それでも。


 私はカイルの手を握った。

 剣を握る手が、こんなに冷たいなんて。


「生きて」


 震える声で言う。


「あなたの明日を、私が見たい」


 カイルの目が揺れた。

 何か言おうとしたけど、言葉にならない。


 私は息を吸った。

 喉が焼ける。胸が痛い。


「……戻れ」


 光が弾けた。


 眩しい。

 温かい。

 でも温かさの中に、冷たいものが混ざっている。


 私の中の何かが削れていく感覚。


 視界が白くなる。

 耳が遠くなる。


 それでも、カイルの傷が塞がっていく。

 血が止まり、呼吸が戻る。目に焦点が戻る。


 カイルが息を吸った。


「……っ!」


 生きてる。


 その瞬間、膝が崩れそうになった。

 体が言うことを聞かない。


 カイルが私を支えようとする。

 でも私は首を振った。


 今は、彼が前へ行く番だ。


「カイル……!」


 声が出ない。


 喉が震えて、音にならない。


 私は自分の口元に手を当てた。

 声が消えた。


 代償。

 これが、私の代償。


 でも、いい。


 カイルが立ち上がった。

 剣を握る手が、さっきより強い。


「……俺を生かしたな」


 彼は私を見て、目を細めた。


「ありがとう。今度は俺が終わらせる」


 ガルドが魔王の前に立つ。

 盾になるように。


「行け、勇者!」


 ミラが魔法で道を開く。

 光が走る。


 カイルが踏み込む。

 魔王の黒い刃が迫る。

 カイルは避けない。真っ直ぐ突き進む。


 剣が魔王の胸に刺さった。


 短い音。

 風が止まる音。


 魔王が目を見開く。


「……祈り、か」


 悔しそうな声。

 そして黒い鎧が崩れ、煙のように消えていく。


 床が軽くなる。

 空気が軽くなる。

 重かった世界が、やっと息をする。


 私はその場に座り込み、肩で息をした。

 声は出ない。

 でも胸の奥に熱がある。


 生きてる。

 皆、生きてる。


 それだけで泣きそうになった。



 外に出ると、夜明けが近かった。

 空は薄い青。

 冷たい風が吹く。でもさっきまでの重さはない。


 私たちは城の外に座り、しばらく動けなかった。

 体は重い。けれど、生きている重さだ。


 カイルが私の隣に座った。

 私の手を握る。


 温かい。

 ちゃんと温かい。


「リーネ」


 返事をしようとして、声が出ないことを思い出す。

 私は頷いた。


 カイルは苦しそうに笑った。


「……俺、怖かった」


 勇者がそう言うのはずるい。

 胸がまた熱くなる。


「お前がいなかったら、俺はここで終わってた」


 私は首を振る。違うと言いたい。

 でも言葉がない。


 代わりに、もう一度頷いた。

 私はここにいる。

 それだけで、十分だ。


 ガルドが近づいてきて、私の頭を軽く叩く。痛くない。


「よくやった」


 短い言葉。

 でも全部入っていた。


 ミラが目をこすりながら言う。


「あなた、バカ……でも……」


 言い切れず、ミラは口を押さえた。

 涙が落ちる。

 彼女が泣くのを初めて見た。


 私は笑った。

 声はなくても、笑える。


 朝日が城の上に差し込み、冷たい石を少しずつ温める。


 私は胸の前で手を組んだ。

 声は出ない。

 でも祈れる。


 神様にじゃない。

 仲間に。


 心の中で、名前を呼ぶ。


 カイル。

 ガルド。

 ミラ。

 リーネ。


 今日も、生きてる。


 回復役の祈りは、最後まで折れなかった。

 折れなかったから、朝が来た。


 私は握られた手の温かさを確かめながら、静かに目を閉じた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


この短編で書きたかったのは、“強さ”の種類です。

剣で勝つ強さ、魔法で押し返す強さ、それももちろん格好いい。

でも、いちばん折れやすい場所に立ちながら、最後まで立ち続ける強さは、もっと静かで、もっと苦しい。


回復役は、派手に勝たない。

代わりに「終わらせない」を積み重ねます。

息を止めそうな夜に、ひとつずつ命を戻していく。

その積み重ねが、最後の一撃を“届く場所”まで運んでいく。


回復役の祈りは、読んでくれたあなたの中でも、少しだけ温かく残ると嬉しいです。

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