【#8】広間は無機質な空気で飽和する。
暖河亭は個人経営の旅館であるが、山の中腹という立地を利用した露天風呂、オーナー自らが厳選した素材を使った料理、几帳面なほどに隅々まで清掃の行き届いた無数の部屋といった魅力が、島随一の人気旅館にしてみせていた。
そして最大110人が催しを楽しめるこの宴会場もその魅力の1つだったのだが、今は数人がまばらに座っているだけで、名前に反して宴会とはほど遠い空気感であった。
麻凛達が長い長い廊下を歩いてたどり着いた先はここだった。めぐの父親───オーナーが靴を脱げと言わんばかりに作られている一段の段差をのぼり(のぼりというより歩き、だった)、碁盤上に施された木の装飾のついた戸を横に開くと、広々とした空間の真ん中に机が並べられているのが麻凛からも隙間から見えた。
「はい、みなさん、注目してくださーい」
オーナーが部屋の中に声を発した。麻凛の担任の、中年の男性教師を思い起こさせた。
「とりあえず、ここにいる人が全員集まったので、みなさん顔合わせしませんかー?」
返事は麻凛には聞こえ無かった。ただ中にいる人たちは承諾したようで、オーナーが振り返り、「入って好きなところに座って」と麻凛達に言った。それで4人は、オーナーの横を通り過ぎて中に入った。
宴会場は6つのテーブルが横長の部屋に合うように縦3列、横2列に配置されており、本当にいろいろな人達が座っていた。1つのテーブルに席は6つあり、3組がそれぞれ向かい合うように配置されていた。
広い宴会場の左手前の隅の方に頬杖をつきながら座る嬰都。その隣に座っていた蓮は、こちらに気がつくと少しほっとしたような表情になった。張之助は麻凛達から見て真ん中手前のテーブルに座っており、こちらを見て手を振ってきた。おそらく彼はこう思っているのだろう。″さっきぶりだね、麻凛チャン。CUTEな服に着替えて、SADな気分は晴れたかい?″。そしてその隣には……男性が座っている。知らない人だ。髪はボサボサで、明治時代の偉人を連想させるような、浴衣っぽい和服を着ている。あの服、なんて言うんだっけ。そもそも名前ってあったっけ? そして右奥の机には、いろんな服装の大人達がまとめて座っていたのだが、中には5人くらいびしっと統一している人達もいた。何人か立っている人もいた。ざっと15人はいるだろう。オーナーと同じ服装の人もいれば、一目見て私服だとわかるような人もいる。そしてほぼ全員が、こちらを見ている。
麻凛達は嬰都と蓮のいる左手前の机に足を進め、嬰都達とは反対側の一番右に座った。しかし少し考え、蓮の隣に座り直した。その間、蓮はずっとこちらを見ていた。めぐはそれを見て、麻凛と向かい合わせになるように座った。色違いのマフラーをまだ巻いている双子は隣り合うように椅子に腰掛けた。佳鈴が真ん中だ。麻凛が座り直したのは、この仲の良い双子のためだった。しかし2人とも、先程と比べて表情が硬くなっているように感じた。
「……えーと、これで全員来たのかな」
オーナーが誰も座っていない左奥のテーブルの椅子に向かった。時々後ろを振り向いて、何かを数えているようだった。言動からするに、この部屋の人数か。やがて椅子にたどり着いたようだったが、座ろうとはしていなかった。その代わりに、また声を張って言った。
「……突然発生したこの災害に何の対処もできず、結果、多くの犠牲者が出てしまった。そして、その中には、あなたたちの大切な人もいたかもしれない。遺憾です。本当に、遺憾です」
それをきっかけに、麻凛の視界に入る人全員の顔が暗みを増した。あの張之助も、落ち込んでいるとまでは言わないが、神妙な顔つきになっていた。めぐの顔は麻凛の目に映っていない。
オーナーは続ける。
「……だから、せめて、ここにいる人々の命は護りたい。私にはその義務があると思っています」
そして、空白が置かれた。麻凛には、小さく、でもしっかりと息を吸い込んでいるように見えた。
「私は、暖河港次といいます。みなさん、これからも力を合わせて全員で……全員で、生き延びましょう」
港次と名乗ったオーナーはそれだけ言うと、ようやくそばの椅子に腰掛けた。
港次の演説が終わったことにより、しばらくは20人以上が互いの目を見つめ合う時間が続いた。その全員───港次は除く───が、つかみ所のない目をしていた。麻凛はなんとなく不安になった。元から不安ではあったのだが、何かこう……のぼろうとしていたはしごの1つが、いつの間にか消えていたような、そんな気がした。向かいのめぐを見てみる。彼女は自分ではないどこかを、しきりに視点を移して見ていた。何をしているんだろう。
そして、そこに新しくはしごがかけられることになる。それも、全く予想だにしない人から。
「あ……あの!」
突然、声が聞こえてきた。めぐのものではなかった。もっと高く、小枝のように細い声が、わずかに耳の中に入ってきた。
女の人が席から立っていた。黒縁の眼鏡をかけていて、大人しそうな人だった。両隣にの男女が目を丸くしてその人を見上げている。
「ウスイさん…」
「顔合わせ、って仰ってましたよね……」
女の人は横を向いて、自信なさげな弱々しい声で言った。彼女を見上げている男性ではなく、その向こうを見ているようだった。港次を見ている、と、少ししてからわかった。
麻凛が港次の方を見ないうちに、女の人は再び全員が視野に入るように斜めを向いていた。
「わ、私は……両親が島に住んでるんです…だから、こ、この、洪水に、…」
そこまでで大体わかった。わかってしまった。それでまた、麻凛の背中を冷たいものが駆けることになった。あの直前、階段を上がる自分を見上げるように見上げていた母親。手を伸ばそうとすると、その姿が水にのまれる。そして、気づいたときにはもうどこにもいない。
「……!」
麻凛はめぐの物であるにも関わらず、着ているパーカーの布地を引っ張って握りしめた。目をぎゆっと瞑った。何で水色にしたのだろう。他の色だったら、このことを思い出すことも少なくなっただろうに。
そんな麻凛の頭上を、再び発せられた細い声がかすめた。
「だからっ……だから、みなさんで生き残りたいです! 私は!」
麻凛は目を開けた。声を発した女の人は、別に先程とは視点は変わっていないのだろうが、なぜか麻凛には自分の方を向いているような気がした。顔が赤い。それに、目に涙を浮かべているかもしれなかった。遠くてよく見えなかったが。
「私……雨水恵水っていいます……みなさん……生き残りましょう……!」
絞るような声だった。語尾が少しかすれていた。声も小さかった。でも、伝わった。
彼女が席に座ったその時、平たい音が響いた。誰かが拍手したのだとわかった。そしてそれは波紋状にどんどん広がっていった。
麻凛もそれに加わった。彼女に最大限の敬意と決意を込めて。




