【#3】盟友は何時でも君を思う。
2つの影が、夕日に照らされて橙に染まる船のデッキの柵にもたれかかり夕日を見るようにして風を浴びていた。どうやらそれは2人の少女であり、1人は長い黒髪を風でゆらゆらと揺らし、もう1人はポニーテールにした栗色の髪をなびかせていた。
2人は互いに向き合い、笑い合った。
その時だった。長い黒髪の少女が、突然風にあおられて、柵を乗り越えて落ちた。ポニーテールの少女が手を伸ばすも、届かなかった。
少女は海に着水した。服が水を吸い、体が意思に逆らって沈んでいく。蟻地獄にはまった蟻のように、必死にもがけばもがくほど、水面越しに見える船の影の輪郭がぼやけていく。小さくなっていく。
いやだ。いやだ。まだ終わりたくない。
少女は必死に手を伸ばした。
麻凛の目が開かれ、彼女の目の前には青い一面の上に白がまだら模様に浮かんで散っていた。空だ。麻凛は今、上を向いている。しかも、白いまだら……雲が、何度も大きくなったり小さくなったりを繰り返している。つまり、麻凛が寝転がっている場所は揺れていた。
唐突に、喉に激しい痛みを覚えた。麻凛は横を向いて、激しく咳き込んだ。その間息ができず、焦って心臓が引きつった。咳と共に霧状の水も多量に出てきた。
思い出した。めぐと話していたら、急に水が流れ込んできて、それで……。
麻凛は再び息が詰まって、小刻みに何度も呼吸した。無意識に喉を抑えていた。
そして同時に、黒く細い物も見えた。その下に、白いが下の方がグレーに変色している、見覚えのある形状の物……靴が。つまり、人がいる。
「あっ! あっ! あっ!!」
途端に上の方から、めぐほどではないが高い声が聞こえてきた。麻凛は顔を横に向けたまま、視線を上にずらした。
丸い目でこちらを見てくる少年がいた。
男子にしては少し長いくらいのボリュームのある髪で、幼さの残る顔立ち。学生服を着ている。おそらく中学校のものだろう。この少年が麻凛と違う学校に通っていなければの話だが。
「エイトさん! 目、覚ましましたよ!」
少年は麻凛とは別方向を見て叫んだ。空に響いていく感じがした。しかし返事は何もないようだった。カラスのものらしき鳴き声が空に広がっていた。
「ちょっと、エイトさん……」
やがて少年は、ひどく困惑しながら麻凛の視界から消えた。
残された麻凛はしばらくは自分の身の回りについて思いを巡らせていた。家族はどうなったのだろう。自分の家はもう沈んでしまったのだろうか。結局、悪い方向にしか進まなかった。
そうだめぐは……めぐはどうなったのだろうか?
麻凛はゆっくりと体を起こした。そして濡れて足にへばりついたスカートのポケットに手を入れる。やはりスマホはなかった。そうだろうなと思いつつも、心の隅で密かに落胆した。
「よお」
すると今度は、少し遠くの方で声がした。こちらは先程と比べてかなり低かった。麻凛の体が、びくっ、と跳ねた。
「大変だったな」
その声の主は麻凛の2メートルくらい前で座っていた。黒い服ということはわかったが、どういうものかわからなかった。フードがついている。髪はストレートな感じ。そして……木の棒のようなものをオールのようにして水面に半分ほど沈ませ、腕を動かしていた。
「この人はエイトさんだよ。僕が逃げた旅館で───」
「レン、いい」
レンというらしい制服の少年は、エイトというらしい青年に制され、肩身狭そうに黙り込んでしまった。
そこから、しばらく沈黙が流れた。麻凛は必死に、この気難しそうなエイトに話しかけるための話題を模索していた。おそらくそれは、レンも同じだっただろう。
だがその必要はなかったようだ。
「俺に感謝しろよ」
エイトはまず、ぼそぼそとした声でそう言った。呟いた、と言った方が正しいかもしれない。そのくらい小さく不安定な声だった。
「えっ……えっと……」
「レンの方を見てみろ」
言われるがままにレンの方を見た。目が合って、彼の純粋な目が一瞬反応した。しかしそのすぐ後ろには、何かが浮かんでいた。それは白かったり、黒かったり、茶色かったりと様々な色をしていたが、全部丸みを帯びていて、上半分だけを水面上に出した球体のようだった。
「あ……あれは……」
「……多分、水が押し寄せてきた時に逃げられなかった人たちだよ……」
麻凛はそこで、口を押さえた。絶句したのと、その後に押し寄せてきた酸っぱい物の逆流を防ぐためだった。
「吐くなよ。ボートを汚されたらたまったもんじゃねえ」
エイトはこちらを向きもせずに口を開いていた。
「俺が来なかったら、お前は今頃あの中の1人になってる」
そして、それは続けられていた。無慈悲に、残酷に。
「じゃ……じゃあ……私のお父さんは……お母さんは……」
「お前があんな感じだったんだ。沈んだだろうな」
それを聞いて、麻凛の思考は停止した。予想に反して、涙は出てこなかった。何でなのかはわからない。まだ現実として見ていないのかもしれない。
医者として島民の生活を守っていた父親。島の外への通学ということもあり、毎朝早くに起きて弁当を作ってくれていた母親。
なんで、もっと話しておかなかったんだろう。なんで、父の日とか母の日とかに何もあげられなかったんだろう。2人とも、「麻凛の頑張ってる姿が一番のプレゼントだ」と言ってくれたけど。それくらいに、優しい両親だったのだ。本当に。
「う……ううっ」
意識してもないのに、麻凛の目尻あたりがどんどん熱くなっていった。声をあげるということはなかったが、それでも、ただ心配そうに麻凛を見ていたレンには、十分痛々しさが伝わるものになっていた。
「……なあ。俺がなんでお前を助けたかわかるか?」
エイトが訊いた。麻凛はそれで赤い目をエイトの後ろ姿に向けた。それで涙も止まった。あまりにも場違いな質問のように思えた。
麻凛が黙っていると、ふぅ、とエイトが息をついた。
「ほら、これ、そいつに渡せ」
エイトはレンに、何か黒い手のひらほどの薄い板を渡した。レンは気を取り戻し、それを受け取った。
「あっ……これって……」
「いいから渡せ」
エイトに急かされ、レンはせかせかと動いて「それ」を麻凛に渡した。
それは、時間的には先程、感覚的にはずいぶんと前にベッドの上で沈んだものと同じ形の機械───スマホだった。機種が違うのか持ったときに少し違和感があったが、そんなことよりも驚いたことがあった。
『まりん……?』
すぐに、あの聞き慣れた高い声が、機械の奥から届けられた。濡れた服のせいで麻凛の体にもたらされていた冷感が一気に消えていくのを感じた。
「めぐちー……!」
『まりん? まりん! 大丈夫!?』
「大丈夫だよ……生きてる……」
すると、今度は画面の向こう側で、鼻をすする音がした。3秒ほどの間隔で、何度も何度も。麻凛は先程まで自分がその状態であったことも忘れ、さらに他人の物であるにも関わらず、そのスマホを両手でぎゅっと握りしめた。
『よかった……よかったよ……わたし……まりんが……まりんが無事じゃなかったら、どうしようって……』
「……ありがとう。めぐちー、大丈夫だった?」
『わたしは大丈夫だよ……』
「じゃあ、また会おうね」
『うん!』
「うし、もういいか。おいめぐ、切るぞ」
その低い声で、麻凛は急に現実に引き戻されたような気がした。そして気がつけば、麻凛とレンの方を一度も振り返らなかったあのエイトが麻凛の前に立ち、スマホを取り上げ、何かを操作していた。それも終わると、ズボンのポケットに入れてしまった。そして、元々座っていたボートの先頭に座り、手にしていた棒を水につけてこぎ始めた。一瞬だった。
呆気にとられると同時に、麻凛は思った。何でこの男はめぐの連絡先を知っているのだろう。親族とかでない限り、知っているはずないのだが……いや、めぐのコミュニケーション能力なら、それもありえるのか?
「よかったな。お前を思ってくれる奴がいて」
エイトが発した。
ここで、麻凛は初めてこの無愛想な男の顔を見た。目はやる気なさげに半目になっており、寝不足なのか目の下にくっきりとくまもできていた。
そして、エイトは続けざまに言った。
「俺は暖河嬰都だ。暖河めぐの兄にあたる。お前のこともめぐから聞いてる」
やはり親族だったか、と麻凛は思った。こんなだるそうな性格の人がめぐの兄だとはにわかに信じられなかったが、それでも、めぐの兄なら、多分悪い人じゃないだろう。
「お前もそのままじゃ凍えちまうだろ。帰るぞ」
「どこに……ですか?」
麻凛は訊き返した。すると嬰都はこちらを振り向き、にやりと笑った。
「決まってんだろ。暖河亭だよ。お前もめぐに会えるぞ」
笑みは口元だけだったが、つられて麻凛も笑み、それを見た隣のレンも笑顔になった。




