夜の散歩
あの六月の夜風は、いまでも覚えている。
日が沈んだあと、街の温度が一段落して、
アスファルトがようやく息をしているような時間帯だった。
僕は彼女と並んで歩いていた。
歩道の街灯が途切れるたびに、
二人の影が長く伸びたり、重なったりした。
会話の内容はたわいもないことだった。
大学のこと、最近読んだ本のこと、
そして、これからのこと。
言葉は途切れ途切れで、
沈黙が訪れても不思議と居心地は悪くなかった。
むしろ、その沈黙のほうが安心できた。
話さなくても、歩くリズムだけで
何かが伝わっているような気がしたからだ。
彼女は時折、夜空を見上げていた。
雲の切れ間から、かすかに星が見えた。
「この時間がいちばん好きなんです」と彼女が言った。
その言葉が、胸の奥に小さく沈んだ。
僕は返事をしなかった。
ただその横顔を見て、
“もう少しこの時間が続けばいい”と思った。
それから、よく夜に外へ出かけるようになった。
ドライブに誘われたこともあった。
目的地は決まっていなくて、
音楽をかけて、街の外れまで走った。
窓を開けると、夜風が髪を乱して、
信号の光が車内を淡く染めた。
会話は少なかったけれど、
沈黙がすでに言葉の代わりになっていた。
ときどき、笑い声が混ざる。
彼女の笑い方は、少し癖があって、
息を吸い込むように静かに笑う。
その笑いを聞くたびに、
僕の胸の中で何かがやわらかくほどけた。
世界の輪郭が、
少しずつ優しい形に変わっていく気がした。
六月の夜風は湿っていて、
その湿度が彼女の香水の匂いと混ざって、
どこか現実とは思えない甘さを帯びていた。
車のヘッドライトが通り過ぎるたびに、
彼女の横顔が一瞬だけ光に浮かぶ。
その一瞬のために、
僕は何度も目をそらせなくなっていた。
けれど、
幸せというのはいつも短くて、
少し油断すると、
すぐに現実がその隙間に入り込んでくる。
六月の終わり、
散歩の帰り道に、僕は告白をした。
それは、夜の空気が少し冷たくなり始めたころだった。
彼女は歩く速度をゆるめて、
僕の言葉を静かに待っているように見えた。
「ずっと話してると、落ち着くんだ。
一緒にいると、安心する。」
言葉を選びながら、
けれどどこかで、
“今しかない”という確信のようなものがあった。
彼女は少し俯いて、
しばらく何も言わなかった。
遠くで電車の音がして、
その音が、
僕の鼓動と一緒に夜の中へ溶けていった。
やがて、彼女が小さく息を吸って、
「ごめんなさい」と言った。
その言葉が届くまで、
ほんの一瞬、時間が止まったようだった。
風が鳴る音も、
街灯の下の虫の羽音も、
すべてが遠くでぼやけていく。
彼女は少し笑っていた。
申し訳なさと優しさの入り混じった、
あのときの笑顔を、僕はまだ思い出せる。
「ありがとう。
でも、私たちは、きっと違うと思う。」
それだけだった。
彼女は少し歩いて、
振り返ることなくそのまま帰っていった。
その背中が夜の中に溶けていくのを、
僕はただ見送っていた。
風が少し強くなった。
街灯の明かりが揺れて、
影が二つ、地面の上でほどけていった。
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちた。
涙は出なかった。
ただ、世界がまた一段階遠のいたように感じた。
帰り道、誰もいない坂道を下りながら、
僕はずっと手をポケットに入れていた。
ポケットの中で、指先が冷たくなっていた。
スマートフォンが震えても、
見る気にはなれなかった。
返ってくる言葉が、もうないことを知っていたからだ。
部屋に戻ると、
机の上にノートが開いたままだった。
昼に書いた英文がそのまま残っていた。
“to love is to suffer.”
どこかで読んだ一文を、
僕は無意識に書き写していたらしい。
その言葉が、
自分の未来を予言していたかのように思えた。
部屋の窓を開けると、
夜風がゆっくりと入ってきた。
カーテンが膨らみ、
紙がひらひらと舞い上がる。
僕はそれを眺めながら、
手のひらに残る熱を確かめていた。
さっきまで隣にいた人のぬくもりが、
もう指先から消えていこうとしていた。
その夜、
眠ることはできなかった。
街のどこかで、
まだ誰かが笑っているような気がした。
その笑い声が、
遠くの波音のように、静かに胸に残った。
六月の夜風は、
あの日からずっと、僕の中を吹き続けている。




